扉の先のブックカフェ

ミドリ

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19 マリの家

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 レンタカーを返すと、電車に乗って私の家の最寄り駅まで向かった。

 大川さんが、今日中に例の友人について話しておきたいと言ったからだ。

 きっと長い話になってしまうから、先にレンタカーを返して私が終電に乗り遅れるのを避ける為に来てくれるという大川さん。そんな大川さんを見て、この人はずっとこうやって周りに気を遣いながら生きてきたんだな、と思わず頭を撫でてやりたくなってしまった。

 完璧な理想の子供でいる為に、常に神経を研ぎ澄まして相手の顔を伺い続ける。集団生活を送る上では、ある程度は身につけておかなければいけない能力ではある。だけど大川さんは、本来なら一番寛げる筈の家でそれを強いられた。無意識の内に。

 揺れる電車の中、そっと大川さんの手を握る。すると、大川さんは照れくさそうに頬を緩ませた後、力強くぎゅっと握り返してくれた。

「長居出来そうなお店とか、ある? 知ってる?」
「どうだろう……お昼が外食だから、夜は節約の為に『ピート』以外では外食してなくて、実は全然よく知らないんだ」

 ベンチャー企業の新卒四年目の給料なんて、たかが知れたものだ。給料の範囲内での生活を心掛けている私にとって、エンゲル係数を抑えることはかなり重要なことだった。私の給料の配分は、『ピート』での健やかな時間を捻出する為に調整されていると言っても過言じゃないから。

 カフェくらいならひとりでも入れるけど、元々牛丼屋や立ち食い蕎麦などの男性率が高そうな店に入るのは抵抗がある。ましてや居酒屋なんてひとりで入る勇気なんてある訳もなく、結果として自分の駅だというのに未開発感が否めない。

 友人が遊びに来ればまた違うんだろうけど、社会人になってから、友人を家に招いたことは一度もなかった。交友範囲の狭さは認識はしていたけど、だからといってひたすら内に籠もっていた私が自ら外に目を向けようなんていう気概が起きる筈もない。

 大学の友人たちとは、年賀状のやり取りはしている。でも、電話をしたり遊びに誘ったりするほど密じゃない。もし会って腫れ物を触る様な雰囲気を感じ取ってしまったら、きっと私はもう二度と彼女たちと会おうとは思えないだろうから。

 こんな細い付き合いでも、まだ繋ぎ止めておきたかったから、だから会おうとしなかった。

「ちょっと駅前を見てみようか」
「うん」

 比較的小さな駅で、駅前の商店街もさほど大きくはない。赤提灯の店や居酒屋チェーン店の前を覗いてみたけど、どこも並んでいる人がいてすぐには入れそうになかった。

「……うちで話そうか? 大して広くないけど」
「……お邪魔していいの?」
「うん。コンビニに寄って行こうよ」
「うん」

 いきなり家に誘うのはどうだろうとは思ったけど、話を出来る場所がないことには話が進まない。それに大川さんのことだから、きっと必要以上に畏まって気遣いながら過ごすのだろう。

 そう思ったら、これまで家に男性を入れたことなんて一度もなかったけど、怖いとか緊張するとかいった感情は一切湧き上がってこなかった。

 コンビニに向かう最中、やはり先程は楽しい雰囲気を壊したくなくてあえてこの話題を避けていたと教えてくれた。話題を逸しちゃってごめんね、と謝る大川さんに私が笑顔で小さくひとつ頷くと、途端にほっとした表情に変わったのを見て、やっぱり頭を撫でたくなる。

 だけどどう頑張って背伸びをしたところで届かないのが悲しかった。もう少しでいいから背が欲しい。

 運転お疲れ様という意味も込めて、ビールを数本、私はレモンサワーを買ってみた。普段お酒なんて全く飲まないけど、これは節約の為であってアルコールを受け付けない身体だからという訳じゃない。

 アパートは全部で八部屋しかない小さな建物で、大家さんが一階のひと部屋に住んでいる昔ながらのアパートといった雰囲気だ。年季が入っているけど、大家さんがこまめに掃除をしているので綺麗なものだった。

 カンカン、とアパートの金属製の外階段を登ると、一番奥の突き当りにある角部屋が私の家だ。女性のひとり暮らしは危ないからね、と大家さんが鍵をふたつ付けてくれたので、家に入るには二種類の鍵が必要になる。

 玄関がオートロックになっている様なマンションに住むことも考えたけど、分不相応だと思って検討の段階で候補から外した。

 カチャ、とノブを回して玄関のドアを開く。廊下に面した玄関の窓から差し込む外灯の淡い黄色が、家の中に差し込んでいるのが見えた。

「あの、どうぞ」
「あ、お邪魔します」

 靴を三足も並べたらもう一杯になってしまうたたきで靴を脱ぐと、少し弾力のある塩化ビニールで出来た昭和な床の四畳の台所がある。

 昔の作りなので、台所のすぐ後ろが食卓を置く場所になっているけど、私はそこに食器棚と冷蔵庫を置き、六畳の居室に置いた脚を畳むことが出来る簡易テーブルの上でいつも食事を取っていた。

 台所のすぐ脇には、ここだけリフォーム済みのユニットバス。襖で隔たれた先にある居室は畳だけど、便利そうだからと収納付きベッドを置いてある。押入れも付いているので、大して荷物のない私にはこれで十分だった。

「じゃあ、こっちへ」

 男性はおろか、大家さん以外の人間を一度も招き入れたことがない。つまりどういうことかというと、来客仕様には一切なっていない。

 座布団はひとり分しかないので、咄嗟にベッドを指差した。

「そこに座っていいんで」
「えっ」

 大川さんは、部屋の入り口に立ったまま困った様な顔をする。……確かに、来て早々ベッドにどうぞはないかもしれないと思い直した。

「あ、じゃあこれ」
「あ、そうだ」

 ビニール袋に詰め込んだ、私たちの悲鳴を吸収してくれたビーズクッションの存在を思い出した大川さんが、袋から取り出すと床にふたつ並べる。

 ビールとレモンサワーを取り出して残りは冷蔵庫にしまうと、ベッドを背もたれにしながらクッションの上に座り、乾杯をした。

 大川さんは缶に口を付けると、ごく、ごく、と気持ちの良さそうな音を立てながら一気に身体の中に入れる。

 かなりの量を飲んだ後、ぷは、と息を吐くと、ビーズクッションの上に正座をして私の方を向いた。

「……僕の話を聞いてほしいなんて、月島さんにとっていいことなんてないかもしれない」
「そんな」
「でも」

 大川さんはビールをテーブルの上に置くと、膝の上に握りこぶしをふたつ作り、真剣な眼差しで訴える。

「……でも、これからずっと君と過ごしたいから。もし何かあっても、君だけには信じていてもらいたいから」

 人と交わることを諦めてしまっていた大川さん。色褪せた日々の中に現れた『ピート』での交流は、大川さんの中でこごっていた何かを動かしたんだろう。

 かつて、私がそうだった様に。

 今なら届く。怖がりながらも前に踏み出そうとしている大川さんの背中を押せるのは、きっと今は私だけだから。

「――大丈夫」

 膝を立て、大川さんの頭を撫でた。見た目よりもサラサラの髪に一瞬どきりとしたけど、大川さんが目を見開いているのでその目を覗き込む様にして笑いかける。

「大丈夫、信じる。私は大川さんを信じる。だって、私は大川さんが信じられると思ったから『ピート』への扉を開いたんだから」
「月島さん……」

 大川さんの頭に乗っている私の手を、大川さんが優しく掴んだ。それを大川さんの顔まで引き寄せると、頬を擦り寄せる。

「……僕はひとり暮らしを始めて、塾を変えた。そこで会ったのが、同じ学年の友人だったんだ」

 大川さんの、長い話が始まった。
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