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其の二十八 太一のタンス
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あまり石鹸の匂いをさせていると、案外鋭い母さんにばれるのでは。
そう思った俺達は、外気温がまだ三十度を超えている夕方の道を、わざとのんびり歩いて帰った。あっという間に汗だくになると、これで多分大丈夫かなと二人笑い合う。こうして誰にも言えない二人だけの秘密を共有するのは、何だかこそばゆいものだ。
俺の家に戻ると、母さんはまだ戻っていなかった。またどこかで立ち話をしているか、街の方まで買い物に行っているのだろう。これはチャンスだとばかりにさっと風呂を洗って沸かし、花から先に風呂に入ってもらった。元々風呂掃除は俺の担当なので、これも全く違和感はない。つくづくやっていてよかったとこんな時に思うのだから、人生何に感謝をする日が来るか分からないものだ。
蚊取り線香を用意し縁側に寝そべると、片肘をつき、目の前に黒く広がる深い山の森と茜色の空との境界線のコントラストを、ただぼんやりと眺めた。
あの森のどこかで、今もきっと太一の骨は埋まっている。本当に熊に食われたのか、それとも怪我をして動けなくなって息絶えてしまったのか、真実は誰にも分からない。知っているのは太一だけだ。
太一に対する俺の感情は、相変わらずもやっとしていて掴みどころがないままだ。あるのは、ぼんやりとした不快感と、それに対する俺の罪悪感。双子なのに、太一は俺のことが大好きで、俺はそうじゃなかった。そのことに対し、俺は確かに罪悪感を覚えていた。
いなくなると分かっていたなら、もっと優しくしてやることが出来たんじゃないか。
考えても詮無いことを今更の様に考えたところで、発展性は何もないのが分かるだけに虚しさのみが残る。
もし太一が失踪せず、今も俺と一緒に隣で生きていたら、今頃俺達はどういう関係になっていたのだろうか。
もしかしたら、太一にもちゃんと好きな女の子が出来て、俺に恋していたことを黒歴史だなんて笑っていたかもしれない。太一のあれは、俺が異様なまでに花に執着したが故の嫉妬も多分にあると思う。花を好きだという態度を隠しもしなかったから、それで太一は唯ひとりの弟である俺を取り戻そうと、執拗なまでに追いかけたのではないか。
自分のものだったのに。自分が一番だったのに、花が現れて一番でなくなってしまった。そういった想いが、太一の中に歪んだ独占欲を生み出してしまったのか。太一はそれを、恋愛感情と勘違いしたのかもしれない。
今、目の前に太一の幻が現れたら俺はどう感じるだろうか。やはり怖いと思うのだろうか。
俺の恐怖の源は、俺の中にある。だから、もしかしたら次は見ても怖くない可能性もあった。
俺が怖がっているのは、もしかしたら太一を理解出来ないことではなく、そんな太一に対して親愛の情が湧かない自分の冷酷さに関してなのかもしれない。
さっきまではあんなに怖がっていたのに、今度は太一が現れないかと心のどこかで期待している自分に気が付いた。怖い怖いと花に情けなく縋りついておいて、これだ。自分の浮き沈みの激しさには、驚くしかない。
以前、太一らしき足を見かけた付近をぼんやりと見つめる。そうしている間にも、辺りはどんどん闇に近付いていっていた。
森からは、もう見えなくなるだろうに、蝉がまだ元気に鳴いている。景色と鳴き声の違和感に、言いようのない不安を覚えた。すると。
「宗ちゃーん?」
母さんの声が聞こえた。帰ってきたらしい。
「んー? どうしたの?」
俺は立ち上がると、廊下から和室に顔を覗かせている母さんを振り返った。
「ねえ、いっちゃんのタンス、触った?」
「太一のタンス? 触ってないよ、何で?」
太一の服が入ったタンスは、数年前に空き部屋に移動した。移動させたのは父さんだ。太一のタンスの引き出しを開けてはその前でただぼんやりと座り込んでいる母さんの姿を、俺に見せたくなかったんだろう。母さんがフリーズしてるよ、と父さんに言いにいくと、父さんはいつも何も言わずポンと俺の頭を撫でたものだった。
捨てることは、父さんにも出来なかったんだろう。だけど、移動しただけでも効果はあった。母さんは、俺の服を畳んで部屋にしまいに来るとよくその状態になったからだ。
お前も自分の服くらい自分でしまいなさい。父さんにそう言われたのは、小五の終わり頃だっただろうか。そうか、俺が自分でやれば、それだけ母さんは悲しみと向き合う時間が減るんだ。その時、初めてそう気付いた覚えがある。
母さんが、そんなタンスを覗いていた。その事実が、俺にひやりとしたものを覚えさせる。
「もういい加減、整理していこうかなって思って」
「あ、そうなの?」
想像したこととは違う答えが返ってきて、あからさまにホッとした。母さんのあの姿は、出来ればもう二度と見たくない。闇の深淵を覗く大切な人の背中は、見ていられないものだからだ。
「七回忌も終わったしね。ずるずるとここに縛り付けておいたら、いつまで経ってもいっちゃんが成仏出来ないかもしれないし」
努めて明るく言う母さんに、何が言えるだろう。
「……うん、そっか」
「ね。だから今日はずっと整理をしてたら、もうこんな時間でびっくりしちゃった」
「あ、出掛けてたんじゃなかったの?」
「家にいたわよ、ずっと」
家でイチャイチャしなくてよかった。少しひやりとする。
母さんが、腰に手を当てて首を傾げた。
「宗ちゃんとお揃いで買った、赤いTシャツが見つからないのよね。タンスの上の方にあった筈なのに」
「……赤いTシャツ……?」
「本当に知らない?」
その言葉を聞いて、ひやりどころでなく、全身に鳥肌が立った。
そう思った俺達は、外気温がまだ三十度を超えている夕方の道を、わざとのんびり歩いて帰った。あっという間に汗だくになると、これで多分大丈夫かなと二人笑い合う。こうして誰にも言えない二人だけの秘密を共有するのは、何だかこそばゆいものだ。
俺の家に戻ると、母さんはまだ戻っていなかった。またどこかで立ち話をしているか、街の方まで買い物に行っているのだろう。これはチャンスだとばかりにさっと風呂を洗って沸かし、花から先に風呂に入ってもらった。元々風呂掃除は俺の担当なので、これも全く違和感はない。つくづくやっていてよかったとこんな時に思うのだから、人生何に感謝をする日が来るか分からないものだ。
蚊取り線香を用意し縁側に寝そべると、片肘をつき、目の前に黒く広がる深い山の森と茜色の空との境界線のコントラストを、ただぼんやりと眺めた。
あの森のどこかで、今もきっと太一の骨は埋まっている。本当に熊に食われたのか、それとも怪我をして動けなくなって息絶えてしまったのか、真実は誰にも分からない。知っているのは太一だけだ。
太一に対する俺の感情は、相変わらずもやっとしていて掴みどころがないままだ。あるのは、ぼんやりとした不快感と、それに対する俺の罪悪感。双子なのに、太一は俺のことが大好きで、俺はそうじゃなかった。そのことに対し、俺は確かに罪悪感を覚えていた。
いなくなると分かっていたなら、もっと優しくしてやることが出来たんじゃないか。
考えても詮無いことを今更の様に考えたところで、発展性は何もないのが分かるだけに虚しさのみが残る。
もし太一が失踪せず、今も俺と一緒に隣で生きていたら、今頃俺達はどういう関係になっていたのだろうか。
もしかしたら、太一にもちゃんと好きな女の子が出来て、俺に恋していたことを黒歴史だなんて笑っていたかもしれない。太一のあれは、俺が異様なまでに花に執着したが故の嫉妬も多分にあると思う。花を好きだという態度を隠しもしなかったから、それで太一は唯ひとりの弟である俺を取り戻そうと、執拗なまでに追いかけたのではないか。
自分のものだったのに。自分が一番だったのに、花が現れて一番でなくなってしまった。そういった想いが、太一の中に歪んだ独占欲を生み出してしまったのか。太一はそれを、恋愛感情と勘違いしたのかもしれない。
今、目の前に太一の幻が現れたら俺はどう感じるだろうか。やはり怖いと思うのだろうか。
俺の恐怖の源は、俺の中にある。だから、もしかしたら次は見ても怖くない可能性もあった。
俺が怖がっているのは、もしかしたら太一を理解出来ないことではなく、そんな太一に対して親愛の情が湧かない自分の冷酷さに関してなのかもしれない。
さっきまではあんなに怖がっていたのに、今度は太一が現れないかと心のどこかで期待している自分に気が付いた。怖い怖いと花に情けなく縋りついておいて、これだ。自分の浮き沈みの激しさには、驚くしかない。
以前、太一らしき足を見かけた付近をぼんやりと見つめる。そうしている間にも、辺りはどんどん闇に近付いていっていた。
森からは、もう見えなくなるだろうに、蝉がまだ元気に鳴いている。景色と鳴き声の違和感に、言いようのない不安を覚えた。すると。
「宗ちゃーん?」
母さんの声が聞こえた。帰ってきたらしい。
「んー? どうしたの?」
俺は立ち上がると、廊下から和室に顔を覗かせている母さんを振り返った。
「ねえ、いっちゃんのタンス、触った?」
「太一のタンス? 触ってないよ、何で?」
太一の服が入ったタンスは、数年前に空き部屋に移動した。移動させたのは父さんだ。太一のタンスの引き出しを開けてはその前でただぼんやりと座り込んでいる母さんの姿を、俺に見せたくなかったんだろう。母さんがフリーズしてるよ、と父さんに言いにいくと、父さんはいつも何も言わずポンと俺の頭を撫でたものだった。
捨てることは、父さんにも出来なかったんだろう。だけど、移動しただけでも効果はあった。母さんは、俺の服を畳んで部屋にしまいに来るとよくその状態になったからだ。
お前も自分の服くらい自分でしまいなさい。父さんにそう言われたのは、小五の終わり頃だっただろうか。そうか、俺が自分でやれば、それだけ母さんは悲しみと向き合う時間が減るんだ。その時、初めてそう気付いた覚えがある。
母さんが、そんなタンスを覗いていた。その事実が、俺にひやりとしたものを覚えさせる。
「もういい加減、整理していこうかなって思って」
「あ、そうなの?」
想像したこととは違う答えが返ってきて、あからさまにホッとした。母さんのあの姿は、出来ればもう二度と見たくない。闇の深淵を覗く大切な人の背中は、見ていられないものだからだ。
「七回忌も終わったしね。ずるずるとここに縛り付けておいたら、いつまで経ってもいっちゃんが成仏出来ないかもしれないし」
努めて明るく言う母さんに、何が言えるだろう。
「……うん、そっか」
「ね。だから今日はずっと整理をしてたら、もうこんな時間でびっくりしちゃった」
「あ、出掛けてたんじゃなかったの?」
「家にいたわよ、ずっと」
家でイチャイチャしなくてよかった。少しひやりとする。
母さんが、腰に手を当てて首を傾げた。
「宗ちゃんとお揃いで買った、赤いTシャツが見つからないのよね。タンスの上の方にあった筈なのに」
「……赤いTシャツ……?」
「本当に知らない?」
その言葉を聞いて、ひやりどころでなく、全身に鳥肌が立った。
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