煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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婚姻弾・儀式の夜

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 黒角の咆哮が店全体を震わせ、木枠が軋む音が耳に刺さった。
 外はすでに夜の気配に沈み、街灯の薄い光が影だけを濃くしていく。
 その闇の奥で、赤い双眸がじっとこちらを睨みつけていた。

 凛を抱えた母さんは俺の後ろへ下がり、親父は店の正面に立って銃口を構えている。

「龍之介、準備しなさい。凛ちゃんの獣人化は――もう半分を越えてる」

 母さんの静かな声に、凛がびくりと肩を震わせた。

 肩から背にかけての毛は濃くなり、耳はすでに人間の形じゃない。
 膝の関節はわずかに反り、指先の爪は光を帯びて尖りはじめていた。

 それでも――
 俺に触れている手だけは、まだ人間の震え方だった。

「龍之介……怖い……。私……もう戻れないのかな」

 小さな声だった。
 立った獣耳が震え、黄金色の瞳が街灯の光を返す。

「戻れる。必ず戻す。だから……俺を信じろ」

 そのひと言に、凛の指が強く俺の手を握り返した。

 母さんが頷き、低い声で言う。「凛ちゃん、聞いて。婚姻弾は“完全な夫婦関係”じゃないと暴発する。けれど――貴方たちなら、最低限の儀式だけで成立させられる」

 母さんは俺に向きなおり「その代わり龍之介」厳しい目を向けた。「嘘は一つでもだめ。心を偽れば即死する。婚姻弾は、嘘を許さないの」

 胸がぎゅっと掴まれた。

 十五年、俺は言えなかった。
 凛が家に来るたび、距離を測って、踏み込めずにいた。
 言わずにきた想いは胸の奥で固まり、触るだけで痛くなるほどだった。

(……全部、言わなきゃいけないのか)

 “本物の婚姻弾”を作る――
 それはつまり、嘘をひとつも残さず、心を完全に凛へ委ねるということ。

 言い訳も、隠し事も、後回しも許されない。

 喉が渇く。心臓がうるさいほど鳴っていた。

 だが黒角は待ってくれない。

 壁の向こうで巨大な足音が響き、木板がゆっくりと歪む。

「……来るぞッ!」親父が銃を構え直し、外へ一歩踏み出した。

 俺は凛を振り返る。

 黄金色の瞳。
 吸い込まれそうな光。
 人間と獣の匂いが混ざった息遣い。

 覚悟を決めるしかなかった。

「凛。裏の小屋だ。ここじゃ儀式ができない」

「……うん」

 小さく頷くその声は、幼稚園の時、一緒に走ったときの“決意する声”と同じだった。
 逃げるんじゃなくて、進む時の声だ。

 母さんが凛の身体を支えながら俺に目配せする。

「龍之介。貴方の気持ちは……本物ね?」

「……ああ」

 迷いは、もうなかった。

 俺は凛の腰を抱え、小屋へ走った。
 母さんが扉を閉め、鍵を回す。
 空気がぴたりと止まる。

 小屋は津田家の“本物の婚姻弾専用室”だ。

 古い木の床。
 壁に並ぶ歴代夫婦の写真。
 祖父母、曾祖父母、そのまた前――
 婚姻弾の契約を結んだ者たちの記録。

 中央には丸い木の机が置かれ、その上には二本の古い煙草と、銀の空薬莢。

 凛は荒い呼吸で机に手をつく。

「はぁ……はぁ……龍之介……顔が、ぼやけてきた……」

 獣人化が視界に影響を出し始めている。

 俺は凛の肩を支えた。「大丈夫だ。すぐ儀式を始める」

「……うん……」

 だが、その前に――言わなければならない。

 母さんが告げる。

「龍之介。凛ちゃん。儀式を始める前に――互いの本心を告げ合って。それが“婚姻の契約”になる」

 凛の瞳がわずかに揺れた。

 その瞬間、外で轟音が走る。

 黒角が店の壁を破壊した音と、親父の怒声が響く。

 金属が弾ける音。
 獣の吠え声。
 黒角はもうすぐここへ来る。

 それでも。
 それでも俺は、凛の手を握った。

「凛」

「……龍之介?」

「俺は……ずっと……」

 喉の奥が熱く、手が震える。
 言えば、世界が変わる。
 でも、もう迷っている時間はない。

「十五年前から……お前が好きだった」

 凛が息を呑んだ。
 獣耳が震え、尻尾の付け根がぴくりと跳ねる。

「……っ」

 言葉は、止まらなかった。

「怖かった。言ったら距離ができるんじゃないかって。もし気持ちが違ったら、友達すら続けられないんじゃねぇかって。煙草屋としても、情報屋としても……お前みたいに強い奴の隣に立つ資格がない、って。ずっと勝手に思ってた」

 胸が苦しいほど熱い。

「でも……噛まれて、変わっていくお前を見て……
 守りたいじゃない……“離れたくない”って思ったんだ」

 凛の唇が震え、瞳が濡れる。

「……龍之介のバカ……そんなの……もっと早く言ってよ……!」

「悪い……」

 凛は俺の胸に額を押しつけ、伸びかけた爪でシャツを掴んだ。「……私だって……ずっと好きだった……。でもアンタが全然言ってこないから……気持ちが通じてないんだと思って……怖かった……。
だから仕事ばっかして……無茶もして……強がって……」

 肩が震え、涙が腕に落ちる。「ごめん龍之介……もっと早く言えたら……こんなこと……」

「いや。今言えたからいいんだ」

 凛が顔を上げ、涙を光らせながら笑う。

「……じゃあさ、私を……正式にパートナーにしてよ」

 迷う理由なんてなかった。

 母さんが二本の煙草を差し出す。

「じゃあ――儀式を始めましょう」

 外では黒角の吠え声が響き続ける。
 親父との激しい衝突音。
 時間はほとんど残っていない。

 だが小屋の中だけは、不思議と静かだった。

 凛が一本、俺が一本。
 煙草を口に咥え、顔を数センチまで近づける。

 息が触れ合う。
 涙の匂い、獣人化の匂い、いつもの凛の匂い。
 ぜんぶ混ざって胸に刺さる。

 凛が囁く。

「……ねぇ、龍之介。本気、だよね?」

「当たり前だ」

「……そっか。じゃあ……」

 二人同時に火を灯す。

 オレンジ色の火が揺れ、二つの煙がゆっくりと重なっていく。

 母さんの声が響く。

「二人とも――心を一つにして。偽れば、ここで死ぬわよ」

「偽らねぇよ」

「偽らない」

 二人の息が重なり、煙がひとつに絡む。

 白い煙は渦を巻き、銀の薬莢へ吸い込まれ、やがて赤い光を宿し始めた。

 凛の耳が痙攣し、瞳が黄金色に染まる。
 呼吸が荒くなる。

「っ……りゅ、のすけ……!」

「もうすぐだ……耐えろ……!」

 火が強まり、煙が一気に薬莢へ収束する。

 ――カチン。

 小さな金属音。

 銀の薬莢の中心には、真紅に輝く弾丸が生まれていた。

 母さんが静かな声で言う。

「……これで、本物の──婚姻弾が完成よ」

 その瞬間、小屋が揺れた。

 黒角がたどり着いたのだ。

 外から親父の怒声。「龍之介ッ!! 凛ちゃんを連れて来い!!トドメは……お前たちにしか刺せねえ!!」

 俺は弾丸を握りしめ、凛の手を取った。「行くぞ、凛」

「……うんっ!」

 黒角が待ち構えている。
 血のように赤い瞳で――
 俺たち夫婦を。

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