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第276話 血の契り

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 短剣をつかんだユリアの手がそのまま侯爵様に振り下ろされたと思われた。
 ――が。

 侯爵様の背中へ短剣の切っ先が届く前に腕がぐっと止まる。
 ジェラルドさんが背後からユリアの腕をつかみ、止めてくださったのだ。

「あ……」

 よ、かった。
 ユリアが人を傷つけないで良かった。侯爵様がお怪我をしなくて良かった。本当に良かった。
 ジェラルドさんにお礼を申し上げようとしたところ。

「放してください!」

 いまだかつて聞いたことがないユリアの叩きつけるような声が、この場の空気を切り裂く。
 彼女は振り返るとジェラルドさんを仰ぎ見た。

「この女はロザンヌ様のお命を奪おうとした人間です。私からロザンヌ様を。この女だけは生かしておくわけにはいきません。分かったら放してください!」
「あなたは」

 憤りの感情を多分に含んだユリアに対して、ジェラルドさんの瞳と口調は落ち着いたものだ。

「あなたは血濡れた姿でロザンヌ様のお側にいるおつもりですか。血で汚れた手でロザンヌ様の手を取るおつもりですか」
「――っ」

 ユリアは彼の言葉に目を見張る。

「それとも自ら去るおつもりですか。けれど、あなたは常にロザンヌ様の側にいてお支えするとおっしゃっていたではありませんか。約束を破るおつもりなのですか」
「約、束……」

 淡々と言葉を紡ぐジェラルドさんに、ユリアは言葉を詰まらせた。

「そうよ! ユリア!」

 私は彼女の背に叫ぶ。

「あなたはわたくしの一番近くにいて、わたくしを守ると約束したでしょう! 破るなんて絶対に許さないんだから!」

 ユリアはゆっくりと私の方へと向く。

「絶対に許さない?」
「そうよ! 絶対に許さない。絶交よ! わたくしが絶交って言ったら絶交なんですからね!」

 浮かぶ雫が目から零れないように拳を作る私に対して、彼女もまた泣きそうな笑みを浮かべた。

「それは……嫌ですね」

 腕から力を抜いたようだ。それを察したジェラルドさんが彼女から短剣をそっと取り上げ、つかんだ手を離す。
 今度こそ息を吐こうとした時。

「いつまで引っ付いているのよ! どいてよっ!」

 クラウディア嬢が侯爵様を冷たい声で突き飛ばすと、不意を付かれた侯爵様はよろめく。しかし尻餅をつく前に駆け付けたジェラルドさんに抱え込まれた。

 酷い! 侯爵様はクラウディア嬢を庇ったのに。ご自分の命を狙っていた相手だったのに!

 侯爵様に気を取られた瞬間。
 クラウディア嬢はご自分の手から引き抜いたユリアの短剣を私に振り下ろす。しかしその短剣は私を庇うために伸ばされた殿下の手を切りつけた。

「――殿下!」

 クラウディア嬢はすぐさまジェラルドさんによって取り押さえられる。
 その姿を確認して殿下は私に振り返ると冗談っぽく、にっと笑った。

「心配ない。かすり傷だ。私もこれぐらいの見せ所がないとな」

 私はすぐさまハンカチを取り出して殿下の手に巻こうとするが、触れられないことに気付く。手に落とすように殿下へお渡ししなければならないのが、何ともやりきれない。

「申し訳ありません」
「いや。ありがとう」

 ハンカチで押さえながら殿下は立ち上がり、クラウディア嬢の元へと向かう。
 つられて視線を移すと、彼女はいまだに暴れて抵抗している。

「往生際が悪いぞ、クラウディア嬢。――ジェラルド」

 殿下の命令でクラウディア嬢はジェラルドさんに手首を捻り上げられて顔を歪め、短剣を手放す。落ちたそれを殿下が素早く足で払うと私の近くに滑ってきた。

 殿下とクラウディア嬢の血で濡れた短剣。
 私は何かが脳裏に閃き、それを取って立ち上がる。

「ロザンヌ嬢?」

 私の様子に気づき、殿下は不審そうに問うが、答えずに私は短剣を構えると――自分の左手の平に勢いよく引いた。

「ロザンヌ様!」
「ロザンヌ嬢、何を!」

 短剣を手から落とし、重い足を引きずりながら彼らの元に近付くと、クラウディア嬢の傷を負った手の甲を血濡れた自分の左手で包み込む。

「なっ、何のつもり!?」
「血の――」
「え?」
「血の契りです!」

 私が宣言すると一際高く鳴くネロの鳴き声が聞こえ、クラウディア嬢の眉をひそめた表情を最後に、バチンと弾けるような音と共に目の前が眩しい光で真っ白になった。


「ロザンヌ嬢!」

 崩れ落ちそうになったロザンヌの体をエルベルトが支える。

「どうした!? しっかりし――」

 一度は伏せられた目がゆっくりと開くと、彼は目を見張った。
 ロザンヌの見慣れた薄い緑色の瞳が青い瞳に変わっているからだ。

「ロザンヌ嬢……?」

 呼びかけられた彼女は自立し、優しげに微笑む。
 その笑みは、いつもは屈託のない快活な笑顔を見せる彼女とも違う。
 ロザンヌは彼の手を離れると、クラウディアを見た。

「あなた方、ベルモンテ家はもう二度と呪術を使うことはできません」
「は? 何言って」
「もしこれから先、一度でも誰かに呪術を使ったとしたら、その術は全て術者に跳ね返ってくるよう術式に組みこみました。ベルモンテ家の呪術の流れを汲む全ての人間においてです」

 ロザンヌはクラウディアの手の甲を指す。そこにはエスメラルダが持つ星紋がくっきりと浮かび上がっている。

「私が主、ベルモンテ家が従属者の血の契り。あなた方は私の能力に抗うことはできません。あなたも術者なら、血の契りによる契約の強さは分かるはずです」
「そ、んな馬鹿……な」

 一方、エルベルトはとっさに自分の手首を見たが、そこには見慣れたはずの星紋は――消え去っていた。

「エス、メラルダ嬢?」

 驚きで彼はロザンヌの背に問いかけると、彼女は振り返った。

「フォンテーヌ王太子殿下ですね。ようやくお約束を果たすことができました。長らくお待たせして大変申し訳ございません」

 微笑んで丁寧に礼を取るエスメラルダ・・・・・・に、エルベルトはぐっと息を詰まらせる。

「エスメラルダ嬢! 我々王族がしたこ――」
「王太子殿下」

 柔らかな声で彼の声を遮る。

「この国は今、豊かでしょうか? 美しいでしょうか? 民は幸せでしょうか?」
「っ。国は豊かで美しい。民は全てが平等とは言えないし、まだまだ改善すべき点はあるが、幸せに過ごしてもらえるよう努めたいと思っている」

 エスメラルダは笑顔で静かに頷いた。

「そうですか。それはとても喜ばしいことです。占術や呪術に頼る時代はもう終わりました。新しい道を。人の手で誰かを救い、救われるような互いに支えあう道を。笑顔になる人を一人でも多く」
「必ず果たすことを誓う。――必ず」

 決意を固くするエルベルトに再び頷くと、彼女は手を胸に当て、目を伏せて口元に優しげな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。私は千代に八千代に――この国の、民の幸せを祈っております」
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