つかれやすい殿下のために掃除婦として就くことになりました

樹里

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第239話 ノエル・ブラックウェルの手記(七)

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「影ですか?」

 エスメラルダ様の突飛な言葉に、思わず眉をひそめてしまったに違いない。

「悪意を多分に含んだ人間や生き物の霊です。その影が殿下のお体に悪影響を与えているのです。殿下は心身共に強く、影を寄せ付けないようなお方でした。それが突然、影に取り憑かれたのは呪いを掛けられたからです」
「いや……しかし」

 何と言っていいのか分からず、意味もない言葉を吐いてしまう。
 彼女は穏やかな笑みを浮かべる。

「私の祖先は占術師でしたが、さらに遡ればベルモンテ男爵家と一つの家系でした。その祖先は占術師でもあり、呪術を扱う家系でもあったのです。今は占術師の道に歩んだベルロンド家は廃れ、呪術師の道に進んだベルモンテ家は男爵として存続しております」

 なぜベルモンテ家が存続しているのか、つまりその呪術能力を政治的に利用してきた背景があったのだろう。

「我が家系は今や何の身分も持たぬ民ですが、能力は引き継がれているようです。少し先の未来を占える者もおりましたし、私のように人には見えぬものを認識できる者もおりました」
「そう、ですか」

 自分には無い能力をこれ以上否定する意味もないし、無駄に時間を使って議論する必要もない。

「殿下の呪いを解くことはできるのですか?」
「私は呪術の知識も浅く、技術もありませんので、今この場で解くことは叶いませんが、ベルロンド家に古くから伝わる書物が自宅にあります。そこには呪術にまつわる内容も書かれており、解く方法もきっと載っているはずです。探してみます。……ですが」

 エスメラルダ様は顔色の悪い殿下に視線をやる。

「私がここに来ることができるのはおそらく今回が最後でしょう」

 確かに彼女の言う通りだ。今回もリアーナまで巻き込んで強行突破したぐらいだ。次はもう不可能かもしれない。仮に解除する方法が見つかったとしても、殿下と対面せずにどうやって解けばいいのか。

「そうだわ」

 考え込む私を前に彼女は明るい声を上げた。

「申し訳ありません。後ろにある布を取っていただけますか」

 何か手立てを思いついたのか、お願いされたので何の疑いもなく承知いたしましたと背を見せる。
 布を取り、渡そうと振り返ったその時に入った光景は――エスメラルダ様が太陽光を受けて白く光る何かを殿下の左手首に引いた姿だった。

「な、にを――」

 私の言葉に耳を貸さずに、そのまま殿下の手首にご自分の手首を合わせた。

「エスメラルダ様、一体何を!」
「ノエル様。ご説明いたしますので、ひとまず手をお放しいただけますか?」

 反射的にエスメラルダ様の手を取ったが、彼女は動揺せずに私を見上げる。あまりにも落ち着いた彼女の瞳に私は自然と解放した。
 それに彼女を信頼して連れてきたのは他でもない自分だ。信用しなくてはどうする。

「失礼いたしました」
「いいえ。こちらこそ驚かせてしまい、申し訳ありません。殿下の御身に少々傷をつけるもので反対されるかと思い、騙し討ちするような真似をしてしまいました。誠に申し訳ありません」
「……いえ。それで今のは」

 彼女は手の平を返して自分の手首を見せる。するとそこには薄い赤い線と共にわずかに血が擦れていた。
 少量だったのか、血はもう止まっている。

「血の契りです。今、殿下と結びました」
「え!? 血の、殿下の血というのは、王家の血ということですか」

 彼女は私の強張る顔を見てくすりと小さく笑う。

「ご心配いりません。血の契りと申しましても、呪いが掛かった殿下の血を主とした契約で、他の王族の方々に干渉することはできません。また私は従属者ですので殿下に危害を与えることもできませんし、私に何かあったとしても殿下に危険が及ぶこともありません。ただし良い影響、殿下に能力を与えたり、治癒することはできます」
「あ。つまり」
「ええ。今は影を見る能力ぐらいしか共有できませんが、この契約で遠隔から殿下の呪いの解除を試みようと思います」

 ようやく彼女の意図が飲めて納得した。
 彼女は私がまだ持ったままでいた布を求めるので手渡すと、殿下の少しだけ血濡れた手首を軽く拭って指さす。

「ご覧ください。血の契りの印がここに」

 覗き込むと殿下の手首に星の形をした痣が浮かび上がっていた。
 確かにこのような痣はお持ちではなかったと思う。

「私の肩口にも同じ痣があるのです。今ここでお見せはできませんが」

 彼女はまた一つくすりと笑うと、今度はその瞳を真剣なものに変えた。そのまま振り返って未だ目を伏せたままの殿下の手を握ると跪く。

「私、エスメラルダ・ベルロンドはルイス・フォンテーヌ殿下に全身全霊を捧げて忠義を尽くすことを誓います」

 その姿を見て、彼女のか細い肩にあまりにも重い使命を背負わせてしまったことを痛感した。


 エスメラルダ様が殿下と血の契りを交わした日から数日後、事態は急展開を迎えた。
 ルイス殿下に呪いを掛けた魔女として、彼女の店に強制捜査が入るという話が突如、耳に飛び込んで来たのだ。

 一体なぜ。どこからの情報で!

 逸る気持ちに押されるまま馬を飛ばして彼女の店に向かう。
 到着した頃には、いつもは人気の少ない店に大勢の騎士が出入りしているのが見えた。

「……これは」
「ノエル様?」

 怯えたような女の子の声が聞こえて振り返ると、そこにいたのはこの店の常連の少女、アマンダさんだった。私は身を屈める。

「いつからここに?」
「さっき。そしたらお店に怖い顔をした騎士様がたくさんやって来て、エスメラルダ様が連れて行かれてしまったの!」

 ――っ! 遅かったか。

「エスメラルダ様は大丈夫ですよね? 何も悪い事をしていないですよね? すぐ戻って来ますよね!?」

 はらはらと涙をこぼす彼女の肩に手をやる。だが、その自分の手がかすかに震えているのに気づき、即座に手を引いた。

 動揺している場合ではない。状況を把握しなければ。
 私は息を吐く。

「ええ。大丈夫です。エスメラルダ様は何も悪い事はなさっていません。悪い事なんてできない、とてもお優しい方だというのはあなたが一番よくご存知でしょう?」
「うん。うん」
「すぐに戻って来ますよ。さあ、ここにいては人に巻き込まれて危ない。あなたはもうお帰りなさい」

 立ち上がると背をそっと押して促すが、彼女は立ち止まったまま私の顔を仰ぎ見る。

「エスメラルダ様にはルイス様がついていらっしゃるもの。絶対に大丈夫ですよね」

 だめ押ししてくる彼女に、私は笑顔を作るのがやっとだった。
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