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1 婚約と失恋
しおりを挟む「婚約したんだ」
青い空に白い雲がぽっかりと浮かんだ、気持ちのいい昼下がり。
久しぶりに彼の屋敷へ呼ばれたのは、領地の牧場で牛のお産に立ち会った後だった。
「は……、え?」
難産だったのを一晩中見守り、やっと誕生したのを見届けてクタクタになって帰宅すると、「大事な話がある」と書かれたメッセージカードが彼、フィルから届いていた。
(大事な話!)
慌てて厨房へ駆けこんで、持参するための菓子の準備を料理長にお願いした。
その間に急いで身支度を整えて、作業着からお気に入りのデイドレスに着替える。すっかり眠気はどこかへ行ってしまった。
(大事な話って何かしら。最近あまり会えなかったから、緊張してしまうわ)
そうしてフィルの屋敷、クレマン子爵家へ到着して通されたのは、いつもの庭や玄関ではなく、応接室だった。なんだか雰囲気が違う気がして、勝手に胸が期待に膨らむ。応接室にはすでにフィルがいて、私を見て嬉しそうに柔らかい笑顔を見せた。
「お疲れさま、アレックス。ごめんね、お産に立ち会っていたのを知らなくて、呼び出したりして」
「いいのよ、大丈夫。何かあったの?」
「うん……、あったというか、君に話したいことがあって」
(話したいこと!)
ソファに腰掛け、キラキラと艶めくイチゴのタルトをテーブルに広げて、さあ話は何? と、フィルを前に身構えた。
そして聞こえてきた、「婚約した」の言葉。
「こんやく……? だれが?」
「ふふ、僕がだよ」
フィルが、恥ずかしそうに目元を赤く染めて、初々しい笑顔を私に向ける。そんな見たことのない笑顔を向けられて、混乱する私。
幼いころからいつも一緒に過ごしてきたこの幼馴染は子爵家のひとりっ子で、弟が四人もいる私と違い、のんびりとした性格だ。
ふわふわした雰囲気は、うるさい弟たちに頭を悩まされている私の心を癒してくれる存在で、そんな彼をずっと好きだった。
そして彼も、自分とは違う一面を持つ私を、好きだと言ってくれた。
「――あ、その、もしかして家へ連絡を入れたの? でも、できれば先に直接言葉が欲しいというか……」
(家を通して婚約を申し込んでくれたということ?)
我が家は男爵家で、クレマン子爵家の広大な領地の一部を管理している。
農家や酪農家が多く、貴族と言ってもほぼ毎日のように作業着に身を包み、あちこちで農作業や領民の仕事を手伝っていた。
それでも彼は、形式に則って、婚約を家へ申し込んでくれた、ということだろうか。
(そうね、私たちは物心ついたころからお互いを知っているから、改めて交際を申し込むとかは必要ないわ。でもできれば応接室じゃなくて、もっとこう雰囲気のある場所とか……!)
ああでも、のんびりした彼は、そんな気の利いたことを考えられるような人じゃない。話がある、なんて手紙を出すだけでも上出来な方だと思う。
「家にはまだ知らせていないんだ。アレックスの言うとおり、僕も本人に直接言いたいと思っていたから」
(うん……?)
彼のセリフを聞いても、ちょっと意味が分からない。
私、聞いてないけど?
「ほら、丘の上に見晴らしのいい公園を整備しただろう? アレックスの助言どおり色とりどりの花を植えて、凄く領民の評判もいい、あの場所。そこに彼女を連れて行ったらね、すごく気に入ってくれたんだよ。だから、その、そこで……」
そこまで言って、フィルは「恥ずかしいな」と照れくさそうに紅茶を口にした。
去年、私たちのお気に入りだった丘の上に公園を整備した。いつも二人で馬に乗って行っていたあの場所をきれいにして、もっといろんな人に見てもらおうと、二人で計画した。
――彼女……って、だれ?
「あの、それはだれに……?」
「えっとね……、隣の領地を管理している、スウェイン子爵令嬢に」
「ス……」
あの、小さくてかわいらしいお花のようなご令嬢、と? え? だれが?
「おかげで凄く素敵なプロポーズができたんだ」
「ぷ……」
「リリーからも、いい返事が貰えたんだ。アレックスのお陰だよ」
「りりー……」
「僕は、君みたいに身長も高くなれなかったし、こんな性格だろう? 君のようにしっかりしていないから、リリーのような女性には相応しくないんじゃないかって、悩んでいたんだ。でも、勇気を出してよかった」
「――あなたは素敵な人よ、フィル」
少し垂れ気味の目を優しく細めながら、フィルは「ありがとう」と笑う。
心臓が、さっきまでとは違う鼓動を刻む。ドキドキと期待に満ちたものではなく、嫌な汗を手にかいて、目の前が暗くなるような速さの鼓動。
「ああでも、彼女は僕と君の仲がいいのが、少し妬けるんだって。心配いらないよって言ったんだけど、確かに男女の友情って外からは勘違いされるかもしれない」
「ゆう……、かん、ちがい」
「だからもう、あまり二人で会わないほうがいいだろうと思ってね。あらぬ誤解を招いては、彼女が悲しんでしまうから」
(あらぬ誤解……?)
「でも、アレックスには一番に話しておきたかったんだ。だって僕たち、一番の友人じゃないか」
「いちばん……」
照れくさそうにはにかむフィルは、料理長自慢のイチゴタルトを口にして、「おいしい」と幸せそうに笑った。
*
「アレックス! お帰り、どうだった!?」
呆然としたまま屋敷へ帰ると、玄関先で両親が農作業のつなぎを着たまま待ち構えていた。すでに日は傾き、さっきまで青空だった空はオレンジ色に輝いている。
「ただいま……」
麦わら帽子の下で頬を赤らめたお父さまが、そわそわと作業用の手袋を弄りながら近付いてきた。
「フィルさんとお話したんだろう?」
「フィルさんからメッセージを貰ったって聞いたわよ。イチゴタルトを持って慌てて出かけたって。大事なお話だった?」
お母さまも首に巻いていたスカーフを取りながら、私の顔をキラキラした目で見つめてくる。そう、大事な話ではあった、確かに。
「おいしいって言っていたわ」
「それはよかった! じゃなくて!」
お父さまがグイっと身を乗り出す。
「祖父の代から子爵領の領地を管理するようになって男爵位を賜り早百年。しがない男爵家の我が家からついに子爵家へ嫁を出す時が来るなんて! 先祖にも鼻が高い!」
「――男爵じゃないわ、子爵ですって」
「フィルさんはクレマン子爵家の嫡男だからな。まさか本当に、アレックスが子爵夫人!」
「家格が釣り合ってるという理由だけじゃないみたい」
あの表情。あれは本当に……彼女のことが好きな表情だった。
(私、一人で勝手に期待してたんだわ……)
ここ最近会えなかったのは、きっと彼女と二人で会っていたからだ。だと言うのに、久しぶりに会えることを喜んでいたなんて。
「アレックス? なんの話?」
それまでキラキラした目で私を見ていたお母さまが、ふと表情を曇らせた。
「婚約したって報告を受けたの」
「そうか! やったじゃないか!」
「あなた、ちょっと黙って!」
天に向かって拳を突き上げるお父さまの脇腹をお母さまが肘で突くと、「うっ」と呻き声を上げて蹲る。そんな両親から目を逸らして視線を落とせば、視界に飛び込んでくるのは小花柄のドレス。
背の高い私には似合わない、かわいいドレスに身を包んだ自分が、すごくみじめだ。
「フィルが、スウェイン子爵家のご令嬢と婚約したわ。その報告を、受けてきたの」
私の言葉に、まるで突然深夜になったかのような沈黙が訪れた。
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