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第六章 白羽の矢
39.女を泣かしちゃあ男がすたる
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蛟の叫び声が聞こえた、気がした。
亮太は空を見上げた。先程までこの地が水没するのではないだろうかという程降り続いていた雨は、上を見上げられる程大人しくなってきていた。
亮太は横でずぶ濡れになっている狗神に尋ねた。泥混じりの芝生は素足には歩きにくそうだった。
「方面はこのまま真っ直ぐで合ってるか?」
「はい。大分見えやすくなりましたが、これは……」
狗神の声に不安が混じり、また言い淀んだ。
「コウの声が聞こえた気がしたんだよ」
「亮太にですか? ……そういうこともあるのかもしれませんね」
そしてまたそうやって一人納得するのだ、狗神は。亮太は内心不貞腐れたが、まあもう慣れた。すると。
「嫌な空気を感じます」
「何だって?」
珍しく言い淀んだ先を言ったと思ったら、とんでもないことを言い出した。
亮太はぐちゅ、と靴の音を立てながら前へと進む。芝生の上はぬかるんでいて歩きにくいが、水捌けは悪くはない様で通れない程ではない。
このまま真っ直ぐ行くと噴水の広場がある筈だ。
「急ぎましょう」
「おお」
亮太と狗神は出来る限り早く前へ進もうと足を上げるが、思った様に進まない。亮太は段々苛々してきたが、こればかりは八つ当たりしたところでどうしようもない。歯を食いしばり、腿に力を入れてひたすら進んだ。
暫く進むと、ようやく舗装された道に出た。現在は噴水からは水は吹き出ておらず、以前見た時よりも池の水が多いがこれは一時的なものだろう。
雨はすっかり止み、驚く様な早さで立ち込めていた黒雲が霧散していっている。まるでおとぎ話の様なその引き方に、やはりこれは自然の物ではなく蛟が引き起こしたある意味人為的な物なのだ、と亮太は理解した。
ランニング用に履いていたスウェットのハーフパンツはこれでもかという位水を吸い、下手すると落ちてきそうだ。亮太がウエストの紐をぎゅっと引っ張ると、ギュギュギュ、と水を含んだ嫌な音を立てて紐が動いた。いくら周りに人がいないとはいえ、公共の場でパンツ一丁になる勇気は亮太にはない。
横にいる狗神ももう一度身体を震わせて水気を取った。
「亮太、あちらの様です!」
そうひと言放つと、瞬時にマックススピードで走り出した。さすがにこの早さになると亮太は全く追いつけない。靴をジャボジャボ言わせながら亮太も慌てて走り出した。早く中から水を出したいがまずは狗神に追いついてからだ。
狗神が遠くに見える影に向かって全速力で近付き、一気にジャンプして黒い物に飛びついた。亮太にも見えた。ベンチに寝転んでいるのは、アキラだ。では狗神は何に飛びついた?
亮太は走る。胸の上を踊る勾玉が温かくなってきた様に感じた。これは、前も経験しなかっただろうか。急に勾玉が熱くなったのは、確か店でのことだった筈だ。
背筋がゾワッとした。あの後、シュウヘイが黒いモヤに襲われた。その二つは同じ日の出来事だ。
八岐大蛇の気配に反応したのではないか。
亮太はようやく狗神に追いついた。ベンチにはアキラが倒れていた。
「アキラ!」
急いで肩を揺すると、薄っすらと目を開けた。次いで握っていた両手を亮太に差し出した。
「亮太……守ったよ」
「え?」
アキラの手の中に包み込まれていたのは、あれ程アキラが触るのを躊躇していた蛟だった。亮太が蛟を受け取ると、アキラが辛そうな顔に小さな笑みを浮かべた。
「逃げろって言ってるのに、『アキラ様を守るんだもん』って離れないんだもん」
「アキラ様、ごめ、ごめんなさ」
「ううん。……コウは小さいけど、勇気は大きいんだね」
「アキラ様……」
「だからコウのご主人様はコウに草薙剣を預けたんだよ、きっと」
亮太は狗神が戦っている相手を振り返った。黒く見えた物。それは大きな龍の頭の形を模していた。口を開ければその中に亮太すら呑み込まれてしまいそうな大きさだ。
亮太は濡れた胸ポケットに蛟を入れると、首にかけていたタオルをぎゅっと絞りアキラの頭をわしゃわしゃ拭いてそのままアキラに預けた。さすがにもう汗は流れているだろう。黙っていれば分かるまい。
「そこで暫く休んでろ」
「……うん」
アキラの目尻に見えたのは涙か、それともただの水滴か。聞いたところでこの意地っ張りは正解など教えてはくれないだろう。
亮太はアキラに背を向けると、狗神が対峙する龍の頭を見上げた。狗神の身体は所々傷つき血が滲んでいた。
靴の中の水をジャーっと流して準備完了だ。
「狗神、こいつが八岐大蛇の首か?」
「はい! 逃げ出したものとは別物です!」
狗神が小さく何かを唱え始めた。恐らく先日と同じ結界だろう。段々と周囲にもやがかかった様に景色が薄れていく。
「イヌガミ、アキラは結界の外に出せよ」
「――はい! そうですね」
亮太はポケットの中の蛟をそっと取り出すと、優しく尋ねた。
「コウ、また力を貸してくれるか?」
蛟は暫く無言で亮太を見つめ返していた。そしておもむろに口を開いた。
「亮太、いいの?」
「いいも何も」
亮太は上空に浮かぶ首を睨みつけた。
「子供だろうが大人だろうが、女を泣かせちゃいけないだろうが」
「さすが家主、見事な覚悟です」
首の攻撃を器用に避けながら、狗神が褒めた。
「さすが家主ってどんな褒め方だよ」
亮太はつい笑ってしまった。この前狗神が話してくれたことが正しいならば、八岐大蛇は草薙剣でないと倒せない。そして今この場で草薙剣を引き出すことが出来るのは亮太だけならば、亮太がやらねば他に誰もこいつを倒せる者は存在しない。
「コウ」
「……うん!」
蛟が、この前の様にふわりと空中を舞い出した。どんどんと白から水分を含んだ透き通った水色に変化していく。
亮太がもう一度見たかった色彩だ。これを見たかったのも、もしかしたら八岐大蛇の首なんていう恐ろしいものと向き合おうと思った理由の一つかもしれなかった。
それ程に、色とは亮太にとって惹かれてやまないものなのだ。
蛟龍となった蛟が言った。
「亮太が逃げないから、僕も逃げないの」
そして口をぱかっと開いた。口の中から、白い光が溢れ出す。亮太は、始めに蛟を探しに行く時に蛇と聞いて回れ右をしたことは一生蛟には内緒にしておこうと思った。
亮太は姿を現した草薙剣の柄を掴んだ。何度か八岐大蛇に噛みつかれ間一髪躱している様に見えた狗神だが、先程よりも出血が増えている。亮太は狗神に向かって言った。
「イヌガミ、あれはどうすればいい? 教えてくれ」
正眼に構えるが、前回同様素人は素人のままだ、剣の扱いなんざ分かっちゃいない。
「基本は同じです。祓詞で極力動きを封じ、剣で削り取っていきます。残った中心を叩き切り完了です」
「分かった」
でかさは違えど前と同じということだ。
「ですが、歯がかなり鋭いので切られないよう気をつけて下さい」
「なるべく頑張る」
連日の走り込みで体力はついた。若い頃以降失っていた俊敏さも多少は戻ってきた気はする。それに何より、蛟の信頼を失う訳にはいかなかった。
龍の首が、それまで顧みなかった亮太に初めて目らしき穴を向けた。威嚇する様に口を開ける。亮太は口の中ですっかり慣れた祓詞を唱え始めた。
「これが嫌いだって分かるみたいだな」
首が一気に降下してくる。亮太は横に素早く移動してそれを躱すと、首の背後に周り下から斜め上に一気に振り上げた。煙の様な存在の筈なのに、前の物と違って手応えというか抵抗があった。まるで水を切り裂く様な、そんな感覚だった。
首が一瞬怯んだ隙に、草薙剣を振り上げて頭部から袈裟斬りにする。ズブズブ、と抵抗があり刃が途中で止まった。引っ張るが抜けない。
首の空洞の目が亮太を見た、気がした。
亮太は歯を食いしばると、べちょべちょの靴でその目の部分を踏みつけ、草薙剣を力いっぱい引き抜いた。
音にならない雄叫びが耳をつんざいた。
亮太は空を見上げた。先程までこの地が水没するのではないだろうかという程降り続いていた雨は、上を見上げられる程大人しくなってきていた。
亮太は横でずぶ濡れになっている狗神に尋ねた。泥混じりの芝生は素足には歩きにくそうだった。
「方面はこのまま真っ直ぐで合ってるか?」
「はい。大分見えやすくなりましたが、これは……」
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「コウの声が聞こえた気がしたんだよ」
「亮太にですか? ……そういうこともあるのかもしれませんね」
そしてまたそうやって一人納得するのだ、狗神は。亮太は内心不貞腐れたが、まあもう慣れた。すると。
「嫌な空気を感じます」
「何だって?」
珍しく言い淀んだ先を言ったと思ったら、とんでもないことを言い出した。
亮太はぐちゅ、と靴の音を立てながら前へと進む。芝生の上はぬかるんでいて歩きにくいが、水捌けは悪くはない様で通れない程ではない。
このまま真っ直ぐ行くと噴水の広場がある筈だ。
「急ぎましょう」
「おお」
亮太と狗神は出来る限り早く前へ進もうと足を上げるが、思った様に進まない。亮太は段々苛々してきたが、こればかりは八つ当たりしたところでどうしようもない。歯を食いしばり、腿に力を入れてひたすら進んだ。
暫く進むと、ようやく舗装された道に出た。現在は噴水からは水は吹き出ておらず、以前見た時よりも池の水が多いがこれは一時的なものだろう。
雨はすっかり止み、驚く様な早さで立ち込めていた黒雲が霧散していっている。まるでおとぎ話の様なその引き方に、やはりこれは自然の物ではなく蛟が引き起こしたある意味人為的な物なのだ、と亮太は理解した。
ランニング用に履いていたスウェットのハーフパンツはこれでもかという位水を吸い、下手すると落ちてきそうだ。亮太がウエストの紐をぎゅっと引っ張ると、ギュギュギュ、と水を含んだ嫌な音を立てて紐が動いた。いくら周りに人がいないとはいえ、公共の場でパンツ一丁になる勇気は亮太にはない。
横にいる狗神ももう一度身体を震わせて水気を取った。
「亮太、あちらの様です!」
そうひと言放つと、瞬時にマックススピードで走り出した。さすがにこの早さになると亮太は全く追いつけない。靴をジャボジャボ言わせながら亮太も慌てて走り出した。早く中から水を出したいがまずは狗神に追いついてからだ。
狗神が遠くに見える影に向かって全速力で近付き、一気にジャンプして黒い物に飛びついた。亮太にも見えた。ベンチに寝転んでいるのは、アキラだ。では狗神は何に飛びついた?
亮太は走る。胸の上を踊る勾玉が温かくなってきた様に感じた。これは、前も経験しなかっただろうか。急に勾玉が熱くなったのは、確か店でのことだった筈だ。
背筋がゾワッとした。あの後、シュウヘイが黒いモヤに襲われた。その二つは同じ日の出来事だ。
八岐大蛇の気配に反応したのではないか。
亮太はようやく狗神に追いついた。ベンチにはアキラが倒れていた。
「アキラ!」
急いで肩を揺すると、薄っすらと目を開けた。次いで握っていた両手を亮太に差し出した。
「亮太……守ったよ」
「え?」
アキラの手の中に包み込まれていたのは、あれ程アキラが触るのを躊躇していた蛟だった。亮太が蛟を受け取ると、アキラが辛そうな顔に小さな笑みを浮かべた。
「逃げろって言ってるのに、『アキラ様を守るんだもん』って離れないんだもん」
「アキラ様、ごめ、ごめんなさ」
「ううん。……コウは小さいけど、勇気は大きいんだね」
「アキラ様……」
「だからコウのご主人様はコウに草薙剣を預けたんだよ、きっと」
亮太は狗神が戦っている相手を振り返った。黒く見えた物。それは大きな龍の頭の形を模していた。口を開ければその中に亮太すら呑み込まれてしまいそうな大きさだ。
亮太は濡れた胸ポケットに蛟を入れると、首にかけていたタオルをぎゅっと絞りアキラの頭をわしゃわしゃ拭いてそのままアキラに預けた。さすがにもう汗は流れているだろう。黙っていれば分かるまい。
「そこで暫く休んでろ」
「……うん」
アキラの目尻に見えたのは涙か、それともただの水滴か。聞いたところでこの意地っ張りは正解など教えてはくれないだろう。
亮太はアキラに背を向けると、狗神が対峙する龍の頭を見上げた。狗神の身体は所々傷つき血が滲んでいた。
靴の中の水をジャーっと流して準備完了だ。
「狗神、こいつが八岐大蛇の首か?」
「はい! 逃げ出したものとは別物です!」
狗神が小さく何かを唱え始めた。恐らく先日と同じ結界だろう。段々と周囲にもやがかかった様に景色が薄れていく。
「イヌガミ、アキラは結界の外に出せよ」
「――はい! そうですね」
亮太はポケットの中の蛟をそっと取り出すと、優しく尋ねた。
「コウ、また力を貸してくれるか?」
蛟は暫く無言で亮太を見つめ返していた。そしておもむろに口を開いた。
「亮太、いいの?」
「いいも何も」
亮太は上空に浮かぶ首を睨みつけた。
「子供だろうが大人だろうが、女を泣かせちゃいけないだろうが」
「さすが家主、見事な覚悟です」
首の攻撃を器用に避けながら、狗神が褒めた。
「さすが家主ってどんな褒め方だよ」
亮太はつい笑ってしまった。この前狗神が話してくれたことが正しいならば、八岐大蛇は草薙剣でないと倒せない。そして今この場で草薙剣を引き出すことが出来るのは亮太だけならば、亮太がやらねば他に誰もこいつを倒せる者は存在しない。
「コウ」
「……うん!」
蛟が、この前の様にふわりと空中を舞い出した。どんどんと白から水分を含んだ透き通った水色に変化していく。
亮太がもう一度見たかった色彩だ。これを見たかったのも、もしかしたら八岐大蛇の首なんていう恐ろしいものと向き合おうと思った理由の一つかもしれなかった。
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そして口をぱかっと開いた。口の中から、白い光が溢れ出す。亮太は、始めに蛟を探しに行く時に蛇と聞いて回れ右をしたことは一生蛟には内緒にしておこうと思った。
亮太は姿を現した草薙剣の柄を掴んだ。何度か八岐大蛇に噛みつかれ間一髪躱している様に見えた狗神だが、先程よりも出血が増えている。亮太は狗神に向かって言った。
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「これが嫌いだって分かるみたいだな」
首が一気に降下してくる。亮太は横に素早く移動してそれを躱すと、首の背後に周り下から斜め上に一気に振り上げた。煙の様な存在の筈なのに、前の物と違って手応えというか抵抗があった。まるで水を切り裂く様な、そんな感覚だった。
首が一瞬怯んだ隙に、草薙剣を振り上げて頭部から袈裟斬りにする。ズブズブ、と抵抗があり刃が途中で止まった。引っ張るが抜けない。
首の空洞の目が亮太を見た、気がした。
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