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1 いつもの朝
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賽の河原から生還して、世界は一変した。
窓の外には、朝日が縁取る見慣れた隣家の窓。その奥から、すっかり低くなった声が私を呼ぶ。
「小春、おはよう」
「あ、春彦おはよー」
今朝もにこやかに窓の向こうから挨拶をしてきたのは、私と同じ生年月日で、更に同じ春の字が名前に入る幼馴染みの勝田春彦だ。
お互いの家の距離は、かなり近い。建築基準法って何だっけと思うくらい、すぐ目の前にある。多分、二人とも手を伸ばせば届く。そんな距離だ。
「今日もいい天気だね」
「そうだね。まだ夏じゃないのにやだなあ」
「あはは、小春は暑がりだもんね」
「それはもう言わないでよ」
「あ、ごめんごめん」
声変わり後の耳心地のいい低音を聞く度に、春彦に先に行かれたように感じる。実際はいつもそこにいるので、そう感じているだけだけど。
私と春彦は、現在高校一年生だ。残念ながら、私の頭はあまりいい出来じゃない。そこで将来を悲観した親が、ぶつくさ言いつつも大枚をはたいて中高一貫校に入れてくれた。お陰で高校受験がなかった。これには、本当に感謝しかない。
それくらい勉強が嫌いな私は、受験の際に一生分の勉強をしたし、と現在はのんびりとした高校生活を満喫していた。
春彦はそんな私とは違って、近くにある頭のいい公立高校に進学している。同じ誕生日でも、頭の出来はだいぶ違うらしい。
春彦が、可愛いから格好いいに変わりつつある甘めの顔で、じっと私を見つめた。少しずつ男の子から男に変わっていくのを認識する度に、そういや春彦は男だった、なんて思ってしまう。
「……なに?」
「リボン、曲がってるよ」
「え? やだ」
窓の影に隠れながら、制服の乱れを正した。カーテンを閉めればいいだけだけど、何となく毎朝こうして過ごすのが子供の頃からのルーティンになっている。今更ルーティンを突然変えて、春彦に意識していると思われるのも癪だ。だから変えられない。
再び顔を出すと、私を優しい笑顔で見ている春彦とガッツリ目が合った。目を細めて、満足気に小さく頷いている。何だかなあ。
学校まで少し距離があるので、私の朝は春彦のものよりも早い。朝からまじまじと見つめられると落ち着かないし、ちょっと早いけど出発することにした。
「さ、そろそろ行かなくちゃ」
「えー。もう行っちゃうの? もう少しお喋りしようよ」
見るからに萎れる春彦に罪悪感を覚えたけど、私には早く出たい理由がもうひとつあった。
「駄目。遅れると、またえっちゃんに怒られちゃう。すごい怖いんだから」
「じゃあもう少し早く起きて俺の相手をしてくれたらいいのに」
最近、俺との時間が短くない? とぶつぶつ言い始めた春彦は無視して、鏡の前に無造作に置いてある伊達眼鏡を手に取った。
少しでもお洒落に見えるようにと思ってべっ甲の縁を選んだけど、レンズ部分が大きいからか、残念ながら田舎の子にしか見えない。肩の上で揺れる何をしてもおかっぱになってしまう直毛が、余計に田舎感を醸し出している自覚はあった。
でも、これがないときつい。メンタルに来る。ダサいと言われないかメンタルの保護どちらかを選べと言われたら、私は迷わずメンタルの方を選ぶ。それくらい、これは私の生活必需品だった。
「……ねえ、まだ視えるの?」
春に咲くタンポポのように穏やかな性格の春彦が、私の手の中にあるダサい伊達眼鏡を見て尋ねる。春彦だけは、私の事情を知っていた。
「もうね、バリバリ現役だよ」
私が顔をしかめながら頷くと、春彦は器用に肩を竦めた。
「そりゃ参ったね」
「いいこともあるけどね、どうしても色眼鏡で見ちゃうし、そもそも酔うし」
参ったね、と春彦が優しい口調でもう一度言った。
窓枠にもたれながら、春彦が尋ねる。
「やっぱり俺のは視えない?」
「うん、楽でいいけど、何でだろうね? やっぱりあの経験のせいかなあ」
すると、にこにこしながら春彦がのたまった。
「俺が小春の特別だからかも」
「うわ、何言ってんの」
春彦は、よくこういった距離感がバグっている台詞を平然と口にする。冗談なのか本気かを聞けなくて、私はいつもこれを流すだけだ。
「じゃあ行ってくるから、春彦も早く支度しなよね」
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね」
春彦は、私に甘い。チョコレートどころか、水飴くらいに甘い。本人曰く、友達がいなくて話し相手が私しかいないからだそうだけど、本当かな。思わず疑ってしまうくらいには、春彦の見た目はちっとも悪くなく、性格も朗らかで優しかった。
だけど確かに、春彦が友人を家に呼ぶのを見たことはなかったし、休日も家にばかりいる。だから、ぼっちというのは事実なのかもしれなかった。
名残惜しそうに手を振る春彦に軽く手を振り返すと、窓とカーテンを閉める。伊達眼鏡を装着して部屋を出、階段を滑るように降りた。
リビングにいる両親に向かって、大声を出す。
「いってきまーす!」
「小春、あんまり慌てないで気を付けなさいよ!」
「分かってるって!」
私が軽く答えると、全くもう、と言う母の呆れた呟きが聞こえた。
靴を履き、元気よく外へと飛び出す。
初夏の香りが、ムワッと押し寄せてきた。
窓の外には、朝日が縁取る見慣れた隣家の窓。その奥から、すっかり低くなった声が私を呼ぶ。
「小春、おはよう」
「あ、春彦おはよー」
今朝もにこやかに窓の向こうから挨拶をしてきたのは、私と同じ生年月日で、更に同じ春の字が名前に入る幼馴染みの勝田春彦だ。
お互いの家の距離は、かなり近い。建築基準法って何だっけと思うくらい、すぐ目の前にある。多分、二人とも手を伸ばせば届く。そんな距離だ。
「今日もいい天気だね」
「そうだね。まだ夏じゃないのにやだなあ」
「あはは、小春は暑がりだもんね」
「それはもう言わないでよ」
「あ、ごめんごめん」
声変わり後の耳心地のいい低音を聞く度に、春彦に先に行かれたように感じる。実際はいつもそこにいるので、そう感じているだけだけど。
私と春彦は、現在高校一年生だ。残念ながら、私の頭はあまりいい出来じゃない。そこで将来を悲観した親が、ぶつくさ言いつつも大枚をはたいて中高一貫校に入れてくれた。お陰で高校受験がなかった。これには、本当に感謝しかない。
それくらい勉強が嫌いな私は、受験の際に一生分の勉強をしたし、と現在はのんびりとした高校生活を満喫していた。
春彦はそんな私とは違って、近くにある頭のいい公立高校に進学している。同じ誕生日でも、頭の出来はだいぶ違うらしい。
春彦が、可愛いから格好いいに変わりつつある甘めの顔で、じっと私を見つめた。少しずつ男の子から男に変わっていくのを認識する度に、そういや春彦は男だった、なんて思ってしまう。
「……なに?」
「リボン、曲がってるよ」
「え? やだ」
窓の影に隠れながら、制服の乱れを正した。カーテンを閉めればいいだけだけど、何となく毎朝こうして過ごすのが子供の頃からのルーティンになっている。今更ルーティンを突然変えて、春彦に意識していると思われるのも癪だ。だから変えられない。
再び顔を出すと、私を優しい笑顔で見ている春彦とガッツリ目が合った。目を細めて、満足気に小さく頷いている。何だかなあ。
学校まで少し距離があるので、私の朝は春彦のものよりも早い。朝からまじまじと見つめられると落ち着かないし、ちょっと早いけど出発することにした。
「さ、そろそろ行かなくちゃ」
「えー。もう行っちゃうの? もう少しお喋りしようよ」
見るからに萎れる春彦に罪悪感を覚えたけど、私には早く出たい理由がもうひとつあった。
「駄目。遅れると、またえっちゃんに怒られちゃう。すごい怖いんだから」
「じゃあもう少し早く起きて俺の相手をしてくれたらいいのに」
最近、俺との時間が短くない? とぶつぶつ言い始めた春彦は無視して、鏡の前に無造作に置いてある伊達眼鏡を手に取った。
少しでもお洒落に見えるようにと思ってべっ甲の縁を選んだけど、レンズ部分が大きいからか、残念ながら田舎の子にしか見えない。肩の上で揺れる何をしてもおかっぱになってしまう直毛が、余計に田舎感を醸し出している自覚はあった。
でも、これがないときつい。メンタルに来る。ダサいと言われないかメンタルの保護どちらかを選べと言われたら、私は迷わずメンタルの方を選ぶ。それくらい、これは私の生活必需品だった。
「……ねえ、まだ視えるの?」
春に咲くタンポポのように穏やかな性格の春彦が、私の手の中にあるダサい伊達眼鏡を見て尋ねる。春彦だけは、私の事情を知っていた。
「もうね、バリバリ現役だよ」
私が顔をしかめながら頷くと、春彦は器用に肩を竦めた。
「そりゃ参ったね」
「いいこともあるけどね、どうしても色眼鏡で見ちゃうし、そもそも酔うし」
参ったね、と春彦が優しい口調でもう一度言った。
窓枠にもたれながら、春彦が尋ねる。
「やっぱり俺のは視えない?」
「うん、楽でいいけど、何でだろうね? やっぱりあの経験のせいかなあ」
すると、にこにこしながら春彦がのたまった。
「俺が小春の特別だからかも」
「うわ、何言ってんの」
春彦は、よくこういった距離感がバグっている台詞を平然と口にする。冗談なのか本気かを聞けなくて、私はいつもこれを流すだけだ。
「じゃあ行ってくるから、春彦も早く支度しなよね」
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね」
春彦は、私に甘い。チョコレートどころか、水飴くらいに甘い。本人曰く、友達がいなくて話し相手が私しかいないからだそうだけど、本当かな。思わず疑ってしまうくらいには、春彦の見た目はちっとも悪くなく、性格も朗らかで優しかった。
だけど確かに、春彦が友人を家に呼ぶのを見たことはなかったし、休日も家にばかりいる。だから、ぼっちというのは事実なのかもしれなかった。
名残惜しそうに手を振る春彦に軽く手を振り返すと、窓とカーテンを閉める。伊達眼鏡を装着して部屋を出、階段を滑るように降りた。
リビングにいる両親に向かって、大声を出す。
「いってきまーす!」
「小春、あんまり慌てないで気を付けなさいよ!」
「分かってるって!」
私が軽く答えると、全くもう、と言う母の呆れた呟きが聞こえた。
靴を履き、元気よく外へと飛び出す。
初夏の香りが、ムワッと押し寄せてきた。
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