煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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拾壱

新しい朝と微かな予兆

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 街には、まだ霧の名残が漂っていた。
 夜の戦いが過ぎ去ったあとの静けさは、時間が一度立ち止まったかのように重く、それでいて不思議とやさしく、街全体を包み込んでいる。

 俺が営む煙草屋ツダは、一階の店も二階の住まいも、ようやく修繕を終えたところだった。
 戦いの爪痕が完全に消えたわけではない。
 それでも、壁や床は新しい色を纏い、割れていたガラスはすべて取り替えられている。
 店先の植木や看板も新調され、久しぶりに「商いをする場所」として、街の風景に溶け込んでいた。

 二階の居住空間も同様だ。
 家具や床板は直され、あの夜を直接思い出させるものは、ほとんど残っていない。

 それでも――
 確かに、ここで何かが起きたという気配だけは、空気の奥に沈殿していた。

 俺は店先に立ち、朝日が差し込む細い路地を、ぼんやりと眺めていた。

 背後で、かすかな足音がする。

「……龍之介、起きてる?」

 凛の声に、俺は肩を揺らし、振り返った。

「朝からそんな声出すなよ。まだ頭が起きてない」

「起きてるでしょ。ほら、もう店開けなきゃ。そのうちお客さん来るよ」

 凛の耳は、まだわずかに尖ったままだった。
 瞳は柔らかな琥珀色を帯び、尾の先が、本人も気づかぬうちに小さく揺れている。

 戦いの名残は、確かに凛の身体に残っていた。

 その姿を見て、俺の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「……無理してないか?」

「うん」凛はすぐに頷いた。

「龍之介が、そばに居てくれるから」

 そう言って笑おうとするが、声がわずかに震えているのが分かる。
 疲労は、身体よりも心に深く残っているようだった。

 俺は何も言わず、そっと凛の手を取った。
 一瞬、驚いたように目を瞬かせた凛は、すぐに少し力を込めて握り返してくる。

「……今日から、本当の意味で夫婦だな」

 凛は照れたように視線を逸らした。

「うん……でも、まだ慣れないよ。体のことも、この街での暮らしも……全部」

「慣れるさ」

 俺は短く言う。

「二人なら、何とかなる」

 口にすれば簡単だ。
 だが二人とも分かっていた。

 戦いが終わったからといって、すべてが元に戻るわけではない。
 獣人の社会。婚姻弾の存在。
 未だ手つかずの問題は、いくつも残っている。

 それでも――
 今、この手の温もりだけは、確かだった。

 店の扉が、鈍い軋みを立てて開く。

「おはようございます」

 声の主は、近所の常連である老婦人だった。朝から顔を出すのは、少し珍しい。

「おはようございます、さくらさん」

 俺が応えると、老婦人──さくらはにこりと笑い、袋を差し出した。

「昨日の煙草、助かりましたよ。あの変な霧で、街は大騒ぎだったみたいね」

 凛は、わずかに息を詰める。

「街は……まだ、完全には落ち着いていなくて」

「でもね」

 老婦人は、やさしく微笑んだ。「貴方たちが居てくれたから、みんな安心してるのよ」

 そう言い残し、店を後にする。

 扉が閉まると、凛は小さく息を吐いた。

「……まだ、油断できないね」

「ああ」

 俺は頷き、通りの先へと視線を向ける。
 霧は晴れ、日常は戻ったように見える。

 だが、その奥で――
 何かが、静かに動いている気配があった。

「……まあ」俺は、いつもの調子で言った。「まずは、店を回さないとな」

 カウンターに立ち、奥から煙草を取り出す。
 凛も自然と隣に並び、二人で品物を整え始めた。

 並ぶ肩。
 重なる動作。

 戦いのあとでも、こうした何気ない所作は、不思議と心を落ち着かせてくれる。

 その背後で、朝の光が、わずかに揺れた。

 まるで――
 これから起きる“何か”を、静かに待っているかのように。

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