8 / 20
捌
葵という名の獣
しおりを挟む
──チリン……
風に揺れる鈴の音が、霧の奥へ溶けていった。
しかし、それは白廻が退いたという合図ではなかった。
「……音が途切れた時が、一番危険よ。白廻は“準備を整えた”ってことだから」
母さんが静かに告げる。
凛は俺の肩に寄りかかり、まだ微かに震える手で耳を覆う。
「やだ……この静けさ……逆に怖い……。白廻って……どんな人なの……?」
葵――母さんは、珍しく過去の痛みを帯びた表情を見せた。
「……白廻は、私を知ってる。私が獣人だった頃、“唯一殺せなかった女”が、白廻よ」
その言葉に、凛も親父も息を呑む。
俺も驚いた。
母さんは獣人化を克服した過去があるが、その詳細は家族にも多く語られていなかった。
母さんは深く息を吸い、静かに続ける。
「私が獣人化していた時期――“音”に敏感になっていたの。普通の獣人よりも、ずっと……ね」
凛が目を見開く。
「だから……白廻の“音の罠”を察知できた……?」
母さんは小さく頷いた。
「白廻は他の獣人を戦わせ、自分は安全な場所から音を操る戦法を取る。あの頃の私は、半獣人の感覚のまま暴れ回っていたから……、白廻にとって“貴重な標本”だったのでしょうね」
凛は息を呑む。
「じゃあ……白廻は葵さんを――」
「研究対象として狙っていた。駆け引きも、執念も、黒角とは比べ物にならない。黒角が“暴”なら、白廻は“智”」
親父が腕を組む。「だが黒角の死で、白廻の組織も揺れているはずだ。今が攻め時とも言えるが……」
母さんは首を振った。
「今飛び込めば、逆に利用される。白廻は“獣人化の引き金”について誰より詳しい。凛ちゃんを暴走させる手は、必ず打ってくる」
凛は苦しげに口を開く。「やだ……もうあんなの……嫌だ……。また、あんなふうに……耳とか……尻尾とか……変になっちゃう……」
俺は凛の手を包み、軽く握り返す。
「大丈夫だ。もう、そんな目には合わせねぇ」
凛は小さくうなずき、額を俺の肩に預ける。
――そのとき。
家の奥。
どこかで、何かが“息を潜めた”気配がした。
音はない。
だが、空気だけが、わずかに重くなる。
母さんの視線が鋭く跳ね上がった。
「……来る」
次の瞬間、微かな振動が伝わった。
地面が揺れる。
家全体が軋む。
親父が即座に防火シャッターを下ろす。
「来た…!白廻の“音以外の攻撃”だ!」
母さんが叫ぶ。
「龍之介!凛ちゃんを二階へ!ここは長く持たない!!」
俺は凛の手を取り、階段を駆け上がった。
だが――
二階の廊下は、既に白い霧に覆われていた。
「……!」
凛の耳が反応し、思わず俺の腕にしがみつく。
「龍之介……これ……白廻の……“音の霧”だ……。聞こえ方が……全部反転してる……右の音が左から、遠い音が近く……!」
「落ち着け。俺がついてる」
だが俺自身、足音の反射が狂い、敵の位置が掴みにくい。
(白廻……これが本気か)
凛は耳を押さえ、肩で小刻みに震えている。
「やだ……こんなんじゃ……戦えない……」
「戦う必要はない。守るだけだ」
しかし、その言葉を否定するかのように、霧の奥から声が届いた。
『――アオイ』
凛がビクッと震える。
俺も凍りついた。
母さんの名前――
白廻の声だ。
次に聞こえたのは、母さんの声を模した偽の声。
『逃げなさい、龍之介。凛ちゃんを置いて』
凛の顔が青ざめる。
「え……葵さん……っ?」
「違う!!」 俺は叫ぶ。
その声は母さんではない。
白廻が“音を模倣”しているのだ。
凛の混乱を狙っている。
俺は凛の肩を掴む。
「聞くな。白廻の声は偽物だ。俺の声だけを信じろ」
凛は必死に頷くが、涙が滲んでいた。
次の瞬間。
霧が揺れ――
“音の矢”が放たれた。
壁が砕け、木片が俺の頬をかすめる。
凛が叫ぶ。
「龍之介っ!!」
俺は凛を抱きかかえ、身を転がし、辛うじて二撃目をかわす。
(音だけで破壊してる……これが白廻の戦法か)
再び、白廻の声が霧の奥から響いた。
『アオイ……あなたの息子を頂くわ。あなたの“獣”を、私が完成させる』
凛の身体が強く震える。
「嫌……!嫌だっ……!!」
――そして。
霧の中に、影が一つ、静かに“立った”。
足音はない。
呼吸音もない。
ただ、そこに「居る」という圧だけがあった。
白い髪。
獣の耳。
静かな微笑。
――白廻。
凛は、完全に固まった。
白廻は穏やかに微笑む。
「こんにちは。新しい“婚姻弾”。貴方たちの力……研究させてもらうわ」
俺は凛を背に庇う。
「やってみろよ。凛は絶対に渡さねぇ」
白廻の瞳に、興味の光が宿る。
「貴方たち夫婦は……黒角より“美しい”わね」
凛が震え、叫ぶ。
「ふ、夫婦じゃ……!」
俺は言った。
「夫婦だ」
凛が赤くなるが、その言葉で白廻の動きは止まった。
白廻は、楽しげに微笑む。
「なら――正式に“婚姻弾”を頂戴するわ」
右手を上げる。
鈴が鳴る。
チリン――
その瞬間、俺の耳にだけ母さんの声が届いた。
『龍之介……凛ちゃんの手を取って。深く息を吸って。“反響”を使うのよ』
反響――
婚姻弾の生成で用いる呼吸を、戦闘に応用する。
凛の手を握る。
「凛、深呼吸だ」
「う、うん……!」
凛は胸に顔を寄せ、呼吸を合わせる。
白廻は微笑む。
「死にゆく夫婦の呼吸……美しいわね」
俺は言った。
「――夫婦は、死なねぇ。こういう時こそ、強ぇんだ」
次の瞬間。
二人の呼吸が重なり、足元の霧が揺れた。
凛の耳がピンと立ち、表情が変わる。
「……聞こえる……龍之介の“本当の音”が……白廻の位置……全部わかる……!」
俺は凛の手を握りしめた。
「行くぞ、凛」
白廻の目が見開かれる。
「まさか……“反響”を戦闘に使うなんて……葵……あなた……!」
凛が鋭く叫ぶ。
「アンタの音は――もう効かないッ!!」
白廻の微笑みが消え、完全な戦闘が始まった。
風に揺れる鈴の音が、霧の奥へ溶けていった。
しかし、それは白廻が退いたという合図ではなかった。
「……音が途切れた時が、一番危険よ。白廻は“準備を整えた”ってことだから」
母さんが静かに告げる。
凛は俺の肩に寄りかかり、まだ微かに震える手で耳を覆う。
「やだ……この静けさ……逆に怖い……。白廻って……どんな人なの……?」
葵――母さんは、珍しく過去の痛みを帯びた表情を見せた。
「……白廻は、私を知ってる。私が獣人だった頃、“唯一殺せなかった女”が、白廻よ」
その言葉に、凛も親父も息を呑む。
俺も驚いた。
母さんは獣人化を克服した過去があるが、その詳細は家族にも多く語られていなかった。
母さんは深く息を吸い、静かに続ける。
「私が獣人化していた時期――“音”に敏感になっていたの。普通の獣人よりも、ずっと……ね」
凛が目を見開く。
「だから……白廻の“音の罠”を察知できた……?」
母さんは小さく頷いた。
「白廻は他の獣人を戦わせ、自分は安全な場所から音を操る戦法を取る。あの頃の私は、半獣人の感覚のまま暴れ回っていたから……、白廻にとって“貴重な標本”だったのでしょうね」
凛は息を呑む。
「じゃあ……白廻は葵さんを――」
「研究対象として狙っていた。駆け引きも、執念も、黒角とは比べ物にならない。黒角が“暴”なら、白廻は“智”」
親父が腕を組む。「だが黒角の死で、白廻の組織も揺れているはずだ。今が攻め時とも言えるが……」
母さんは首を振った。
「今飛び込めば、逆に利用される。白廻は“獣人化の引き金”について誰より詳しい。凛ちゃんを暴走させる手は、必ず打ってくる」
凛は苦しげに口を開く。「やだ……もうあんなの……嫌だ……。また、あんなふうに……耳とか……尻尾とか……変になっちゃう……」
俺は凛の手を包み、軽く握り返す。
「大丈夫だ。もう、そんな目には合わせねぇ」
凛は小さくうなずき、額を俺の肩に預ける。
――そのとき。
家の奥。
どこかで、何かが“息を潜めた”気配がした。
音はない。
だが、空気だけが、わずかに重くなる。
母さんの視線が鋭く跳ね上がった。
「……来る」
次の瞬間、微かな振動が伝わった。
地面が揺れる。
家全体が軋む。
親父が即座に防火シャッターを下ろす。
「来た…!白廻の“音以外の攻撃”だ!」
母さんが叫ぶ。
「龍之介!凛ちゃんを二階へ!ここは長く持たない!!」
俺は凛の手を取り、階段を駆け上がった。
だが――
二階の廊下は、既に白い霧に覆われていた。
「……!」
凛の耳が反応し、思わず俺の腕にしがみつく。
「龍之介……これ……白廻の……“音の霧”だ……。聞こえ方が……全部反転してる……右の音が左から、遠い音が近く……!」
「落ち着け。俺がついてる」
だが俺自身、足音の反射が狂い、敵の位置が掴みにくい。
(白廻……これが本気か)
凛は耳を押さえ、肩で小刻みに震えている。
「やだ……こんなんじゃ……戦えない……」
「戦う必要はない。守るだけだ」
しかし、その言葉を否定するかのように、霧の奥から声が届いた。
『――アオイ』
凛がビクッと震える。
俺も凍りついた。
母さんの名前――
白廻の声だ。
次に聞こえたのは、母さんの声を模した偽の声。
『逃げなさい、龍之介。凛ちゃんを置いて』
凛の顔が青ざめる。
「え……葵さん……っ?」
「違う!!」 俺は叫ぶ。
その声は母さんではない。
白廻が“音を模倣”しているのだ。
凛の混乱を狙っている。
俺は凛の肩を掴む。
「聞くな。白廻の声は偽物だ。俺の声だけを信じろ」
凛は必死に頷くが、涙が滲んでいた。
次の瞬間。
霧が揺れ――
“音の矢”が放たれた。
壁が砕け、木片が俺の頬をかすめる。
凛が叫ぶ。
「龍之介っ!!」
俺は凛を抱きかかえ、身を転がし、辛うじて二撃目をかわす。
(音だけで破壊してる……これが白廻の戦法か)
再び、白廻の声が霧の奥から響いた。
『アオイ……あなたの息子を頂くわ。あなたの“獣”を、私が完成させる』
凛の身体が強く震える。
「嫌……!嫌だっ……!!」
――そして。
霧の中に、影が一つ、静かに“立った”。
足音はない。
呼吸音もない。
ただ、そこに「居る」という圧だけがあった。
白い髪。
獣の耳。
静かな微笑。
――白廻。
凛は、完全に固まった。
白廻は穏やかに微笑む。
「こんにちは。新しい“婚姻弾”。貴方たちの力……研究させてもらうわ」
俺は凛を背に庇う。
「やってみろよ。凛は絶対に渡さねぇ」
白廻の瞳に、興味の光が宿る。
「貴方たち夫婦は……黒角より“美しい”わね」
凛が震え、叫ぶ。
「ふ、夫婦じゃ……!」
俺は言った。
「夫婦だ」
凛が赤くなるが、その言葉で白廻の動きは止まった。
白廻は、楽しげに微笑む。
「なら――正式に“婚姻弾”を頂戴するわ」
右手を上げる。
鈴が鳴る。
チリン――
その瞬間、俺の耳にだけ母さんの声が届いた。
『龍之介……凛ちゃんの手を取って。深く息を吸って。“反響”を使うのよ』
反響――
婚姻弾の生成で用いる呼吸を、戦闘に応用する。
凛の手を握る。
「凛、深呼吸だ」
「う、うん……!」
凛は胸に顔を寄せ、呼吸を合わせる。
白廻は微笑む。
「死にゆく夫婦の呼吸……美しいわね」
俺は言った。
「――夫婦は、死なねぇ。こういう時こそ、強ぇんだ」
次の瞬間。
二人の呼吸が重なり、足元の霧が揺れた。
凛の耳がピンと立ち、表情が変わる。
「……聞こえる……龍之介の“本当の音”が……白廻の位置……全部わかる……!」
俺は凛の手を握りしめた。
「行くぞ、凛」
白廻の目が見開かれる。
「まさか……“反響”を戦闘に使うなんて……葵……あなた……!」
凛が鋭く叫ぶ。
「アンタの音は――もう効かないッ!!」
白廻の微笑みが消え、完全な戦闘が始まった。
0
あなたにおすすめの小説
結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
番ではなくなった私たち
拝詩ルルー
恋愛
アンは薬屋の一人娘だ。ハスキー犬の獣人のラルフとは幼馴染で、彼がアンのことを番だと言って猛烈なアプローチをした結果、二人は晴れて恋人同士になった。
ラルフは恵まれた体躯と素晴らしい剣の腕前から、勇者パーティーにスカウトされ、魔王討伐の旅について行くことに。
──それから二年後。魔王は倒されたが、番の絆を失ってしまったラルフが街に戻って来た。
アンとラルフの恋の行方は……?
※全5話の短編です。
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
政略結婚の相手に見向きもされません
矢野りと
恋愛
人族の王女と獣人国の国王の政略結婚。
政略結婚と割り切って嫁いできた王女と番と結婚する夢を捨てられない国王はもちろん上手くいくはずもない。
国王は番に巡り合ったら結婚出来るように、王女との婚姻の前に後宮を復活させてしまう。
だが悲しみに暮れる弱い王女はどこにもいなかった! 人族の王女は今日も逞しく獣人国で生きていきます!
あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません
藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。
ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。
「君は分かってくれると思っていた」
その一言で、リーシェは気づいてしまう。
私は、最初から選ばれていなかったのだと。
これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。
後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、
そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる