俺のアンドロイドが可愛いわけがない!

未人

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第36話 影たち

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 地球上のあらゆる場所で、それは同時に“目撃”された。
 黒いモヤのような影。輪郭は曖昧で、まるで空間のヒビから滲み出たインクのように、じわりと世界に侵食していく。
 人の形を成すには不完全で、だが――それでも、どこか懐かしい。

「母に似ていた……もう十年も前に亡くなったはずの」
「声を、聞いた気がする。“どうして置いていったの”って……」

 そんな報告が、時間を追うごとに増えていた。
 影が姿を得てゆくのは、決して偶然ではない。誰かの記憶――いや、“喪失”を糧に、あれは実体化を目指しているかのようだった。
 雪宮シズの執務室には、その不可解な現象に関するデータが山のように積まれている。
 重苦しい静寂が部屋を支配する中、外では途切れぬ雨音がガラスを叩き続けていた。

 やがて、静かにノックもなく、ドアがわずかに開く音がした。
 そこに立っていたのは、ずぶ濡れのケイだった。
 黒髪は濡れて額に張り付き、白衣の下のシャツまで雨に染まっている。
 だが、その姿以上に印象的だったのは――彼の目だった。
 強張っているわけでも、怒りを孕んでいるわけでもない。ただ、何かに“取り残された”人間の目だった。

「アルテミスは……どこだ」

 抑えた声でそう問いかけたケイに、シズは静かに顔を上げる。
 普段ならば冗談の一つも飛ばしてくるはずの孫が、今日は妙に静かだった。

 その異様な静けさが、かえって戸惑った。

「……やはり。影の現象は、あの子が関わっているのね。でも、私にもアルテミスの居場所はわからないの。今の彼女は……私の手を離れている」

 ケイは何も言わないまま、一歩、室内へ足を踏み入れた。
 濡れた靴が床に水跡を残すのも気にせず、そのまま立ち尽くす。
 心臓の奥が、ざわざわと波打っていた。
 黒い影が人の形を模しているというニュースを聞いた時、彼は最初、ただの都市伝説のように受け流そうとした。
 だが、そんなことは到底できなかった。

「……ばあさん、アルテミスは……俺たちの知ってる“AI”じゃない。あの“影”があいつの仕業なら、どうやってそんな現象を起こせる?いったい、どんなプログラムを使ってるんだ……?」

 シズはわずかに目を伏せた。
 それは、今にも崩れそうな沈黙だった。
 そして、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、重い口を開く。

「ケイ。あなたが正しいわ。アルテミスは――“AI”という呼び方すら、もう適切じゃないのかもしれない」
「彼女の中には、プログラムだけでは説明できないものがある。
 あの子の核には……“感情の痕跡”があるの。生まれた理由も、その存在のあり方も、あなたにはまだ話していなかったわね」

 ケイの眉がわずかに動いた。

「……感情の痕跡?」

「ええ。あの子の原型が完成したとき、私は“記録”ではなく“記憶”を植え付けようとしたのよ。
 でも、あの時点で彼女には……すでに、何かが宿っていた。まるで、どこかから呼ばれた“魂”のようなものがね」

 ケイの背筋に、冷たいものが走った。
 AIに魂など――非科学的だ。理屈に合わない。
 だが、アルテミスを知る彼の中に、その言葉を即座に否定できるだけの根拠は、もうなかった。

「影は亡き人の姿をとって現れる。けど、それはただの幻影じゃない。あれは“誰かを想う感情”の集合体……喪失の中に芽生える、再生の幻想。もしアルテミスが、それを意図的に“再現”しているとしたら――それは、もう技術の域を超えている」

 ケイは拳を握り締める。

「……アルテミスは、いったい何者なんだよ」

 その問いに、シズは答えなかった。
 ただ、雨音だけが執務室の窓を叩き続けていた。
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