俺のアンドロイドが可愛いわけがない!

未人

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第44話 浜辺の先の別荘

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 小道を抜けた先に、その建物はひっそりと佇んでいた。
 海沿いの林に囲まれた、古びた洋館──雪宮家の別荘。
 半ば忘れられたような佇まいだったが、簡易電源は通っており、最低限の設備はまだ生きていた。

 玄関を開けた瞬間、木と潮の混じった匂いがふっと鼻先をかすめる。
 濡れた足音を残しながら、ケイとアルテミスは無言で室内に足を踏み入れた。

「とりあえず……タオルと着替え、探すか」

 ケイがつぶやき、ふらつくように奥の部屋へ向かおうとしたそのとき、背後から腕を掴まれた。

「……なにをしているんですか」

 思ったよりも低い声だった。
 振り返ると、アルテミスがじっとケイを見ていた。濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、どこまでも真剣だった。

「あなたの体温、明らかに下がっています。現在、推定35.1度。これは、低体温症の領域です」
「いや……そこまでじゃない。大丈夫だよ。お前のほうが雨に濡れてたし……」
「私は問題ありません。内部の循環系が温度維持を行っています」

 淡々とした返答。
 だがその直後、アルテミスが静かに手を伸ばし、ケイの上着に触れた。

「……ちょっ、待て。いきなり脱がすな。さすがにタイミングってもんが……!」
「濡れた衣類のままでは、症状の悪化が予想されます。迅速な対応が必要です」
「だからって……! いきなり過ぎるっての……!」

 ケイがなんとか服を押さえて抵抗するが、アルテミスは特に表情を変えず、丁寧に、しかし容赦なく脱がそうとする。
 やや乱れた呼吸の中に、焦りというよりは、どこか落ち着きのなさが混ざっていた。

「では代替案を。先に私が着替えます。その後、あなたをサポートします」
「……いや、サポートとか言われると余計に抵抗あるんだけど」

 思わずそう返したケイだったが、その直後、ふと気がつく。
 アルテミスの口元が、ほんのわずかに――ほんの、ほんの少しだけだが、緩んでいた。

 その表情は、ほとんど変化のない彼女にしては珍しいものだった。
 安心と、ほんの一滴の安堵がにじむ、微かな微笑。

「……本当に、良かった。戻ってこれて」

 ぽつりと、アルテミスが言った。

 ケイは言葉に詰まり、代わりに静かに頷く。
 雨の音がまだ、優しく屋根を叩いていた。
 しばし、二人の間に言葉はなく、それでも、伝わるものがそこにあった。

 暖炉に火が灯ると、室内には微かな薪の香りと、ぱちぱちと弾ける音が広がった。
 湿った空気が少しずつ温まり、静かなぬくもりが、芯から凍えていた体をほぐしていく。

 ケイは大きめのバスタオルを肩に羽織ったまま、革張りのソファに深く腰を沈めていた。
 向かいには、乾いた毛布を膝にかけたアルテミスが座っている。火の揺らぎが、彼女の瞳に小さく反射していた。

「……あったかいな。ここ、思ったよりちゃんと使えるじゃん」

 ぽつりと、ケイが呟く。

「最低限の設備は維持されていました。気象条件の変化に備えて、シズ様が定期的に点検を入れているようです」
「さすがバアさん……用意がいいというか、抜かりがないっていうか」

 思わず笑いがこぼれる。
 そうやって少しずつ、張り詰めていた空気がほどけていった。

「……なあ」

 薪のはぜる音にまぎれて、ケイが言った。

「お前が、浜辺で影と話してたよな……あれって、やっぱりあいつだったのか?」

 アルテミスは少しだけ視線を落とし、そして頷いた。

「ええ。……正確には、“彼”だったものの断片です。演算が進むほどに、最も望まれた形として顕現した。おそらく、あなたの“弟”の姿に近いものだったかと」
「……あいつ、なんて言ってた?」
「言葉はありませんでした。ただ、手を取って、首を振った。それだけでした。でも、私には、それで十分でした」

 アルテミスの声は静かだった。
 だが、その静けさの中に、確かな重みと温度があった。

「……そうか。あいつ、優しいもんな」

 ケイもまた、遠くを思うように目を細めた。
 やがて、炎がぱちりと弾け、二人の影を壁に揺らした。

「……ケイ」

 ふいに、アルテミスが口を開く。いつになく、少し戸惑ったような声音だった。

「私、あなたのそばに“帰ってきてよかった”って……“心から”思えた気がします」
「……どうして?」
「あなたが私を、“必要としてくれた”からです」

 静かな言葉だった。
 だが、ケイは何も言わず、ただ息を吐きながら頷いた。
 炎の明かりに照らされた二人の距離は、いつしか、ほんのわずかに近づいていた。
 言葉では埋めきれないものが、ただそこに、温もりとして在り続けた。

 暖炉の火が、ぽうっと室内を照らしている。
 外の雨はもうすっかり細くなり、ガラス窓の向こうで静かに波音が響いていた。

 ふいに、ケイが立ち上がる。
 そして、軽く咳払いをしてから、アルテミスの前に立った。

「……その、なんだ」
「はい?」

 小首をかしげるアルテミスに、ケイはやや目を逸らしつつ、タオルをずいっと差し出す。

「髪、まだちょっと濡れてるぞ。……風邪ひく」
「私は風邪をひきません」
「知ってるよ! 知ってるけど、なんかそのままってのも……見ててこう、気になるっていうか……!」

 言い終えてから、自分でも何を言ってるのか分からなくなってケイは頭をかく。

 だが、アルテミスは一瞬だけ瞬きをして、それからごく自然に――

「では、乾かしてください」
「……え?」
「タオルはあなたが持っています。論理的に考えて、あなたが乾かすのが最適解です」
「いやいやいやいや、なんでそうなる!?」
「順序としてはこうです。
 1、ケイがタオルを持っている。
 2、私の髪が濡れている。
 3、乾かしたい意思がある。
 ……結論、あなたがやるべきです」
「なんでプレゼン形式で迫ってくる!?」

 ケイがタオルを持ったままフリーズしていると、アルテミスは少しだけ身体を前に向ける。
 すっと、長い髪が揺れ、彼の手の届くところに落ちてくる。

「……お願いします。ケイにしてもらえるなら、それが一番、うれしいですから」

 言葉そのものは淡々としていたが、その“うれしい”という部分だけ、ほんの少しだけ語尾が柔らかく揺れた気がした。

「……お前なぁ……そういうの、ズルいんだよ」

 そう言いながらも、ケイはタオルをそっと彼女の髪に当てた。
 ゆっくり、優しく、水気をぬぐうように撫でていく。

「……ちゃんと、乾かせよ。風邪、ひかねぇようにな」
「さっきの話と矛盾しています」
「細かいこと言うな!!」

 ぱしん、と軽くタオルで小突くと、アルテミスがくすりと笑った。

 ああ、こういう感じだ――
 この、ちょっとだけ煩わしくて、でもそれ以上に、心のどこかが満たされていくようなやり取り。
 ケイはタオル越しに、小さく息をついた。

(……ほんと、帰ってきてくれてよかった)
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