煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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拾捌

街に溶ける耳

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 凛が煙草屋ツダを後にしたのは、朝の通りがようやく息をし始めた頃だった。
 露店の支度をする音、人の気配が石畳の上に少しずつ増えていく。
 夜の冷えを残した石畳はひんやりとしていて、足裏からじわりと緊張が伝わってきた。

 背後に、龍之介が煙草を吸っている気配がある。
 振り返る必要はない。火の匂いと、あの独特の“間”で分かる。

 ――見送られている。
 そう意識しただけで、自然と背筋が伸びた。

(大丈夫。今日は集めるだけ)
 凛は心の中でそう繰り返し、歩調を一定に保つ。

 目立たず、急がず、深入りしない。
 情報屋として、身体に染みついたやり方だ。

 街は一見、穏やかだった。
 露店の呼び声、店主同士の軽口。昨日まで漂っていた霧や銃声など、最初から存在しなかったかのように。

 だが凛の耳は、表の音だけを拾ってはいない。
 足音と足音の間。
 会話が一瞬だけ途切れる沈黙。
 視線が、ほんのわずか遅れて外れる感覚。

(……いる)
 敵意は感じない。
 けれど、完全な無関心でもない。

 最初に立ち寄ったのは、薬草を扱う小さな店だった。
 表向きは漢方と香草の店。裏では符や簡易的な呪具も扱っている。

「おはようございます」
 いつもと変わらない笑顔で声をかける。「今日は、匂いのきつくない草を探してて」

 店主の老人は、凛の顔を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。
「……最近は、物騒だからね」

 それだけで十分だった。

(知ってる)
 凛はそれ以上踏み込まず、店内を一巡する。
 乾いた薬草の匂い。紙の感触。

 そして――

(……これだ)
 符の一枚に、かすかな引っかかりを覚えた。
 昨日見たものと、よく似た気配。
「それ、最近入ったんですか?」

「ああ……まあ」老人の返事は歯切れが悪い。
「詳しいことは、あまり」

「そうですか」
 凛は深追いせず、礼を言って店を出た。
(無理に聞けば、閉じる)

 情報は、追い詰めると逃げていく。
 次に向かったのは、占い師の露店だった。
 ここは、噂が最も早く集まる場所だ。

「最近、変な依頼って来てます?」
 軽い世間話のように聞く。

 占い師の女は、カードを切る手を止めないまま答えた。
「“守りたいものがある”って人が増えたわね」

「守りたい?」

「壊されたくない、じゃない。奪われたくない、でもない」
 一枚、カードが伏せられる。
「“選ばせたくない”」

 胸の奥が、かすかに鳴った。
(……やっぱり)

「誰かが、誰かの選択を先回りしてる」
 占い師は、凛を見ない。
「でも、それは敵意じゃないわ」

「じゃあ、何ですか?」

「恐怖よ」

 凛は礼を言い、その場を離れた。
 歩きながら、頭の中で点を繋げていく。

 符。
 薬草。
 守りたい、選ばせたくない、という言葉。

(攻撃じゃない……防御)
 しかも、それは自分たちに向けられたものですらない可能性が高い。
(巻き込まれた、か)

 路地を抜け、人通りの少ない区域に入ったところで、凛は足を止めた。
 はっきりとした視線を感じる。

「……出てきなよ」声を低くして言う。

 物陰から現れたのは、若い男だった。
 武器はない。ただ、全身に張り付いた緊張だけが異様に目立つ。

「……別に、敵じゃない」

「分かってる」
 凛は距離を詰めない。
「じゃあ、何?」

「忠告だ」短く言う。「深入りするな」

「それ、昨日も聞いた」

 男は困ったように視線を逸らした。「銃を持ってるのは分かってる」

 凛の耳が、わずかに動く。

「でも、撃たせたくない」

「誰が?」

「……街だ」
 それだけを残し、男は去っていった。

 追わない。
 今は、それが正解だ。
(なるほどね)凛はゆっくりと息を吐いた。

 敵はいない。味方もいない。
 ただ――
 過剰なまでに守ろうとする“何か”が、街にある。
 それは、龍之介と自分が持つ力を恐れている。
(帰ろう)

 情報は十分だ。
 店が見えてきたところで、凛は歩調を緩めた。
 店先には龍之介がいる。
 煙草は吸っていないが、こちらを見ていた。
 それだけで、胸の奥が落ち着く。

「ただいま」

「あぁ」龍之介らしい短い返事だった。

 凛は笑って言った。「撃たなくてよかったよ」

「そうか」

「でもね」一拍置いて、言葉を選ぶように続けた。「面倒なのが、街にいる」

 龍之介は静かに頷いた。
「話はあとで聞く」

「うん」

 店の中に入れば、日常の匂いがそこにあった。
 戦いはまだ先だ。

 だが、選択は――もう始まっている。


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