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第五章 結婚前夜
レオニダス2
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早朝から深淵の森に入った。
何時間もかけて歩いているが、リス程度の小さな魔物しか目にしない。しかも数えられる程度だ。
深淵の森は信じられないほど静かだった。
「――アンタ、誰だ?」
あの日。
信じられないほど身体が重くて、目を開けるのも億劫だった。だが、柔らかい声に名前を呼ばれた気がした。
求めてやまない、何か、大切なものに。
瞼を無理やり開けて飛び込むのは、白い天井。
そして、心配そうに俺の顔を覗き込む見知らぬ人物。
周囲を見渡せば、覚えのあるような、ないような顔ばかり。そして何より、アルベルトを見て驚いた。
確かにアルベルトだ、それは間違いない。だが。
「――本当にアルベルトか? お前……なんでそんなに老けたんだ?」
俺の知っている乳兄弟とは、年齢はひとつしか変わらなかったはずだ。
それが何故か、かなり年上に見える。どちらかと言うと、アルベルトの父、ジョストに似ている。ジョストなのかと思ったくらいだ。
ヨアキムは何ら変わりない。いや、もしかしたら白髪は増えたかもしれない。
アルベルトだけが老けたのか?
だがその後現れたアンナを見て、……皆、年を取っているのだと理解した。
困惑する俺を見て、さらに困惑する人々の視線に、胃の腑が嫌な重さを伴う。
なんだこれは。
一体何が起きているんだ?
そして一番、何よりも気になった人物。
「何ってこっちの台詞だ! 落っこちて頭でも打ったのか!? ナガセに謝れ!」
――ナガセ?
そう呼ばれた人物は、ベッドの端に腰掛けてじっと俺を見ていた。
(黒髪……?)
初めて目にした肩まであるその髪は、濡れ羽色に艶めいていた。瞳も黒だ。
きめ細かい白い肌を青ざめさせて、俺に差し出していた手を引っ込めた。その引っ込んでしまった手に、なぜかズキリと胸が痛む。
「あっ、あの私、部屋に戻るね!」
視線をそらして立ち上がるその人物に、手を伸ばしそうになる。
(なんなんだ……)
そして説明される現状。
俺が深淵の森で倒れていたこと、俺の年齢、立場、そして家族。
アルベルトが一つひとつ、確認するように俺の顔を見て言うのを、目を逸らしてはダメな気がして最後までじっと見つめ返した。
(俺が、辺境伯? 父上が亡くなった?)
あの父が亡くなったなど、信じられない。だがそれももう何年も前で、知らないのは俺だけなのだという。
父も妹も、誰もいない。
アルベルトはまた翌日改めて来ると言い残し、その日はそれ以上説明することなく去っていった。
父の跡を継いだ俺は辺境伯として兵たちを率いている、婚約者もいて、式を控えている。
そんなことを言われても、こうして思考している俺は二十歳だ。
二十九歳の俺のことなど聞かされても、もはや他人の人生のようでしかない。
――昨日まで何をしていた?
目を覚ます前はどこで何をしていた?
覚えていない。
周囲には知っている顔もある。屋敷もわずかに違和感はあるが、間違いなくザイラスの屋敷だ。
(――あの女性は)
記憶にないあの女性は誰だ?
結局その夜は何も理解できないまま、眠ることもできなかった。
――ワンッ!
離れた場所から聞こえた吠える声に、我に返る。
視線を向けた先には、あの大きな黒い犬がこちらを見て立っていた。
近付くと、雪の中に黒い筒と血の付いた布切れが落ちている。
「――なんだこれは」
拾い上げて念のため腰の鞄へしまう。
「オッテ」
名前を呼ぶと、一度だけ尻尾を振った。
俺が屋敷を出るときも、砦から深淵の森へ向かうときも、当然のようにあとを付いてくるオッテは、中々に賢い犬だ。よく躾けられている。
『この子たちもレオニダスさまが拾ったんですよ』
そう言ったナガセのことも、俺が深淵の森で拾ったのだという。
気まずそうに俺のことを呼ぶ彼女は、アルベルトの義妹で俺の婚約者だとヨアキムに言われたが、正直、見知らぬ人物でしかない。
(俺が婚約したなんて、考えられない)
自分が結婚するなんてまったく想像がつかない。
政略的なものはいつかあるかもしれないと、頭の片隅で思ってはいたが、まさか貴族でもない人物と婚約するとは思わなかった。
アルベルトから手渡された俺の戸籍情報、ヨアキムから受け取った現在の屋敷や身辺にいる人物のリスト。もうそこにはない名前や見知らぬ名前の中に、彼女の名前はあった。
そこには、実の両親の名前も出身地も何もない。
ただ、『ナガセ・カレン・バーデンシュタイン』とだけ書かれていた。
(身寄りのない孤児か、移民?)
見たことのない色を纏い、顔つきも違う彼女は、人々の奇異の目にさらされそうなものだが、少なくとも屋敷でそんな様子はない。
(初めて見る色だが、美しい色だ)
だから惹かれたのだろうか。
彼女がそばにいると落ち着かないのは、知らない人物だからか?
考え事をしながら歩いていると、開けた場所に出た。いつの間にか湖にたどり着いたようだ。
足元の雪をかき分ければ、凍った湖面が現れる。氷にぼんやりと映る自分を見下ろし、想像していたよりも父に似ていることにまだ慣れない。
(何があったのか、誰がどんなふうに死んだのか。この顔の俺は知っているんだろう)
リストにない仲間たち、辺境の人々。
父の死も、妹夫婦の死も、今の俺は知らない。どんなふうに亡くなったかまでは書かれていない。
誰かに聞く? 一体誰に?
「――そうだ、赤ん坊は……」
エウラリアは妊娠していた。
亡くなった人物の中に名前がなかったということは、今も生きているということだろう。
名前は確か……。
「エーリク、だ」
ポツリと呟くと、足元のオッテがワンッ、と吠える。
「エーリクを知っているのか、オッテ」
頭を撫でてやると目を細めて尻尾を振った。
亡くなった人々、誕生した命。
時が止まったのは俺だけで、辺境は間違いなく変化している。俺が望んでいた良い方向へ、明るい未来へと変わっていっている。
それを今は忘れているだけだ。
「思い出せばいいだけだな」
そうして取り戻した記憶の中に、彼女のこともあるだろう。
そう思えば少し、重かった身体が軽くなった気がした。
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