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2.石塀の向こう側
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「ねえ、トールキン。この家には誰が住んでいるのかしら?」
澄み渡った空の下。私は石塀の前で、愛猫に話し掛けていた。
ところどころ朽ちて石が抜け落ち、隙間の出来た塀の向こうに、鮮やかな緑の木々が広がっている。かつて色んな形に刈り込まれていたのであろう庭木が野放図に枝を伸ばして、そこに白や紫の薔薇が絡まって群がり咲いていた。
塀の隙間から、地面の草むらが垣間見えた。まだらな木漏れ日の中に、白い夏白菊、薄青色のレースフラワー、野生化した三色菫が浮かび上がる。どこからかうっすらと、ライラックのような香りが漂ってきた。
(素敵な庭だなあ)
うっとりと眺める。
花束に埋もれるように、家屋敷の一階は木々に埋没して隠れている。ここから見えるのは、二階から上だけだ。くすんだ灰色煉瓦に、白い煉瓦を縁取りに用いた立派な家。屋根裏部屋の窓が大きいのは、かつて召使い部屋が大きく取られていた時代の名残だろう。
それは、まるで──時の止まった灰色の城のように見えた。
「二年前ぐらいに、上品な老婦人が出入りするのを見掛けたっていう話を聞いたけれど。それきり、噂を聞かないのよね。今はもう誰も住んでないのかしら?」
「ぶにゃあ」
「魔法を掛けられたお姫様が、ひっそりと暮らしていたらいいと思わない?」
「ぶにゃ」
「ごめん、トールキン。腕が保たない……地面に下ろすね」
私はそろそろと、腕に抱いていたトールキンを地面に下ろした。
痙攣している腕の筋肉を撫でさする。トールキンは私の散歩に付き合ってくれる、とても珍しい猫なのだが、残念なことに自分の足で歩く気は皆無だ。
いきおい、私の腕の筋肉が鍛えられるというものだが、いくら鍛えてもトールキンは少しも軽くならない。何故。
「ぶにゃ」
不満そうに鳴くトールキンを見下ろす。犬のように、赤い首輪と紐をつけてあるけれど、その首は……いや、首らしき箇所はむっちりと肉が膨らんで、どこがくびれなのか分からない。正直、なんで首輪がそこに留まっていられるのか、仕組みが謎だ。
(美形の王子様が呪いを掛けられた姿……と書いたけれど、無謀すぎたかな)
自分で書いた物語を思い出して、少し遠い目になる。
(どうせだったら、あんな素敵な家に住めたらいいよね)
その夜、食卓のテーブルに新しいノートを広げて、私は空想に耽っていた。
沸かしていたお湯が、しゅんしゅんと音を立て始める。立ち上がって薬罐を下ろし、お茶を淹れて、再び席に戻る間も、私はずっと考え続けていた。
(草木が繁っていたけれど、小道はまだ残っていて、点々と置かれた敷石を辿ると、木々で出来た小さなトンネルに繋がっていて。外からは見えないけど、その奥に鮮やかな花が咲き乱れる奥庭があって。小さな池には小さな橋。夏には睡蓮。冬には一つ二つ実が残った林檎の木の上に雪が被さって……)
ノートの上にペン先を彷徨わせ、出だしの言葉を考える。
(魔法に掛けられたお姫様は、そのお屋敷と庭から出ることはできないけれど、池の魚に餌をやって、小さな水車を作って回し、たんぽぽの綿毛を吹き飛ばしては、毎日楽しく遊んでいました)
ペタペタと裸足で駆け回る、ちょっと野生児みたいな可愛いお姫様を想像する。
(でも、そんなお姫様の元にも、やがて運命の騎士がやって来て……)
「ぶにゃあ」
「何、トールキン?」
潰れた蛙みたいな鳴き声が聴こえたので、私のありきたりな想像にトールキンが異議を唱えたのかと思ったけれど、彼は暖炉の傍に置かれたバスケットの中ですやすや眠っていた。どうやら寝言らしい。
「ふふ」
美形な王子様でもないし、いつも無愛想だけれど、彼が心底くつろいで眠っているのを見ていると、いつも心が安らぐ。
「……うん、この家も大好きだけどね」
私の家。有り余っていた試しがない、むしろ倹しい給料を費やして、必要なものを揃え、質素ながらもそれなりに好きにやってきた。魔法の城ではないけれど、私にとっては愛着のある家だ。
テーブルに頬杖をついて、しばらく、夜の音に耳を澄ませる。家賃が安いだけあって、ここは街中から大きく離れている。聴こえてくるのは木の葉擦れの音、虫の声、カーテンが風にはためく音。その程度のものだ。
静かだなあ、と思いながら目を細めた。
(そろそろ寝よう)
もうじき日付を越えてしまう。明日も仕事はある。もう休まねば。
そう思って、立ち上がろうとしたとき。ガタン! と扉に体当たりするような音が響きわたった。
澄み渡った空の下。私は石塀の前で、愛猫に話し掛けていた。
ところどころ朽ちて石が抜け落ち、隙間の出来た塀の向こうに、鮮やかな緑の木々が広がっている。かつて色んな形に刈り込まれていたのであろう庭木が野放図に枝を伸ばして、そこに白や紫の薔薇が絡まって群がり咲いていた。
塀の隙間から、地面の草むらが垣間見えた。まだらな木漏れ日の中に、白い夏白菊、薄青色のレースフラワー、野生化した三色菫が浮かび上がる。どこからかうっすらと、ライラックのような香りが漂ってきた。
(素敵な庭だなあ)
うっとりと眺める。
花束に埋もれるように、家屋敷の一階は木々に埋没して隠れている。ここから見えるのは、二階から上だけだ。くすんだ灰色煉瓦に、白い煉瓦を縁取りに用いた立派な家。屋根裏部屋の窓が大きいのは、かつて召使い部屋が大きく取られていた時代の名残だろう。
それは、まるで──時の止まった灰色の城のように見えた。
「二年前ぐらいに、上品な老婦人が出入りするのを見掛けたっていう話を聞いたけれど。それきり、噂を聞かないのよね。今はもう誰も住んでないのかしら?」
「ぶにゃあ」
「魔法を掛けられたお姫様が、ひっそりと暮らしていたらいいと思わない?」
「ぶにゃ」
「ごめん、トールキン。腕が保たない……地面に下ろすね」
私はそろそろと、腕に抱いていたトールキンを地面に下ろした。
痙攣している腕の筋肉を撫でさする。トールキンは私の散歩に付き合ってくれる、とても珍しい猫なのだが、残念なことに自分の足で歩く気は皆無だ。
いきおい、私の腕の筋肉が鍛えられるというものだが、いくら鍛えてもトールキンは少しも軽くならない。何故。
「ぶにゃ」
不満そうに鳴くトールキンを見下ろす。犬のように、赤い首輪と紐をつけてあるけれど、その首は……いや、首らしき箇所はむっちりと肉が膨らんで、どこがくびれなのか分からない。正直、なんで首輪がそこに留まっていられるのか、仕組みが謎だ。
(美形の王子様が呪いを掛けられた姿……と書いたけれど、無謀すぎたかな)
自分で書いた物語を思い出して、少し遠い目になる。
(どうせだったら、あんな素敵な家に住めたらいいよね)
その夜、食卓のテーブルに新しいノートを広げて、私は空想に耽っていた。
沸かしていたお湯が、しゅんしゅんと音を立て始める。立ち上がって薬罐を下ろし、お茶を淹れて、再び席に戻る間も、私はずっと考え続けていた。
(草木が繁っていたけれど、小道はまだ残っていて、点々と置かれた敷石を辿ると、木々で出来た小さなトンネルに繋がっていて。外からは見えないけど、その奥に鮮やかな花が咲き乱れる奥庭があって。小さな池には小さな橋。夏には睡蓮。冬には一つ二つ実が残った林檎の木の上に雪が被さって……)
ノートの上にペン先を彷徨わせ、出だしの言葉を考える。
(魔法に掛けられたお姫様は、そのお屋敷と庭から出ることはできないけれど、池の魚に餌をやって、小さな水車を作って回し、たんぽぽの綿毛を吹き飛ばしては、毎日楽しく遊んでいました)
ペタペタと裸足で駆け回る、ちょっと野生児みたいな可愛いお姫様を想像する。
(でも、そんなお姫様の元にも、やがて運命の騎士がやって来て……)
「ぶにゃあ」
「何、トールキン?」
潰れた蛙みたいな鳴き声が聴こえたので、私のありきたりな想像にトールキンが異議を唱えたのかと思ったけれど、彼は暖炉の傍に置かれたバスケットの中ですやすや眠っていた。どうやら寝言らしい。
「ふふ」
美形な王子様でもないし、いつも無愛想だけれど、彼が心底くつろいで眠っているのを見ていると、いつも心が安らぐ。
「……うん、この家も大好きだけどね」
私の家。有り余っていた試しがない、むしろ倹しい給料を費やして、必要なものを揃え、質素ながらもそれなりに好きにやってきた。魔法の城ではないけれど、私にとっては愛着のある家だ。
テーブルに頬杖をついて、しばらく、夜の音に耳を澄ませる。家賃が安いだけあって、ここは街中から大きく離れている。聴こえてくるのは木の葉擦れの音、虫の声、カーテンが風にはためく音。その程度のものだ。
静かだなあ、と思いながら目を細めた。
(そろそろ寝よう)
もうじき日付を越えてしまう。明日も仕事はある。もう休まねば。
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