神隠しの子

ミドリ

文字の大きさ
56 / 64

其の五十六 割れ目の底

しおりを挟む
 水の中にいるかと勘違いする程の湿気があるのに、俺の喉はカラカラになり、上顎と舌がくっついた。

「太一、お、俺……」

 目の前に、自分が殺した兄がいる。

 心拍数は馬鹿みたいに急上昇し、鼓動のあまりの激しさに、喉から内臓が出てくると錯覚した。あの時太一から噴き出した血の様に。

 太一は、俺の変化に気付いた。嬉々とした笑みを浮かべ、更に一歩近付く。後退りたくとも、もうあと一歩で裂け目に踏み込んでしまう距離だ。

 逃げ場は、もうない――。

 こんな状況になっても、それでも生きる道を探す。兄を殺した事実も忘れ、のうのうと生き、花を抱くことばかり考え、自分の阿呆さ加減に嫌気が差した。

 それなのに、俺は太一の愛情を受け取るのが嫌だったとそればかりだった。太一は、ずっとここから出たかったのだ。先程自分でもそう言っていたではないか。

 俺が太一の墓場をここと定めたからだ。

 太一を探そうともせず、全てから逃げ、あろうことか殺した太一として生きた。

 馬鹿の極みだ。それで太一の分を生きている気にでもなっていたのだろうか。それが贖罪に足るとでも思ったのか。

 太一が、一歩近寄る。

「……宗二、頼む。俺をここから出して、父さんと母さんのいるあの家に帰して欲しいんだ」
「太一……!」

 太一の言葉を聞いた途端、あの時背筋が凍る様な思いでただ見つめるしかなかった光景が、脳裏に鮮やかに蘇った。

 日光が照らす廊下。母さんと花の背中。

 ――母さんの手を握る、子供の手。

「う……っううう……!」

 今度は、悲しみの涙が溢れた。これだって十分に酷いことは分かっている。自分の手で殺しておいて、太一の母親への愛慕を同情して泣くなど、人のすることではない。これも結局は俺の自己満足に過ぎず、泣いて反省する様を太一に見せることで太一が許してくれるのでは、と頭の片隅で小狡い俺が計算しているのかもしれなかった。

 涙混じりの声で、太一が訴えかける。

「宗二、俺、もう目を覚ましたらここに戻ってるのは嫌だよ」

 太一のそのひと言が、俺の背中をトンと押した。



「宗二、あちこち尖ってるから気を付けて」

 割れ目の上から、花の顔で太一が心配そうに声を掛ける。

「ん、分かった」

 これまで太一に対し感じていた恐怖は、先程の太一の言葉で霧散した。太一が俺を追いかけ回している様に見えたのは、家に連れて帰ってもらいたいだけだったことが分かれば、怖いことはない。

 それなのに、過去を湾曲して思い出し、太一の愛が重い怖いと嫌悪を示していた自分が、ただひたすら恥ずかしかった。

 隙間は、俺の肩幅ぎりぎり程度しかない。深さは思ったよりもあり、下の方は雨水が流れるからかやや広くなってはいたが、差し込む陽の光が少なく先がよく見えない。

 確かにこんな隙間があるなど、横から見ただけでは分からないだろう。だが、何故見つからなかったのか。山探しをしたなら、ここも探さなかったのか。

「ツ……!」

 出っ張りに手を掛けると、見た目に反し鋭利だった様で、指の関節の内側がピッと切れた感覚があった。

「宗二、大丈夫!?」
「ちょっと切っただけだ、大丈夫」

 見ると綺麗にスパッと切れて血が滲んでいるが、大した深さではない。

 足場を探しつつ、再び下へと向かい始めた。

 何故花に取り憑いたのか、花はこの先どうなるのか、何故花の身体を使って俺に抱かれようとしたのか、気になるところは沢山ある。

 だが、今はそれは横に置いておくことにした。

 太一がこの巨大な墓場で眠りにつくことが出来ずに彷徨いているのは、どう考えても俺の所為だからだ。

 まずは、太一の身体をこの暗い裂け目から出してやろう。どういう状態になっているかは正直見るのが恐ろしかったが、家に帰りたいと泣く兄を置いていけるほど、自分を卑劣な奴にしたくはなかった。

 ――あと少し。

「わっ」

 右足がずるりと滑り、身体中からブワッと冷や汗が出る。

 すると、落ちた右足は、そのすぐ下にあったらしい割れ目の底に触れた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

処理中です...