煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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拾漆

朝の煙が消えるまで

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 朝の光は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
 街路に溜まった空気には、夜の冷えが名残のように残っていて、遠くから聞こえる足音も、どこか用心深く響いている。
 煙草屋ツダの店先では、シャッターが半分ほど上がったままになっていた。
 店内には淡い光が差し込み、埃の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
 開店の準備は、もう済んでいる。
 棚の位置も、帳簿の置き方も、昨日と変わらない。

 それなのに、今朝はほんの少しだけ、空気が違った。
 凛は二階から降りてきたところで足を止め、外套の袖を引き直した。
 肩に落ちかかる髪を払う。
 首元に触れ、気持ちを整えるように深く息を吸った。
「……行ってくるね」

 声は小さいが、曖昧さはなかった。

 俺は店先の柱にもたれ、短く頷いた。
 右手には一本の煙草。
 左手には、使い込まれたライター。

 婚姻弾を作るときに吸う煙草ではない。
 銃に込めることもない。

 ただ、昔からの、いつもの銘柄だ。
 ライターの火が一瞬揺れ、煙草の先が赤く灯る。
 俺はゆっくりと煙を吸い込み、朝の空気に混ぜるように吐き出した。

「無理はするな」
 短い言葉だったが、その奥にはいくつもの意味が折り重なっていた。

「分かってる」凛はすぐに頷く。
「今日は“集める”だけ。深くは踏み込まない」

「それでいい」
 煙は風に押され、通りのほうへ流れていく。
 凛は店の外へ一歩踏み出し、朝の街を見渡した。
 人影はまだまばらで、露店の多くは準備中だ。
 どこかから、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。

「……街、戻ってきてるね」

「ああ」俺は短く答える。「表向きはな」

 凛は、ほんの少し口元を引き締めた。
「符とか、薬草とか……あぁいうのを扱う人たちって、表には出ないもんね」

 俺は灰を落としながら言った。「だから慎重にだ。」ひと呼吸置き続ける。「聞くだけ。見るだけ。危なそうなら、すぐ引け」

「うん」凛は振り返り、俺を見た。

 煙草を吸っている姿は、銃を構えるときとはまるで違う。
 肩の力が抜け、視線も柔らかい。
 それでも――逃げない人間の背中だった。

「……ねえ、龍之介」

「なんだ」

「もしさ」言葉を探すように、凛は一拍置いた。
「銃が必要になったら、どうする?」

 俺はすぐには答えなかった。
 煙を深く吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「そのときは使う」

「でも――」

「撃たない」凛の言葉を遮るように、俺は続けた。
「向けるだけ。必要なら、威嚇まで。倒すためじゃない。踏み込ませないためだ」

 凛は静かに息を吸った。
「……それなら」ほんの少し、笑う。「安心して行ける」

 俺は何も言わず、もう一度煙草を吸った。

「ちゃんと、帰ってくるから」
 それは決意というより、約束に近い響きだった。

「それでいい」
 龍之介は答える。「結果はいらない。無事なら、それで十分だ」

 凛の耳が、わずかに揺れた。
 それを隠すように、外套の襟を立てる。
「……じゃあ、行ってくる」

「ああ」

 凛は歩き出す。
 戦う者の足取りではない。
 街に溶け込み、必要なものだけを拾い、戻ってくる人間の歩き方だ。
 俺は、その背中が通りの角に消えるまで、視線を外さなかった。
 煙草は短くなっていた。
 灰皿に灰を落とし、最後の一息を吐く。
 煙は、空に溶けていく。

「……さて」
 小さく呟き、龍之介は店内へ戻った。

 カウンターに立ち、帳簿を開く。いつもの動作。いつもの朝。
 だが、耳は外に向いている。
 風の音、足音、扉の軋み。何かが動けば、すぐに分かる。

 今日は、銃は撃たない。
 婚姻弾も作らない。
 それでも――備えないわけではない。

 店の奥、見えない場所で、銃は整えられている。
 使わないことを選びながら、いつでも使える状態にしておく。
 それが、俺のやり方だった。

 外では、朝が本格的に動き始めている。
 人の声が増え、街は少しずつ賑わいを取り戻す。
 その中を、凛は歩いている。
 一人で。だが、一人きりではない。
 俺は、ふと窓の外を見た。
 朝の光が、路地の奥まで差し込んでいる。
 昨日まで感じていた“視線”は、今のところない。

「……静かすぎるな」

 不安ではない。
 警戒とも違う。
 ただの事実だ。
 煙の匂いは、もう残っていない。
 それでも朝の空気の奥に、かすかな違和感がある。

 敵意ではない。殺気でもない。
 ――様子を見ている、何かが。
 俺は、それ以上考えなかった。

 今は待つ時間だ。凛が戻るまで。
 街が、もう一度顔を見せるまで。
 煙草を吸い終えた指で、カウンターを軽く叩く。
 朝は、まだ始まったばかりだった。

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