つかれやすい殿下のために掃除婦として就くことになりました

樹里

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第288話 今日の私は昨日までの私とは違う

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 私は自分の部屋、長らくお借りしていた部屋に戻るとユリアに声をかける。

「あのね、ユリア。明後日、実家に帰るから荷作り手伝ってくれる?」
「ご実家に戻られるのですか? また日帰りなさるのでしょうか」
「いいえ、違うわ。この部屋を出て実家に帰るのよ。ここにはもう戻って来ないわ」
「――どうしてですか」

 目を見張り、一瞬言葉を詰まらせたユリアだったが、すぐに落ち着いた声で尋ねてきた。

「わたくしの役目はもう終わったもの。王家の呪いは解かれ、殿下に影祓いは必要なくなった。それ以上のことがあるかしら」
「……陛下に出て行けと言われたのですか。それで素直に出て行くと? ロザンヌ様にしては随分と引き際が良いのですね」
「引き際?」

 私の唇からは笑みが零れた。

「ユリア。わたくしは一人の女性の前に、ダングルベール子爵の娘です。貴族の娘なのです。そしてここは王宮。国王陛下の命に従うのは当然のこと。違いますか」
「殿下のお考えもそうなのですか。ちゃんとお話しされたのですか」
「……殿下のご意思は関係ありません」

 うそだ。本当は殿下のお答えを聞くのが怖いだけにすぎない。今の瞬間だけを大事にして、未来について考えなかったツケが回ってきたのだ。

「また王家は――ロザンヌ様まで、また同じ間違いを繰り返すつもりですか。ロザンヌ様は人の為に戦うのに、なぜ自分の為に戦わないのですか!」

 感情を露わにするユリアを見て、彼女もここで成長したんだなと思う。私も愛と言うには未熟だったかもしれないが、人を恋しく思う気持ちというものを知った。

「わたくしは選ぶ立場の人間でも、選べと言える立場の人間でもないわ。だけどね、ユリア。わたくしは自分の為に生きてみせると言ったでしょう。わたくしは誓ったでしょう。約束は破らないわ。けれど、それはここじゃない。ここじゃない、どこか違う別の場所なのよ」
「――っ」
「ユリアはここで請け負った翻訳の仕事があるわ。だからあなたはここに残って。でも最後に私の荷作りを手伝ってほしいの」

 ユリアは黙って何かを取り出すと私に何かを見せつけた。
 どうやらご下命が書かれた羊皮紙のようだ。常に身に付けているらしい。

「私が物事の優先順位を決め、嫌になったら私の意思を尊重し、ご下命を直ちに撤回した上、自由にしてそれ以降は私の生活を侵害しない旨が書かれています。私はロザンヌ様と一緒に帰ります」

 ユリアはつらい過去を抱えて王都に出てくるのにはとても葛藤があっただろう。それでも私は彼女を巻き込んでここまで連れてきた。慣れぬ環境の中で彼女がいてくれて、どれほど私は救われたことだろう。

 そんな彼女がここでお父様の意思を引き継ぐことができる役職を手に入れた。それなのにまた彼女を私の都合で連れ帰るの? いいえ。そんなことはできない。

「ユリアはここにいて」
「私には優先事項を決める権利があります。私は常にロザンヌ様と共に」
「あなたにはここで生きる意味を見付けることができたのだから」

 私はあなたの生きる意味を奪いたくはない。

「ロザンヌ様が私の生きる意味を決めることはできません。生きる意味は私だけが決めることができます。私が生きる意味は父の意思を継ぐことではありません。ロザンヌ様の側にいることです。ロザンヌ様がいたから私は生きてこられたのです。そしてそれはこれからもです。だからどうか……ご一緒させてください」

 まるで縋るかのような言葉に、ユリアが私に向けてくれる熱い思いに胸が一杯になる。

「ありがとう、ユリア。……ごめんなさい」

 ユリアを抱きしめる私を強く抱きしめ返してくれた。


 いつまでも続くと思われた平凡な日常は、ある日突然失われることがある。けれど私は幸運なことに、猶予をもらえたのだ。この日を大切にしたいと思う。

 翌朝。
 私はいつものように殿下に学校へ行く前の挨拶に訪れる。

「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう」

 殿下に丁寧に礼を取るとお顔を拝見する。
 うん。本日も殿下は麗しい笑顔です。
 この笑顔ももうすぐ見納めになるのかと思うと、一時も目を離すのが惜しい。

「とてもお天気が良いですね。気持ちいい朝です」
「ん?」

 殿下は私の言葉に、窓へと視線をやる。
 自分が言ったこととはいえ、自分から外れた視線に少しがっかりしてしまう。

「そうだな。そうみたいだ。だけど珍しいな。君が天気のことを気にするなんて」
「そうですか?」

 戻ってきた視線にまた嬉しくなる。
 一喜一憂している自分が何だか可笑しくなって、自然な笑みが溢れた。

「ああ。晴れの日も雨の日も、君がご機嫌なのは変わりない」
「そうですね。晴れの日も、雨の日も。雷の日でさえ好きでした」
「え?」
「ああ、そうだわ」

 私は両手をぱちりと合わせる。

「これまでは殿下のお体が真っ先に気になっておりましたから、きっとお天気のことまで気を配ることができなかったのですね」
「なるほど」
「ええ。――あ。そろそろわたくし、参りますね」
「待て。忘れ物だ」

 殿下は私に近付いて身を屈めると、額に軽くキスを落とした。
 いつもと違うキスに思わず見上げると、にっと笑った殿下を見ることになった。

「何だ? 不満か?」

 してやられたと思う。
 これが昨日の私ならば、不満ではありませんとツンとした態度で身を翻すところだ。だけど今日は。

「……ふ、不満です」

 必死の思いで言葉にすると、殿下は目を見張った。
 殿下にまじまじと見つめられて、これ以上の羞恥に耐えられそうにない。

「い、いえ。では行って参り――っ!」

 身を翻して逃げようとした私を捕まえた殿下は口づけを落とした。
 朝の挨拶にしては少しだけいつもより長く重ね合わされた唇は、呼吸が乱れる前に離される。

「……気をつけて」
「は、はい。行って参ります」

 目元に少し朱を差した殿下は、照れを隠すかのように目を半ば伏せて私を送り出した。
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