賽の河原の拾い物

ミドリ

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30 負の感情

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 嵐のような慟哭が過ぎ去ると、フッと冷静さを取り戻した頭が「こんなことをしている場合じゃないぞ」と警告音を鳴らし始めた。

 私の鞄はどこだろう。電車から降りた後の記憶がない。

 ざっと見たところ、リビングにはない。スマホを見つけられればなんとかなる気がして、辺りを見回す。

 玄関かもしれないと首を伸ばしたけど、すぐには見当たらなかった。いずれにしても、ずっとここに座っている訳にもいかない。

「よし!」

 足の拘束があるのをすっかり忘れ、勢いよく立ち上がる。と、当たり前だけどつんのめってしまい、床にビタン! と腕と膝を強烈に打ち付けた。

「うぐっ!」

 ……なかなか痛い。

 暫く痛みを堪えてプルプル震えていたけど、ハッと閃く。歩けないなら、芋虫のように這えばいいんだ。

 床がツルツルなので、これは正解だった。制服が埃だらけになりそうだなとは思ったけど、余計なことは考えないようにした。

「見てろよ、絶対脱出してやるんだから!」

 歯を食いしばりながら、身体をくねらせ玄関へと向かう。

 廊下部分に入ると、幾つものドアが並んでいた。寝室とかトイレ、あとは風呂場かな。とりあえず今は用がない場所だ。

 靴下で滑る足に力を込めて進んで行くと、玄関寄りのドアが小さく開いているのが見えた。

 龍の部屋かな。でも、そんなことは今はいいや、と更に進む。

 すると、通り過ぎようとして、床に落ちている紙の切れ端に目が留まった。……何だろう。

 好奇心は身を滅ぼす。使い古された陳腐な言葉だ。だけど、使い古されても未だに使われるのには、ちゃんとした理由があるんだろう。

 ――それが真実だからだ。

 明かりが差し込んだ部屋の床に、紙が散乱している。やめようと思っているのに、拘束された手がドアを押してしまう。やめなさいよ小春、という自分の声が聞こえたけど、一旦押してしまったドアは勝手に開いていってしまった。

 廊下の照明が、床に散らばる紙を煌々と照らす。

 紙の正体に気付いた私は、思わず小さな悲鳴を上げた。

「――ひっ」

 それは、写真だった。写っているのは、どれもこれも私だ。

 どの写真の私もカメラ目線じゃなかったから、盗撮によるものだとすぐに分かった。制服姿だけじゃなくて、普段着の私もいる。ということは、週末も隠し撮りをされていたってことだ。

 ――周りに映っている人の顔は、一様にマジックか何かで黒く塗り潰されていた。

「うぷ……っ」

 先程食べたペペロンチーノが、ゴプ、ゴプ、と嫌な音を立てながら食道を逆流してくる。吐き戻さないよう、必死で抑え込んだ。今ここで痕跡を残したら拙い。

 でも、声を出さずにはいられなかった。

「なにこれ……っ! なにこれ!」

 もう、部屋の中から目が離せない。ふと、奥の白い壁を見た。アイドルのポスターみたいに貼られていたのは、でかでかと引き伸ばされた私の写真だ。

「やだ……! 嘘でしょ!」

 どうやら教室にいる時のものらしく、隣にはえっちゃんがいる。えっちゃんの目は、木のうろみたいに真っ黒に塗り潰されていた。……よく見ると、他にも私の写真が恭しく壁に飾られている。あっちにも。そっちにも。

 全身に鳥肌を立てながら、床の写真をもう一度見た。よく見ると、他の人よりも、えっちゃんだけが執拗に黒く塗り潰されている。

 更に悪寒が走った。やっぱりえっちゃんも危なかったんだ。貰い事故みたいに襲われた部長は災難だったけど、えっちゃんはいつ狙われてもおかしくなかった。

 今回私がついて行かなかったら、もしかして龍は私に言うことを聞かせる為にえっちゃんを襲っていたんじゃないか。

 のこのこついて行った自分の行動が迂闊だと思ったけど、親友を危険から守ったと思えば、幾分か心が慰められた。

「もういや……っ」

 それでも、どうしても目が龍の部屋に向いてしまう。

 部屋自体は、そんなに汚れてはいない。勉強机とベッド、それにクローゼットに本棚くらいしかなかった。

 そのクローゼットが、半開きになっている。

 ――やめよう小春。見てもきっといいことはないよ。

 私の中では警告音が鳴り続けているのに、私の身体は止まらない。

「――ひっ」

 ズルズルと這いながらクローゼットの前まで進むと、またもや息を呑んでしまった。

 クローゼットには、女物らしい花柄のワンピースと、男物のスーツが掛けられていた。母親と父親の物かもしれない。ハサミかカッターで破かれたみたいに布はビリビリに千切れていて、なのに丁寧に掛けられているのが不気味で仕方なかった。

 一向に自分に向けられない関心、だけど訴える手段を知らなくて、行き場のない怒りが発散された結果なんだろうか。

 ひとつだけ確かなのは、そこにあるのは、果てしなく深い孤独だということだ。

 カタカタカタと音が聞こえ、誰かいるのかと恐怖に身を竦める。だけど、違った。鳴っているのは自分の歯だった。

 苦しいほどに切なくて、同時に恐怖を感じる。龍はこの部屋に、このクローゼットの中に、昏くて間違っていると龍が認識している負の感情を、全て封じ込めてきたんだ。

「う……うう……っ」

 泣きたくないのに、涙が嗚咽と共に溢れた。

 心から嫌いになれたら、どんなに楽だっただろう。だけど、龍の闇は、龍が必死で保っていた白のオーラを視続けていた私にとっては、納得はいかなくても理解ができてしまうものだった。

 切なくて苦しくて、胸が張り裂けそうになる。

「龍くん……!」

 春彦なら、「すぐそうやって流されるんだから」と叱ってきそうだ。

 同情と恐怖がないまぜになった感情を抑え切れずに、しばしその場で涙を流し続けた。
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