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5.遺産相続人からのご依頼
第5話 幸せの形は人それぞれ
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「レ、レティシアです、お祖父様」
「そうか、レティシア。お前は私に何を持ってきてくれたんだ?」
「は、はい。私はこれを」
レティシアが差し出した物は、母親の瞳の色と同じ澄んだ青色の石をペンダントトップとしたネックレスだった。
「これは」
見覚えがあったのだろう。バトラー氏は目を見開き、言葉を詰まらせた。代わりに彼女が説明する。
「母の形見です。母がお祖父様から誕生日に頂いた物だと伺っております。今生での再会は叶いませんでしたが、せめて母の形見だけでもと思い、持ってまいりました」
「マリアーナの形見……」
もう亡き娘を思いやったのか、重く深く息を吐き出すバトラー氏。彼はここまでの贈り物の何よりも心を揺さぶられている様子だ。
一方、ソフィアはそれを注意深く観察して、占い師の言う通り、家族に関わる贈り物が効果的であったことに満足して唇を横に薄く引いた。
「ありがとう、レティシア」
「はい。お祖父様」
バトラー氏は優しい笑みを浮かべると、レティシアの頭にぽんと手をやる。
彼女は嬉しげに笑みを返して軽く礼を執り、元の位置に戻った。
「最後はソフィアだね」
「はい。お祖父様」
呼ばれてソフィアは前に進み、優雅な貴族礼義を執る。そこには迷いも緊張も無い。彼女にとってこれくらいの事はお手の物なのだろう。
場が感嘆のため息を落としたことに彼女はほくそ笑む。あなたたちと私では格が違うのよと。
彼女はそんな心を見事なまでに隠して、綺麗な笑みをバトラー氏に向ける。
「お祖父様、わたくしはこれをお持ちいたしました」
ソフィアは一枚のハンカチをバトラー氏に手渡すと、彼はそれを広げて眉をひそめた。何かを包んでいるのかと慎重に広げたが、開いた先には何もなかったからだ。つまり、これが贈り物なのだろう。そのハンカチには何やらおかしな生き物の刺繍が施されている。
「これは……何だね。トカゲの刺繍かね?」
困惑した様子でバトラー氏はソフィアの顔を見て問うた。すると彼女はくすりと笑う。
「いいえ。よくご覧くださいませ。バトラー家の紋章である獅子ですわ」
「え? し、獅子?」
バトラー氏は説明されて再びハンカチに目をやる。しかし、どの角度から見ても、どうひっくり返して見ても、トカゲ以上の物には見えない。
「母がお祖父様を想って刺したものですの。残念ながら、母は刺繍が不得意でしたのでご覧の出来になっておりますが」
――すると。
「はっ、はは。ははははは!」
バトラー氏は小さく笑いを漏らした後、腹の底から大声で笑った。
「そうだ。確かにそうだった。娘のマリアーナ、お前たちの母親は刺繍もお稽古も大嫌いで、勉強の時間になるといつも逃げ出して木登りしているようなお転婆な娘だったよ」
「まあ! 母ったら。そんな話、初めて知りました。その母の血を色濃く引き継いでいるせいか、私も手先が不器用で刺繍が大の苦手ですの」
自嘲するように笑ってソフィアは肩をすくめる。
「ははは。それは不幸な事だったな! だが、それは仕方がないよ。マリアーナの血を引いているんだからね! ……しかし、本当にこれを娘が?」
バトラー氏はふっと笑みを消すと、ソフィアにあらためて尋ねた。
彼女はゆっくりと頷く。
「はい。何度も指を針で刺しながら、一目一目ごとにお祖父様、お祖母様を想っていました。一時は恨みもしたし、家を出たことに後悔はないけれど、それでも両親を傷つけたのは深く後悔していると。私が今、とても幸せでいられるのは両親の愛を一杯受けて育ったからだと気付いた。それを伝えることはもう叶わないだろうけれど、今度は遠くから私が父と母の幸せを願う。その思いをこの刺繍に閉じ込めると」
レティシアは自分が伝えきれなかったソフィアの言葉に思わず涙ぐんだ。
一方、ソフィアが計算高いのは母親の本心を伝えつつ、両親への思慕を語るところだろう。案の定、バトラー氏は誰の目から見ても明らかに深く心を打たれたようだ。彼女の手を取って強く握りしめた。
「……ソフィア、娘の本心を教えてくれてありがとう」
「はい。お祖父様。わたくしも母の気持ちを伝えられて嬉しいですわ」
彼女は笑みを向けると、バトラー氏の前に立った時と同じように優雅に礼義を振る舞って、再び元の位置に戻った。
バトラー氏は受け取った贈り物をあらためて順番に見ていき、やがて疲れたように目を伏せた。誰もが不安と期待で彼が動き出すのを待っている中、彼は大きくため息をついた。
決定したようだ。バトラー氏は目を開く。
「皆、私への贈り物をありがとう。贈り物とは金に飽かした、ただ高価な物を贈ることではない。どうしたら喜んでくれるだろうと相手の気持ちに寄り添って、一生懸命選ぶものだ。それらが感じられて、どれも凄く素敵な贈り物だったよ。実に甲乙付けがたい」
そこで彼は苦笑する。
「君たちを試すような真似をしたことを恥じたいと思う。本当に悪かった。……しかし、やはり最初に横柄な態度で宣言した以上、私は一人に決めたいと思う。せめて自分の宣言を実行する意地は見せないと面目丸つぶれだからね。それでは発表する。私の全財産を相続させるのは――」
誰もが緊張感で身が縮こまり、静まりかえった中、高らかに告げられたその名は。
「ソフィア。ソフィア・ベーカーだ!」
私はカードを切りながら、客足の引いたカフェでユリウスに話しかけた。
「もうバトラー氏の遺産相続人は決まったかな」
「マディの占いでは誰と出る?」
「んー」
カードを相続の人数分だけ並べ、ぱたぱたと展開していく。私は残り二枚になったところで手を止めた。
「やっぱりベーカー姉妹が残ったわね。へへ。どう? 私、凄いでしょ?」
「はいはい。凄い凄い。もし当たったらだけど。で、二人の内どっち?」
軽く流すユリウスに膨れながらカードをめくると、パタンとカードが音を立てて表向いた。
「姉のカード。ソフィアさん、か」
私が呟いた時、店のドアベルの音に振り返る。そこにいたのはベーカーさん。妹のレティシアさんの方だ。
「この度は色々お世話になり、ありがとうございました。ご報告にまいりました」
「わざわざありがとうございます。どうぞお掛けになってください」
彼女はお礼を言って腰を下ろすと早速話し始めた。
「ソフィア。ソフィア・ベーカーだ!」
バトラー氏のその声を皆が聞いた瞬間、部屋は一気に落胆と悲哀の言葉で満ちる。一方、ソフィアは全身に鳥肌がぶわりと立ち上がった。頬は紅潮し、喜びで震えが起こる。しかし最後まで気を抜けないと思った彼女は、すぐに理性で必死に押さえ込ませた。
バトラー氏は語る。
「私は若い頃から利益を追求するあまり、子供たちには自分の考えを押しつけてきた。それが子供たちのためにもなると思っていたからだ。しかし自分が年老いて、いざ周りに誰もいなくなった時、家の繁栄を代償に大切なものを失ったのだとようやく気付いた。それが家族との絆だ」
彼はベーカー姉妹を交互に見つめた。
「私は、私に逆らい家を出た娘が許せなかった。けれども彼女もまた私を許せなかっただろう。お互いに分かり合えないまま娘は亡くなり、私の気持ちを伝える術も娘の気持ちを知る機会も永遠に失われた。ぽっかり空いた空間を永久に埋められないのだと思った。だが、それをソフィアが埋めてくれたんだ」
「お祖父様」
「だからこそ、その感謝として、私があらゆるものを代償にしてまで築いてきた財産を残してやりたいと思った。これは私の贖罪でもある。受け取ってくれるね、ソフィア」
「……はい。お祖父様」
堪えきれなくなって涙で潤んだソフィアは力強く頷くと、歓喜に溢れる震えを押さえるために、指先にいくつもの傷を作った手をぎゅっと握った。
「ありがとう。では、ソフィア・ベーカーに私の全財産を相続させるとここに宣言する。――レンツ君、頼む」
バトラー氏は隣の相続立会人に目配せすると彼は静かに頷き、子犬を抱き上げてソフィアの元へと歩いて行く。
何の儀式だろうか。
皆、息を殺してその様子を静観していたが、さすがのソフィアも緊張で喉から心臓が飛び出しそうな思いだった。
そんな彼女の心中を気にする様子もなく、立会人は彼女の前に立ち、口を開いた。
「ソフィア・ベーカー様。アレサンドロ・バトラー伯爵様の正式な相続人とここに認められました。よって伯爵様の全財産である子犬のテオをどうぞお受け取りくださいませ」
「――え?」
呟いたのはソフィア一人だったが、この部屋にいる者全てがぽかんとしただろう。
「伯爵様の全財産である子犬です」
「え、どういう」
「伯爵様がご逝去された際、財産は全て他の方へ渡る手はずとなっております。従って、伯爵様が今持ちうる財産はこの子犬のみとなります」
淡々と語る立会人の言葉を理解してきたソフィアは、それと共に顏色を無くしていく。
「そんな、だって……」
「私はこの子を散歩に連れて行ける身体ではなくなってしまった。それに老い先短く、これからまだ十数年はあるこの子の行く末が気になっていたんだよ。ソフィア、この子を頼むよ」
追い打ちをかけるように当の本人から言われて、ソフィアはようやく彼の意図が読めた。
やはり財産相続という餌で孫たちを競わせ、必死になって媚びを売る自分たちを上から嘲り笑って楽しんでいただけだったのだ。
彼女はずっと押さえ込んでいた感情がとうとう爆発する。
「――ざけないで!」
目の前の子犬を思いっきり叩くと、彼はきゃんっと小さな鳴き声を上げた。
「いらないわよ、こんな犬! そんな犬の面倒を見るためにここにやって来たわけじゃない! 結局お祖父様は私たちを自分の遊びの駒にしたかっただけなのね。何が家族の絆よ! 最後の最後までお祖父様は自分勝手で傲慢な人間だったのよ。母が家を飛び出した理由がようやく分かったわ。あなたなんて家族の誰にも看取られずに一人寂しく死んでいけばいい!」
ざわめく室内だが、孫たちも、その親たちもさすがにバトラー氏に愛想を尽きたようだ。各々口汚くバトラー氏を罵り、身を翻したソフィアに続いて帰って行こうとする。
レティシアはそんな光景におろおろしながらも、ソフィアに叩かれて怯え震えている子犬に気づき、バトラー氏に遠慮がちに視線をやった。
「あ、あの。お祖父様」
「何だね。レティシア」
「こ、この子を私が譲り受けてもよろしいでしょうか」
「え?」
自分を見る彼の視線に少し怯んだが、レティシアは逸らさずに見つめ返した。
「まずは姉の無礼とテオへの暴力をお詫び申し上げます。テオはとても怯えてしまいました。このままこの子が人間を嫌い、人間に怯える生活をしてほしくないのです。目一杯この子に愛情を注ぎ、幸せにしますから、どうぞ私にテオをお譲りくださいませ」
「……そうか。それではソフィアが相続を放棄したことにより、ここにいるレティシアがテオを受け取るということに修正する。皆、異存は無いか? 異存のある者は声を上げろ」
皆、馬鹿馬鹿しくなって、異存など無いわと吐き捨てて、誰も声を上げなかった。それを見てバトラー氏は頷く。
「――よし。それではレティシアを、私の全財産を引き継いだテオの後見人とすることをここに宣言する!」
驚愕の色と鋭く突き刺すような悲鳴が、ソフィアから一際高く上げられた。
「え!? 相続放棄されたのですか!?」
レティシアさんの言葉にびっくりして、私は目をしばたたかせた。
「ええ。テオは引き取りましたが、祖父の言う全財産は相続放棄いたしました」
「でも、お金があれば助かるって……」
「もちろん今でもその言葉は否定いたしませんよ」
彼女は悪戯っぽい表情でくすりと笑う。
「けれど私の目的は祖父が母をどう思っていたのか、知ることでした。それから母の思いも祖父に伝えたいと。私はその事を緊張で上手く伝えられませんでしたが、代わりに姉が伝えてくれました」
ふふと笑うレティシアさんに黒い強かさが見え隠れする私は、きっと疲れているに違いない。
「ソフィアさんは」
「それはもう怒り心頭です。手を伸ばせばすぐそこに今の生活を変えられる絶好の機会があるのにそれを行わず、与えられた運命の中で生きようとする私をどうしても許せないみたいです」
醜い程の本性をさらけ出し、バトラー氏を口汚く罵ってしまったとなっては、もうソフィアさんには相続の権利は永遠に回ってこないだろうから尚更だろう。心中をお察しする。お察しするだけね。
「私は今の生活の中で満足しようと諦めているわけでも、我慢しているわけでもないのです。変えたいと思わないのは、ささやかながら今を幸せに感じているからなんです」
彼女は続ける。
これまでソフィアさんは貴族の子としての誇りを持ち、男性にもてはやされ、飾り立てられることで自分の気持ちを満たしていた。しかし欲はますます膨らみ、現実の自分との間でさらに劣等感を募らせて行った。欲が一時的に満たされたとしてもまた新しい欲が出てくる。そうして膨らみ続ける欲のせいで飢餓感に襲われ、いずれ壊れてしまうのではないかと。
「姉にも祖父にも、お金や地位を放棄しても手に入れたい小さな幸せもあるのだと気付いてほしかったのです。そして私はこの身をもって、それを証明したいと思います」
きっと幸せになってみせますと彼女は輝く笑顔を見せると、帰って行った。
「やっぱりバトラー氏は食えない人間だったのね」
バトラー氏はソフィアさんが自分で刺繍したものだと見抜いたのだろう。そこで最後にもう一つだけ試したんだ。
「でもさ。……レティシアさんはそれを上回ったね。お祖父様の望んだ贖罪を受け取らず、姉の憧れた生き方を彼女の目の前で放棄したんだから。二人を見事なまでに制裁したわ」
食えない人間と言うにはあまりにも綺麗な彼女の笑顔を思い出して、私は苦笑いを浮かべた。
「そうだな」
「地位とお金を求めた女性。目の前の小さな幸せを求めた女性。……どっちが正しいのかな」
ぼんやり呟くと、カウンター内にいたユリウスがこちらにティーカップを差し出してきた。
「どちらが正しいかは、誰かが決めるものじゃない。本人が決めることだ」
「そか。――ん。美味しい。幸せ! ……って、こういう小さなものも幸せに入るのかな?」
「そうだな」
ユリウスはカウンターを出て私の隣に座ると、未だ裏向けに伏せられたまま放置されていたカードを取って表にした。
最後のカードは『妹』だ。
「はっ。こ、これってさ。レティシアさん、財産放棄しちゃったけど、占いは当たったってことでいいよね? ね? ね?」
「さあな」
ユリウスから肯定の言葉を引き出さねばと必死になる私に対して、彼は素っ気ない。
「えー!? そこは、そうだなって言うところでしょ!」
そう遠くない未来にこの穏やかな日常は儚く消えてしまうだろう。それでも私は膨れながら、今、目の前の幸せを掴んで揺さぶった。
「そうか、レティシア。お前は私に何を持ってきてくれたんだ?」
「は、はい。私はこれを」
レティシアが差し出した物は、母親の瞳の色と同じ澄んだ青色の石をペンダントトップとしたネックレスだった。
「これは」
見覚えがあったのだろう。バトラー氏は目を見開き、言葉を詰まらせた。代わりに彼女が説明する。
「母の形見です。母がお祖父様から誕生日に頂いた物だと伺っております。今生での再会は叶いませんでしたが、せめて母の形見だけでもと思い、持ってまいりました」
「マリアーナの形見……」
もう亡き娘を思いやったのか、重く深く息を吐き出すバトラー氏。彼はここまでの贈り物の何よりも心を揺さぶられている様子だ。
一方、ソフィアはそれを注意深く観察して、占い師の言う通り、家族に関わる贈り物が効果的であったことに満足して唇を横に薄く引いた。
「ありがとう、レティシア」
「はい。お祖父様」
バトラー氏は優しい笑みを浮かべると、レティシアの頭にぽんと手をやる。
彼女は嬉しげに笑みを返して軽く礼を執り、元の位置に戻った。
「最後はソフィアだね」
「はい。お祖父様」
呼ばれてソフィアは前に進み、優雅な貴族礼義を執る。そこには迷いも緊張も無い。彼女にとってこれくらいの事はお手の物なのだろう。
場が感嘆のため息を落としたことに彼女はほくそ笑む。あなたたちと私では格が違うのよと。
彼女はそんな心を見事なまでに隠して、綺麗な笑みをバトラー氏に向ける。
「お祖父様、わたくしはこれをお持ちいたしました」
ソフィアは一枚のハンカチをバトラー氏に手渡すと、彼はそれを広げて眉をひそめた。何かを包んでいるのかと慎重に広げたが、開いた先には何もなかったからだ。つまり、これが贈り物なのだろう。そのハンカチには何やらおかしな生き物の刺繍が施されている。
「これは……何だね。トカゲの刺繍かね?」
困惑した様子でバトラー氏はソフィアの顔を見て問うた。すると彼女はくすりと笑う。
「いいえ。よくご覧くださいませ。バトラー家の紋章である獅子ですわ」
「え? し、獅子?」
バトラー氏は説明されて再びハンカチに目をやる。しかし、どの角度から見ても、どうひっくり返して見ても、トカゲ以上の物には見えない。
「母がお祖父様を想って刺したものですの。残念ながら、母は刺繍が不得意でしたのでご覧の出来になっておりますが」
――すると。
「はっ、はは。ははははは!」
バトラー氏は小さく笑いを漏らした後、腹の底から大声で笑った。
「そうだ。確かにそうだった。娘のマリアーナ、お前たちの母親は刺繍もお稽古も大嫌いで、勉強の時間になるといつも逃げ出して木登りしているようなお転婆な娘だったよ」
「まあ! 母ったら。そんな話、初めて知りました。その母の血を色濃く引き継いでいるせいか、私も手先が不器用で刺繍が大の苦手ですの」
自嘲するように笑ってソフィアは肩をすくめる。
「ははは。それは不幸な事だったな! だが、それは仕方がないよ。マリアーナの血を引いているんだからね! ……しかし、本当にこれを娘が?」
バトラー氏はふっと笑みを消すと、ソフィアにあらためて尋ねた。
彼女はゆっくりと頷く。
「はい。何度も指を針で刺しながら、一目一目ごとにお祖父様、お祖母様を想っていました。一時は恨みもしたし、家を出たことに後悔はないけれど、それでも両親を傷つけたのは深く後悔していると。私が今、とても幸せでいられるのは両親の愛を一杯受けて育ったからだと気付いた。それを伝えることはもう叶わないだろうけれど、今度は遠くから私が父と母の幸せを願う。その思いをこの刺繍に閉じ込めると」
レティシアは自分が伝えきれなかったソフィアの言葉に思わず涙ぐんだ。
一方、ソフィアが計算高いのは母親の本心を伝えつつ、両親への思慕を語るところだろう。案の定、バトラー氏は誰の目から見ても明らかに深く心を打たれたようだ。彼女の手を取って強く握りしめた。
「……ソフィア、娘の本心を教えてくれてありがとう」
「はい。お祖父様。わたくしも母の気持ちを伝えられて嬉しいですわ」
彼女は笑みを向けると、バトラー氏の前に立った時と同じように優雅に礼義を振る舞って、再び元の位置に戻った。
バトラー氏は受け取った贈り物をあらためて順番に見ていき、やがて疲れたように目を伏せた。誰もが不安と期待で彼が動き出すのを待っている中、彼は大きくため息をついた。
決定したようだ。バトラー氏は目を開く。
「皆、私への贈り物をありがとう。贈り物とは金に飽かした、ただ高価な物を贈ることではない。どうしたら喜んでくれるだろうと相手の気持ちに寄り添って、一生懸命選ぶものだ。それらが感じられて、どれも凄く素敵な贈り物だったよ。実に甲乙付けがたい」
そこで彼は苦笑する。
「君たちを試すような真似をしたことを恥じたいと思う。本当に悪かった。……しかし、やはり最初に横柄な態度で宣言した以上、私は一人に決めたいと思う。せめて自分の宣言を実行する意地は見せないと面目丸つぶれだからね。それでは発表する。私の全財産を相続させるのは――」
誰もが緊張感で身が縮こまり、静まりかえった中、高らかに告げられたその名は。
「ソフィア。ソフィア・ベーカーだ!」
私はカードを切りながら、客足の引いたカフェでユリウスに話しかけた。
「もうバトラー氏の遺産相続人は決まったかな」
「マディの占いでは誰と出る?」
「んー」
カードを相続の人数分だけ並べ、ぱたぱたと展開していく。私は残り二枚になったところで手を止めた。
「やっぱりベーカー姉妹が残ったわね。へへ。どう? 私、凄いでしょ?」
「はいはい。凄い凄い。もし当たったらだけど。で、二人の内どっち?」
軽く流すユリウスに膨れながらカードをめくると、パタンとカードが音を立てて表向いた。
「姉のカード。ソフィアさん、か」
私が呟いた時、店のドアベルの音に振り返る。そこにいたのはベーカーさん。妹のレティシアさんの方だ。
「この度は色々お世話になり、ありがとうございました。ご報告にまいりました」
「わざわざありがとうございます。どうぞお掛けになってください」
彼女はお礼を言って腰を下ろすと早速話し始めた。
「ソフィア。ソフィア・ベーカーだ!」
バトラー氏のその声を皆が聞いた瞬間、部屋は一気に落胆と悲哀の言葉で満ちる。一方、ソフィアは全身に鳥肌がぶわりと立ち上がった。頬は紅潮し、喜びで震えが起こる。しかし最後まで気を抜けないと思った彼女は、すぐに理性で必死に押さえ込ませた。
バトラー氏は語る。
「私は若い頃から利益を追求するあまり、子供たちには自分の考えを押しつけてきた。それが子供たちのためにもなると思っていたからだ。しかし自分が年老いて、いざ周りに誰もいなくなった時、家の繁栄を代償に大切なものを失ったのだとようやく気付いた。それが家族との絆だ」
彼はベーカー姉妹を交互に見つめた。
「私は、私に逆らい家を出た娘が許せなかった。けれども彼女もまた私を許せなかっただろう。お互いに分かり合えないまま娘は亡くなり、私の気持ちを伝える術も娘の気持ちを知る機会も永遠に失われた。ぽっかり空いた空間を永久に埋められないのだと思った。だが、それをソフィアが埋めてくれたんだ」
「お祖父様」
「だからこそ、その感謝として、私があらゆるものを代償にしてまで築いてきた財産を残してやりたいと思った。これは私の贖罪でもある。受け取ってくれるね、ソフィア」
「……はい。お祖父様」
堪えきれなくなって涙で潤んだソフィアは力強く頷くと、歓喜に溢れる震えを押さえるために、指先にいくつもの傷を作った手をぎゅっと握った。
「ありがとう。では、ソフィア・ベーカーに私の全財産を相続させるとここに宣言する。――レンツ君、頼む」
バトラー氏は隣の相続立会人に目配せすると彼は静かに頷き、子犬を抱き上げてソフィアの元へと歩いて行く。
何の儀式だろうか。
皆、息を殺してその様子を静観していたが、さすがのソフィアも緊張で喉から心臓が飛び出しそうな思いだった。
そんな彼女の心中を気にする様子もなく、立会人は彼女の前に立ち、口を開いた。
「ソフィア・ベーカー様。アレサンドロ・バトラー伯爵様の正式な相続人とここに認められました。よって伯爵様の全財産である子犬のテオをどうぞお受け取りくださいませ」
「――え?」
呟いたのはソフィア一人だったが、この部屋にいる者全てがぽかんとしただろう。
「伯爵様の全財産である子犬です」
「え、どういう」
「伯爵様がご逝去された際、財産は全て他の方へ渡る手はずとなっております。従って、伯爵様が今持ちうる財産はこの子犬のみとなります」
淡々と語る立会人の言葉を理解してきたソフィアは、それと共に顏色を無くしていく。
「そんな、だって……」
「私はこの子を散歩に連れて行ける身体ではなくなってしまった。それに老い先短く、これからまだ十数年はあるこの子の行く末が気になっていたんだよ。ソフィア、この子を頼むよ」
追い打ちをかけるように当の本人から言われて、ソフィアはようやく彼の意図が読めた。
やはり財産相続という餌で孫たちを競わせ、必死になって媚びを売る自分たちを上から嘲り笑って楽しんでいただけだったのだ。
彼女はずっと押さえ込んでいた感情がとうとう爆発する。
「――ざけないで!」
目の前の子犬を思いっきり叩くと、彼はきゃんっと小さな鳴き声を上げた。
「いらないわよ、こんな犬! そんな犬の面倒を見るためにここにやって来たわけじゃない! 結局お祖父様は私たちを自分の遊びの駒にしたかっただけなのね。何が家族の絆よ! 最後の最後までお祖父様は自分勝手で傲慢な人間だったのよ。母が家を飛び出した理由がようやく分かったわ。あなたなんて家族の誰にも看取られずに一人寂しく死んでいけばいい!」
ざわめく室内だが、孫たちも、その親たちもさすがにバトラー氏に愛想を尽きたようだ。各々口汚くバトラー氏を罵り、身を翻したソフィアに続いて帰って行こうとする。
レティシアはそんな光景におろおろしながらも、ソフィアに叩かれて怯え震えている子犬に気づき、バトラー氏に遠慮がちに視線をやった。
「あ、あの。お祖父様」
「何だね。レティシア」
「こ、この子を私が譲り受けてもよろしいでしょうか」
「え?」
自分を見る彼の視線に少し怯んだが、レティシアは逸らさずに見つめ返した。
「まずは姉の無礼とテオへの暴力をお詫び申し上げます。テオはとても怯えてしまいました。このままこの子が人間を嫌い、人間に怯える生活をしてほしくないのです。目一杯この子に愛情を注ぎ、幸せにしますから、どうぞ私にテオをお譲りくださいませ」
「……そうか。それではソフィアが相続を放棄したことにより、ここにいるレティシアがテオを受け取るということに修正する。皆、異存は無いか? 異存のある者は声を上げろ」
皆、馬鹿馬鹿しくなって、異存など無いわと吐き捨てて、誰も声を上げなかった。それを見てバトラー氏は頷く。
「――よし。それではレティシアを、私の全財産を引き継いだテオの後見人とすることをここに宣言する!」
驚愕の色と鋭く突き刺すような悲鳴が、ソフィアから一際高く上げられた。
「え!? 相続放棄されたのですか!?」
レティシアさんの言葉にびっくりして、私は目をしばたたかせた。
「ええ。テオは引き取りましたが、祖父の言う全財産は相続放棄いたしました」
「でも、お金があれば助かるって……」
「もちろん今でもその言葉は否定いたしませんよ」
彼女は悪戯っぽい表情でくすりと笑う。
「けれど私の目的は祖父が母をどう思っていたのか、知ることでした。それから母の思いも祖父に伝えたいと。私はその事を緊張で上手く伝えられませんでしたが、代わりに姉が伝えてくれました」
ふふと笑うレティシアさんに黒い強かさが見え隠れする私は、きっと疲れているに違いない。
「ソフィアさんは」
「それはもう怒り心頭です。手を伸ばせばすぐそこに今の生活を変えられる絶好の機会があるのにそれを行わず、与えられた運命の中で生きようとする私をどうしても許せないみたいです」
醜い程の本性をさらけ出し、バトラー氏を口汚く罵ってしまったとなっては、もうソフィアさんには相続の権利は永遠に回ってこないだろうから尚更だろう。心中をお察しする。お察しするだけね。
「私は今の生活の中で満足しようと諦めているわけでも、我慢しているわけでもないのです。変えたいと思わないのは、ささやかながら今を幸せに感じているからなんです」
彼女は続ける。
これまでソフィアさんは貴族の子としての誇りを持ち、男性にもてはやされ、飾り立てられることで自分の気持ちを満たしていた。しかし欲はますます膨らみ、現実の自分との間でさらに劣等感を募らせて行った。欲が一時的に満たされたとしてもまた新しい欲が出てくる。そうして膨らみ続ける欲のせいで飢餓感に襲われ、いずれ壊れてしまうのではないかと。
「姉にも祖父にも、お金や地位を放棄しても手に入れたい小さな幸せもあるのだと気付いてほしかったのです。そして私はこの身をもって、それを証明したいと思います」
きっと幸せになってみせますと彼女は輝く笑顔を見せると、帰って行った。
「やっぱりバトラー氏は食えない人間だったのね」
バトラー氏はソフィアさんが自分で刺繍したものだと見抜いたのだろう。そこで最後にもう一つだけ試したんだ。
「でもさ。……レティシアさんはそれを上回ったね。お祖父様の望んだ贖罪を受け取らず、姉の憧れた生き方を彼女の目の前で放棄したんだから。二人を見事なまでに制裁したわ」
食えない人間と言うにはあまりにも綺麗な彼女の笑顔を思い出して、私は苦笑いを浮かべた。
「そうだな」
「地位とお金を求めた女性。目の前の小さな幸せを求めた女性。……どっちが正しいのかな」
ぼんやり呟くと、カウンター内にいたユリウスがこちらにティーカップを差し出してきた。
「どちらが正しいかは、誰かが決めるものじゃない。本人が決めることだ」
「そか。――ん。美味しい。幸せ! ……って、こういう小さなものも幸せに入るのかな?」
「そうだな」
ユリウスはカウンターを出て私の隣に座ると、未だ裏向けに伏せられたまま放置されていたカードを取って表にした。
最後のカードは『妹』だ。
「はっ。こ、これってさ。レティシアさん、財産放棄しちゃったけど、占いは当たったってことでいいよね? ね? ね?」
「さあな」
ユリウスから肯定の言葉を引き出さねばと必死になる私に対して、彼は素っ気ない。
「えー!? そこは、そうだなって言うところでしょ!」
そう遠くない未来にこの穏やかな日常は儚く消えてしまうだろう。それでも私は膨れながら、今、目の前の幸せを掴んで揺さぶった。
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