スイの魔法

白神 怜司

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【スイの魔法 3 七人の魔女】 別章 『スイの姉』

『魔術科』説明会

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2014/09/03 改稿
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 ヴェルディア魔法学園、スイの通う五年C組の教室。生徒の席は特に固定されてはいないが、後方に行く度に段が上がる造りとなっている。
 その教室内は今、生徒達の喋り声によって埋め尽くされていた。その後方、教室の入り口から離れた上方の窓際に座っていたスイとシルヴィは、教室内に充満する熱気を眺めていた。

 頬を紅潮させながら嬉しそうに語らう生徒達。
 その理由は今朝の生徒会会議で告げられた内容によるものだ。

 昼前の授業が終わる頃になって今年もスイのクラスの担任となった講師、『歴史学』を担当しているメルーア・オリンの口から、専攻学科への五年生参加についての発表が行われたのである。

 楽しみにしていた専攻学科が、一年も早く体験出来るというこの状況に心を踊らせた生徒達から歓声があがり、その興奮冷めやらぬ雰囲気の中で、友達と何科に進むのかと生徒達の言葉が行き交い、熱を帯びていた。

「こうして見てみると、やっぱり専攻学科への期待って大きいんだね」

「何を他人事みたいに言ってるのよ。そんなの当然じゃない」

「当然?」

「専攻学科は直接将来に結びつくし、それこそがヴェルディア魔法学園の醍醐味と言っても過言じゃないわ。それが一年も早くから学べるなんて、私達の学年は恵まれていると思うわ」

 ヴェルディア魔法学園の専攻学科は直接将来に役立つ。
 そういった意味ではただダラダラと授業をこなす日々よりも、やり甲斐というものは比較にならないのだ。

「でも、その代わり上級生からは羨ましがられるでしょうけどね」

「一年も早く入れるのがズルいって思われたりするのかな」

「まぁ、内心ではそういった感情もあるでしょうけど女子の方は問題ないでしょうね。……サークル内はしっかり統治されてるしね」

 ボソッと最後に呟いたシルヴィの言葉はスイには届かない程の小さなものであった。
 午後からは各科の説明会が行われる予定だ。この時間の内に何処を見て回るのかを決めるようにとメルーアから言われ、それぞれに何処を見ようかと話し合っている生徒達。
 この説明会だが、午後に二回、三日間に渡って行われる予定だそうで、その気になれば全科の説明会に参加出来るように気配りされているようである。

 今朝の段階でその発表を聞かされていたスイとシルヴィは驚く訳もなく、自分の進路についてもハッキリと定まっている為か周囲の熱には当てられてはいない。

「そういえばシルヴィさん、『魔術科』なんだね」

「えぇ。そんなに意外だった?」

「うん、ちょっとね。てっきり侯爵家を継ぐ為に内政だったりを学ぶものかと思ってたんだけど、そうじゃないんだね」

 シルヴィはフェルトリート侯爵家の令嬢であり、兄妹もいない。侯爵の地位を継ぐのは当然であり、そうなれば間違いなく内政や事務仕事に追われることになるだろう。
 そう考えていたスイへと返ってきたのは、意外な言葉であった。

「内政とか学ぶことは文官に任せるつもりだもの。一応家庭教師の先生には教わっているけれど。それより侯爵家の令嬢としては箔を付ける必要があるわ。『魔術科』と『騎士科』のブランド力はそれだけ大事ってことよ」

「ブランド力?」

「えぇ。ヴェルディア王国において貴族というのは庶民に歩み寄ってはいるけれど、それでも『魔術科』や『騎士科』から輩出されたとなれば名前にブランドがつくの。そういう意味では私も、それにソフィアさんも『魔術科』を選ぶ必要はあるって訳」

「そういうものなんだね。僕は庶民側だし気にしてないけど」

「まぁ、何か偉業を達成すればすぐに貴族になりそうだけど、ね」

「貴族に? 僕が?」

 予想だにしていなかったシルヴィの一言にスイが目をむいた。

「だって、スイの魔力とファラの実力を考えたら、国に保有しておきたいって考えたりもするでしょう、普通」

「そ、それはそうかもしれないけれど、孤児の僕にそんな話が来るのかな」

「関係ないわ。幸いにもバレン陛下はそういった出自に拘るような人じゃないんだし、まぁいずれそういうこともあるかもしれないって思っておくだけで良いんじゃないかしら」

「……いずれ、ねぇ……。あまり僕には関係なさそうな気がするけどなぁ」

 いずれも何も、大人になる頃にはマリステイスと交わされた約束を果たすべく、このヴェルディア王国を出ることになるだろう。
 そんな漠然とした未来を思い浮かべていたスイであった。

 周囲の浮かされるような熱とはかけ離れた会話をしている二人のもとへ、メルーアが歩み寄っていく。

「スイ君とシルヴィさんの希望はもう聞いてるわ。二人とも、キャスリア先生が『対魔術学』の担当講師で、『魔術科』の専門講師だからね」

 キャスリア・オネット。
 茶色く短い髪を切り揃えた、凛々しい女性講師であり、スイも『対魔術学』の授業では世話になっている。
 スイの家名がないという事実に何故か憐憫と同情の視線を向けられているが、スイはたいしてその視線を気にしたことはなかった。

「キャスリア先生は厳しいから、頑張ってね! まぁスイ君とシルヴィさんは優等生さんだから、そんなに心配いらないと思うけどね」

「優等生なのはシルヴィさんですね。僕は無断欠席が多いですし」

「あはは……確かに無断欠席は多いかもね……。で、でも、ほら。事情とかもあるんだし、ね……?」

 タータニアに連れられて〈放棄された島〉へ行った昨年の夏、それにブレイニル帝国軍に拉致される形となった冬とを考えれば、スイの出席日数は誰よりも少ないと言えるだろう。

 自虐めいたスイの言葉に何とかフォローを入れようと試みるメルーアであったが、苦い笑いを浮かべてその場を去っていくのであった。

「ん、シルヴィさん、どうしたの?」

「……うん、ちょっと。ただ去年の夏は私のせいだったから、何も言えないなぁって」

「あ……、気にしないで良いよ。色々とためになったのは事実だから」

 まさか自虐めいた言葉の隣に被害者がいるとは思っていなかったスイである。

 タータニアによってスイが拐かされる経緯となったのは、そもそもシルヴィが攫われたからであった。その点を考えると、スイの自虐はシルヴィの前ではどうやらタブーに分類されたようだ。

 結局、スイはしばらくシルヴィへと被爆する形になった言葉を一生懸命にフォローする形となってしまうのであった。

 昼食を食べ終えたスイは、シルヴィと共に学園の中を移動した。各科毎に説明会が行われる予定となっている為、『魔術科』の説明会へと早速向かったのだ。

 説明会に使われた教室内にはすでに多くの生徒がいるが、やはり目につくのは女子率の高さだろう。

 学園だけではなく国的に見ても男女の比率は元々女性の方が多い。魔力量に恵まれやすい女性の方が当然この場には多く、『魔術科』ともなれば魔力量などが直結しやすく、しかも男子生徒は『騎士科』に夢を見る傾向がある為、男女差が顕著に表れているようだ。

 教室の一角に男子生徒が八名程集まり、あとはずらりと並ぶ女子ばかりの教室内である。

「僕も向こう側に座った方が良いのかな?」

「別に気にしなくて良いんじゃない?」

「……いや、うん。向こうに行くよ」

 シルヴィはあっけらかんと言ってくれるものの、それを良しとは出来るはずもなかった。いくら鈍感というべきか、自分に対する周囲の興味に無頓着なスイとは言え、教室中の視線が集まる中で悪寒めいたものを感じ取られない程ではないのだ。

 シルヴィの言う通り女子に混ざって座るなど、スイにとっては針の筵も良いところである。

 シルヴィと別れ教室の隅へと向かったスイは、男子生徒の集まる一角と女子生徒達が集まるその中間に生まれた、何故か大きく広がっている微妙な空気が流れている広いスペースへと腰を下ろした。
 スイの空気を読む能力というのは、そんなかえって目立つような位置に座ることに対する忌避には働かなかったようだ。

 男子は男子でスイを見てヒソヒソと会話を交わし、女子は女子で先程からチラチラとスイに視線が向けられている。まともに周囲を探る性格さえしていればこの場所は居心地が悪いはずではあるが、そこに気付いてすらいないのがスイである。

 そんな中、スイが座るその場所に一人の少年が歩み寄ってきた。

「隣、良いかい?」

「どうぞ」

 柔らかな金色の髪を揺らした少年は、スイの答えを聞いてその隣へと腰を下ろした。

 もしもスイの印象が、『知的でミステリアスな氷のような美少年』であるとするならば、隣に腰掛けた少年は『明るく爽やかな陽だまりのような暖かな少年』といったところだろうか。
 周囲の女子は二人が並んだその場所を見つめてそう評していた。

 正反対とも言える魅力を放つ二人がそこに並んだことに、周囲の女子生徒の眼力が強まってすらいるのだが、スイと隣に座った少年はそういった空気には一切気付いていないのか、気楽に会話を始めた。

「初めまして、僕はルスティア・フェズリー。この学園に8年生として転入してきたばかりでね。もし良かったら仲良くしてくれないかな?」

 柔らかな白金色の髪は長く、くるっと少しばかり跳ねている。笑みによって細められた目元からは、モスグリーン色の落ち着いた色合いをした瞳が覗いている爽やかな少年――ルスティアはスイへと声をかけ、手を差し伸べた。

 紐状のネクタイは六年生から八年生の証である赤だ。
 4年、5年生は相変わらずの緑色のスイとは違う。スイよりも背が高く、身体も細く引き締まっている。

「僕は5年生のスイです」

 ルスティアの爽やかさにあてられたのか、基本的には無意識下に一線を画して人と接するスイも、ルスティアに手を差し出し握手に応じた。

「それにしても、8年生からの編入なんて珍しいですね」

「あぁ、うん。もともと僕はこの学園に来るつもりはなかったんだけどね。ちょっと事情があってね」

「事情、ですか?」

「そうなんだ。あまり周りにはおおっぴらに明かせない、深い事情でね」

 秘密だよ、とでも言わんばかりに自分の唇の前に人差し指を立てながら笑うルスティアであったが、スイも踏み込むつもりはないのか「大変ですね」とだけ答えてみせた。

 その答え方が面白かったのか、笑顔によって細められたルスティアの眼にわずかな眼光が宿り、スイを推し量るかのように見つめていた。
 その視線に気付かずにスイが教壇へと視線を向けた。ようやく教室に姿を現したキャスリアが注目を集める為に手を二度叩き、教室の喧騒が静まり返る。

「おはよう。早速だが時間が惜しいのでな、始めさせてもらおうか」

 キャスリアは相変わらずの簡素なジャージのような上下の服のまま、その腰に手を当てながら教室の中を見回した。

「さて、今日ここにいる全員は『魔術科』の選考試験を受けるべく集まった生徒達だ。三日後に控えた選考試験の合否如何によって在籍が決定するのだが、その前にまず魔法についてのおさらいといこう」

 女性にしては少し声色の太いキャスリアの声が教室内に響き、空気が張り詰める。

 ここにいる生徒達――いや、この学園の生徒ならば誰もが理解している。
 シルヴィが言った通り『魔術科』に入るというのは、一種のステータスとなるのだ。
 そのチャンスを前に改めて気を引き締めた生徒達の目つきが、真剣なものへと変わった。

「世間一般に魔法と言えば幾つもの種類がある。せっかくだ、誰かに答えてもらおう……――五年生、シルヴィ・フェルトリート。簡単で良い。【普及魔法】と【施陣魔法】について説明してみるんだ」

「はい」

 キャスリアに名指しされ、生徒達の視線がその場で立ち上がったシルヴィへと注がれる。

 侯爵家令嬢という彼女の立場とその名前はやはり知名度が高く、その好奇の色が強い視線を一身に受け止めながらも、シルヴィは淀みなく答えを口にした。

「『魔導戦争』以来、一般に明かされるようになったとされる魔法には二つの種類がありました。それが、『詠唱や魔法陣の構築が必要なく、魔力を練ることで魔法を具現化する簡単な魔法、【普及魔法】』。次に、『魔法陣をあらかじめ刻印することによって、魔力を流し込むだけで魔法を発動させる事が出来る【施陣魔法】』です。【普及魔法】はその名の通り、一般的に扱われる魔法ではあるのですが、この【施陣魔法】は魔導具の核としても流用されています。ですが、魔導言語の記入と魔力を流す魔法陣の形など、それらがしっかりと構築されていない限りは扱えず、【普及魔法】と【施陣魔法】では圧倒的に【施陣魔法】の扱いの方が難しいとされています」

「うむ、模範的な解答だ。よく学んでいる。座りたまえ。シルヴィの言う通り、この二つは最低限ここにいる者達も学園生活の中で学んできたはずだ」

 すらすらと淀みなく答えたシルヴィに満足気に頷いたキャスリアが、再び生徒の顔を見回しながらも付け加える。

「では、同じく五年生から――スイ。他に魔法に分類される様々な種類について、分かるものを挙げてみろ」

「はい」

 今度はスイがキャスリアに名指しされ立ち上がる。

 隣のルスティアがどこか楽しげな表情を浮かべてスイを見つめているのは気になるが、スイはそれに構わずにシルヴィと同様に淡々とした口調で続けた。

「『大魔法』。中空に自分の魔力を用いて魔法陣を構築し、【普及魔法】とは比較にならない程の威力を発揮させますが、デメリットとしては魔力の使用量が比になりません。次に、【条件魔法】です。『媒介条件』と『環境条件』のどちらか――或いはどちらもが噛み合わなければ発動出来ませんが、通常の魔法に比べて比較にならない程の効果を発揮出来ます。こちらも条件が厳しいものでは発動出来ない、というデメリットがあります。それに加えて、【施陣魔法】を用いた遠隔操作による魔法発動や――」

「――あー、うむ。そこまでで良い、座って良いぞ。さて、ここにいるのは『魔術科』に入る事を望む五年生以外の生徒もいるが、今答えてくれたのは五年生の二人だ。あぁ、ここまで模範的な解答を口には出来ずとも、おおまかには理解してくれているはずだ。あの二人は少々真面目過ぎるかもしれないな」

 キャスリアの言葉に教室の中から小さな笑い声が響き渡り、再びキャスリアが軽く手を上げてそれを制した。

「我々『魔術科』が生徒の諸君に学んで欲しいのは、今二人が挙げてくれた――いや、むしろ最初にシルヴィが答えた、【普及魔法】と【施陣魔法】を利用した実戦形式の訓練だ。もちろん、簡単な訓練としてスイの話した【条件魔法】も扱ってもらうことになるが、それはその時に改めて説明するだろう。諸君らはこれまで『対魔術学』の授業でやってきただろうが、その難易度は授業で習う範疇の比にはならないと思って欲しい。当然、戦闘学科の訓練ともなれば怪我もするだろう。もしも華やかなその名だけが欲しいというのなら、今すぐにとは言わないが、三日後の選考試験までに辞退するように」

 厳しい言葉と取れなくもないが、キャスリアのその指摘は真っ当なものであった。

 スイらが授業で受ける『対魔術学』とは、基本的な魔法の操作と【普及魔法】と【施陣魔法】の簡単なものしか教わらない。
 その理由はシンプルなもので、生徒全員が学べる程度の魔法の扱いだけが優先的に行われるのだ。

 しかし、『魔術科』の授業ともなるとその限りではなくなる。それぞれの生徒が最低でもDランク以上の魔力量を有している為、魔法の技量と同時に扱いの難易度が上がる魔法も多々あるのだ。
 当然、扱う魔法の危険度も『対魔術学』とは比べるべくもない。

 そんな背景を示唆するかのようなキャスリアの説明が続く中、スイの横に座っていたルスティアがスイに向かって声をかけた。

「さすが。五年生の――いや、この学園始まって以来の天才と言われているだけのことはあるね」

「え……? 何ですか、それ」

 聞いたこともないルスティアの言葉にスイが首を傾げて尋ねると、ルスティアが肩を竦めてみせた。

「キミのことだよ、スイ君。銀色の髪、魔眼を持つ少年。それに、一年前は魅了魔法を使っていたと騒がれていたけど、あれは誰かによって解かれたらしいね」

「――ッ! 何でそんなことまで……!」

「あぁ、気を悪くしたならすまないね。そういう些細な噂でさえ耳にするって話さ、僕みたいな転入生であってもね。キミはどうやら自分で思っている以上に有名らしいよ」

 お互いに教壇に顔を向けながら、スイとルスティアの会話は続いた。

「……何が目的なんですか?」

 スイの脳裏に浮かんだのは、ブレイニル帝国やタータニアと共に行動していた男だ。自分を拐かし、利用しようとする者達。

 ルスティアももしやそういった人種なのではないかと考えながら探りを入れるかのようにルスティアに向かって声をかけた。

「目的も何も、勘違いされては困るかな。僕はキミの味方だよ」

「……味方?」

「まぁ無理に信じてくれとは言わないよ。キミのこれまでの経験を考えれば、疑ってかかるのは無理もないしね。これから一緒に『魔術科』に入るんだ。転入したばかりの僕としては、キミと親しくなっておいた方が得がありそうな気がするんだよ。そういう意味では、僕はキミと敵対するメリットなんてないし、立場上は味方なのさ」

 肩を竦め冗談を口にするかのようなルスティアの態度に、思わずスイの眉間に皺が寄せられた。

「……まだ選考試験前なのに、気が早いんですね」

「あはは、気分を害してしまったのかな? 正直に言えば、選考試験については僕も心配ないと思っているよ。それはキミも同じだろう?」

 確かにルスティアの言う通り、スイも今のところ緊張や落ちるかもしれないといった不安は感じていない。侮りではなく、現実的にこれまで授業で見てきた周りの生徒や一般的な常識という枠から考えても、自信はあった。
 世間一般の常識を考えれば、それは至極当然だと言えるだろう。

 言葉を返せずにスイが押し黙る中、教壇には一人の女子生徒がキャスリアに呼ばれて中へと入ってきた。
 どうやら現役の『魔術科』の生徒のようだ。

 ソフィアの髪の青が海のような深い色をしていると言うなら、教壇に歩いて行く女子生徒はどちらかと言えば白に近い水色めいた長い髪。
 髪の横には、魔導言語が刺繍されているリボンが編み込まれている。冷ややかな眼で周囲を見つめる瞳は灰色で、近寄り難い雰囲気を放ってはいるものの、タータニアに比べればまだ柔らかい方だろう。

 ネクタイは青く、9年生か10年生のどちらかだ。

 壇上に立った女子生徒は教室内を目線だけで一瞥すると、ふとスイとルスティアの二人の場所で動きが止まった。何事かとスイが隣を見てみると、ルスティアが笑顔のまま小さく手を振っている。

「知り合いですか?」

「幼馴染だよ。彼女の為にこの学園に来たと言っても良いね」

「……幼馴染?」

 尋ね返すスイの言葉は実に訝しげなものであった。
 何せ、壇上のその女子生徒はルスティアが手を振る姿を見て、いかにも機嫌を損ねたかのように眉の間に皺を寄せ、一瞬であったが睨みつけるような態度をしてみせたのである。
 親しさがあるとは到底思えないような態度であった。

「彼女はネルティエ・グライエス。我が『魔術科』において最も実力がある生徒で、十年生になる。選考試験に受かったらキミ達の先輩として、彼女から色々と学ぶことも多いだろう」

 キャスリアに紹介されたネルティエは涼やかな声で「皆さん、よろしくお願いします」と告げて軽く頭を下げる。

「……ぷふっ、くっくっくっ……」

「ル、ルスティアさん?」

「いや、すまない……。あのお姫様があんな殊勝な態度で挨拶するなんて……ぷふっ、だ、だめだ、似合わない。似合わな過ぎるよ、ネル……!」

 突如として隣で笑い声を噛み殺そうとするルスティアであったが、その姿に気付いたのかネルティエがルスティアを一瞥すると、次の瞬間。
 教室の中を圧縮された空気の弾が飛び、ルスティアの額をパンッと音を立てて弾いた。

「あいたっ!」

「おい、スイにルスティアだったか。何を騒いでいる」

「ぼ、僕は別に何もしてませんけど……」

「いや、すみません。ハイ」

 後方に頭を仰け反ったルスティアが涙目で笑いながらキャスリアに謝罪をするが、その横に座っていたスイはネルティエを見つめていた。

「……いやぁ、見ただろう? あのお転婆姫が殊勝な態度で挨拶するなんて、似合わないのさ。まったく、ノーモーションで攻撃するなんて酷いな、ネルは……」

「……あのリボン、面白いですね」

「あれっ、僕の痛みは愚痴は無視なのかいっ?」

 額を押さえて愚痴るルスティアに、そんな愚痴には一切興味がないと言わんばかりにスイの眼が――正確にはスイの右眼に宿っている魔眼が、ネルティエの頭に編み込まれたリボンを見つめていた。

 スイの右眼に映ったネルティエのリボンは、編みこまれた文字の幾つかだけが魔力を宿し、光を放っていたのだ。
 それはつまり、あのリボンがスイのつけている腕章と同じように、発動を促す魔法陣の役割を果たしているのだという証左だ。

 それに加え、その発動を隠すかのように広がった認識阻害の魔法。靄のようにリボンに折り重なって姿を現したその姿に、隠蔽も同時に併用しているのだとスイは気付いていた。

 左右に編み込まれたリボンと身体。その二つを一つの陣として見立て、魔法発動を可能にしている。そんな方法は見たことも聞いたこともないが、スイの眼は悉くそれを看破してみせたのであった。

 そんなスイを横で見ていたルスティアは、再びその笑顔を深めるのであった。

「……さすがだね。そんなことまで分かるなんて」

「ひと睨みするだけで魔法を発動させて、風の塊を撃ってましたから」

「分かってたなら助けてくれても良いんじゃないかな? キミの右眼なら不可視の魔法も見えるとしても、僕には見えないんだから……」

「知り合いだって言ってたので、挨拶みたいなものかと思って」

「物騒な知り合いだねっ!?」

 いくら何でも挨拶代わりに風を撃ち込むような知り合いは、周りを見てもネルティエぐらいなものだと思いつつ、ルスティアはスイを倣って教壇に立ったネルティエとキャスリアの二人を見つめていた。






 授業が終わり、生徒会室へと向かうスイを見送ったルスティアが学園の廊下を歩いて行く。

 人のいない広い廊下を歩いて階段へと差し掛かろうというところで、ルスティアの視界には腕を組んで壁に背を預けているネルティエの姿が映った。

「やあ、ネル。さっきの挨拶はちょっと痛かったよ」

「アンタが手を振るような真似してるからでしょ。あまり表立って接触するつもりはないって言わなかったかしら?」

 相変わらずの冷ややかな態度と口調ではあるが、その中にはわずかな苛立ちを孕んでいるようだ。
 ネルティエを深く知らない人物ならばいつも通りの姿にさえ見えるが、長い付き合いのあるルスティアはその小さな感情の機微に気付いたのか、「悪かったよ」と謝ってみせる。
 だがそんな謝罪の言葉とは裏腹に、相変わらずの張り付いた笑みは消えていなかった。

 その姿に再び苛立つかのように眉を寄せたネルティエであったが、小さく嘆息して気持ちを切り替えた。

「それで、『銀』はどうだったの?」

「どうもこうもないさ。キミのその魔導具であるお師匠様からもらったリボンについても、あの一瞬で見抜かれた」

「――ッ、さすがは魔眼持ちね……。でも、あの一瞬で気付かれるなんて思ってもみなかったわ」

「キミのそれは光を放たないからね。それに、お師匠様の隠蔽魔術が働いているのにそれを見破るなんて、僕だって驚いたよ」

 これまで、ネルティエのリボンが果たす本来の役割――つまりは魔導具としてのその機能は誰にも見破られたことはない。
 それはひとえに、このリボンを造り出した者の技量が群を抜いているからであり、ネルティエもルスティアもそれは理解している。
 だからこそ、ネルティエはあの場面で、衆人環視の中でも魔法を使ってみせたのだ。
 決して気付かれることはないだろうと踏んで、ルスティアのフザけた態度に釘を刺したつもりでいたのだが、それをスイにはあっさりと見破られてしまったのだ。浅慮な行動であったと悔やんでこそみるものの、後の祭りだ。

「まぁ気にすることはないよ、ネル。いずれにせよ、『魔術科』に入ったら遅かれ早かれ気付かれたってことじゃないか」

「……ずいぶんと軽い物言いね。でも、そうね。あの一瞬で気付かれたってことは、確かにアンタの言う通り、いずれは気付かれたんだと思うわ。引き続き、『銀』の監視はお願いするわ」

 背を向けてルスティアと逆方向へと向かって歩き出そうとするネルティエに、ルスティアが振り返ろうとせずに「ネル」と名を呼び、ネルティエの足を止めた。

「彼は間違いなく、お師匠様が待ち望んだ後継者だよ、本物だ。キミは幼い頃からお師匠様と共にいるからこそ気に喰わないかもしれないけど、僕らじゃ――」

「――分かってるわ! ……分かってるからこそ、悔しいんじゃない……ッ」

 声を荒らげたネルティエの顔は、苦虫を噛み潰したかのような表情でそれだけ告げて歩き去っていく。

「……分かってるから悔しい、か」

 ルスティアのその呟きは、誰の耳にも届かずにその場で風に溶けていくのであった。
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