1 / 88
貴女の命を私に下さい
1
しおりを挟む
足元から吹いてきた夜風が、ジャンパーの裾と胸元まで伸びた黒髪を巻き上げる。冷たい風はズボンの裾から服の中にも侵入して、ただでさえ冷えていた身体から、ますます体温を奪っていったのだった。
どこまでも深く、宵闇と一体化した深い谷底。そんな谷底に架かる年季の入った橋の更に上、橋の欄干の上に私は立っていた。
風が目に入って僅かに足を後ろに動かすと、ペンキが剥げて錆だらけになった欄干から微かに軋んだ音が聞こえてきた。
「あっ……!」
足を動かした事で身体が小さく傾ぎ、バランスを崩して後ろに落ちそうになるが、足に力を入れてどうにか踏み止まる。
「……っ!」
普通の人なら、こんな足元が覚束ない欄干の上に立っただけで足が竦んで動けなくなるだろう。
でも、私にはもうここにしか居場所が無かった。
「んっ……!」
一際強い風が谷底から吹いてきて、目から涙が溢れる。
これは風が目に当たって涙が溢れただけ、決して死ぬのが怖い訳じゃない。決して……。
そう自分に言い聞かせて、欄干から谷底に向けて小さく足を踏み出した時だった。
「そこで何をしているんですか?」
声が聞こえてきた方を振り向くと、そこには銀縁の眼鏡をかけたスーツ姿の若い男性がいた。私達の近くにはハザードランプが点滅する黒塗りの軽自動車が停まっていた。誰も乗っていなかったので、おそらくその車の主だろう。
先程から数台の車が行き来していたが、いつの間に近くで停車したのだろうか。全く気づかなかった。
「聞こえませんでしたか? そこで何をしているんですか?」
私が何も答えなかったので、男性は少し苛立ったように声を尖らせた。
「まさか、ここで死のうとしていた訳ではないですよね?」
何も答えずに俯いていると、男性は溜め息を吐いて近づいて来た。
そうして、私の腰に腕を回すと、橋の欄干から下ろしたのだった。
「あっ……」
力強い腕に抗う術もなく、コンクリートの地面に足がついた瞬間、膝が震えてその場に座り込んでしまう。
「命を無駄にするような馬鹿な真似は止めて、早く家に帰りなさい」
「でも、私、ここで死なないと。いま死なないと明日も仕事で……また辛い一日が始まって……。それで……」
話している内に、目からは涙が溢れて止まらなくなる。
そのまま膝を抱えて泣き出した私の側を、胡乱げな顔をした老爺が乗る自転車が通り過ぎて行く。
男性は大きく息を吐いた後、「失礼します」と声を掛けると、私を抱き上げたのだった。
「あの、どこへ……」
「とりあえず、私の車に乗せます。……あそこにいたら、私が不審者に間違われるので」
男性は車の後部座席のドアを開けると、そっと私を座らせる。私が「鞄、橋に置いたまま……」と漏らすと、男性はドアを閉めてどこかに行く。そしてすぐに戻って来ると、「これですか?」と、後部座席に私のトートバッグを置いたのだった。
「ありがとうございます……」
運転席に座った男性に礼を述べるが、男性は何も言わずに、車のハザードランプを消すと、エンジンをかけたのだった。
「どこに行くんですか……?」
「貴女をご自宅か最寄りの駅まで送り届けます。お住まいはどちらですか?」
正面を向いたまま、事務的に話した男性に私は首を振る。
「家には帰りたくないです」
「ご家族と喧嘩でもされたんですか?」
「そうじゃないんです。ただ、家に帰ったら明日が来てしまうので、そうしたら仕事に行かなくちゃ行けないので、それが嫌で……」
「……仕事、又は職場に問題があるんですか?」
私が小さく頷くと、それをバックミラーで見ていた男性は、また小さく溜め息を吐いたのだった。
「橋の上にいて身体が冷えてしまったでしょう。とりあえず、私が借りている部屋に連れて行くので、何か温かいものでも飲んで下さい。このままでは風邪を引いてしまいます」
「でも、ご迷惑が掛かるのでは……」
「……迷惑になるのなら、最初から声を掛けていません」
そうして、男性は車を走らせると、この辺りでも一番大きなビジネスホテルの駐車場に入って行ったのだった。
どこまでも深く、宵闇と一体化した深い谷底。そんな谷底に架かる年季の入った橋の更に上、橋の欄干の上に私は立っていた。
風が目に入って僅かに足を後ろに動かすと、ペンキが剥げて錆だらけになった欄干から微かに軋んだ音が聞こえてきた。
「あっ……!」
足を動かした事で身体が小さく傾ぎ、バランスを崩して後ろに落ちそうになるが、足に力を入れてどうにか踏み止まる。
「……っ!」
普通の人なら、こんな足元が覚束ない欄干の上に立っただけで足が竦んで動けなくなるだろう。
でも、私にはもうここにしか居場所が無かった。
「んっ……!」
一際強い風が谷底から吹いてきて、目から涙が溢れる。
これは風が目に当たって涙が溢れただけ、決して死ぬのが怖い訳じゃない。決して……。
そう自分に言い聞かせて、欄干から谷底に向けて小さく足を踏み出した時だった。
「そこで何をしているんですか?」
声が聞こえてきた方を振り向くと、そこには銀縁の眼鏡をかけたスーツ姿の若い男性がいた。私達の近くにはハザードランプが点滅する黒塗りの軽自動車が停まっていた。誰も乗っていなかったので、おそらくその車の主だろう。
先程から数台の車が行き来していたが、いつの間に近くで停車したのだろうか。全く気づかなかった。
「聞こえませんでしたか? そこで何をしているんですか?」
私が何も答えなかったので、男性は少し苛立ったように声を尖らせた。
「まさか、ここで死のうとしていた訳ではないですよね?」
何も答えずに俯いていると、男性は溜め息を吐いて近づいて来た。
そうして、私の腰に腕を回すと、橋の欄干から下ろしたのだった。
「あっ……」
力強い腕に抗う術もなく、コンクリートの地面に足がついた瞬間、膝が震えてその場に座り込んでしまう。
「命を無駄にするような馬鹿な真似は止めて、早く家に帰りなさい」
「でも、私、ここで死なないと。いま死なないと明日も仕事で……また辛い一日が始まって……。それで……」
話している内に、目からは涙が溢れて止まらなくなる。
そのまま膝を抱えて泣き出した私の側を、胡乱げな顔をした老爺が乗る自転車が通り過ぎて行く。
男性は大きく息を吐いた後、「失礼します」と声を掛けると、私を抱き上げたのだった。
「あの、どこへ……」
「とりあえず、私の車に乗せます。……あそこにいたら、私が不審者に間違われるので」
男性は車の後部座席のドアを開けると、そっと私を座らせる。私が「鞄、橋に置いたまま……」と漏らすと、男性はドアを閉めてどこかに行く。そしてすぐに戻って来ると、「これですか?」と、後部座席に私のトートバッグを置いたのだった。
「ありがとうございます……」
運転席に座った男性に礼を述べるが、男性は何も言わずに、車のハザードランプを消すと、エンジンをかけたのだった。
「どこに行くんですか……?」
「貴女をご自宅か最寄りの駅まで送り届けます。お住まいはどちらですか?」
正面を向いたまま、事務的に話した男性に私は首を振る。
「家には帰りたくないです」
「ご家族と喧嘩でもされたんですか?」
「そうじゃないんです。ただ、家に帰ったら明日が来てしまうので、そうしたら仕事に行かなくちゃ行けないので、それが嫌で……」
「……仕事、又は職場に問題があるんですか?」
私が小さく頷くと、それをバックミラーで見ていた男性は、また小さく溜め息を吐いたのだった。
「橋の上にいて身体が冷えてしまったでしょう。とりあえず、私が借りている部屋に連れて行くので、何か温かいものでも飲んで下さい。このままでは風邪を引いてしまいます」
「でも、ご迷惑が掛かるのでは……」
「……迷惑になるのなら、最初から声を掛けていません」
そうして、男性は車を走らせると、この辺りでも一番大きなビジネスホテルの駐車場に入って行ったのだった。
11
あなたにおすすめの小説
置き去りにされた恋をもう一度
ともどーも
恋愛
「好きです。付き合ってください!」
大きな桜の木に花が咲き始めた頃、その木の下で、彼は真っ赤な顔をして告げてきた。
嬉しさに胸が熱くなり、なかなか返事ができなかった。その間、彼はまっすぐ緊張した面持ちで私を見ていた。そして、私が「はい」と答えると、お互い花が咲いたような笑顔で笑い合った。
中学校の卒業式の日だった……。
あ~……。くだらない。
脳味噌花畑の学生の恋愛ごっこだったわ。
全ての情熱を学生時代に置いてきた立花美咲(24)の前に、突然音信不通になった元カレ橘蓮(24)が現れた。
なぜ何も言わずに姿を消したのか。
蓮に起こったことを知り、美咲はあの頃に置き去りにした心を徐々に取り戻していく。
────────────────────
現時点でプロローグ+20話まで執筆ができていますが、まだ完結していません。
20話以降は不定期になると思います。
初の現代版の恋愛ストーリーなので、遅い執筆がさらに遅くなっていますが、必ず最後まで書き上げます!
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
勘違い令嬢の離縁大作戦!~旦那様、愛する人(♂)とどうかお幸せに~
藤 ゆみ子
恋愛
グラーツ公爵家に嫁いたティアは、夫のシオンとは白い結婚を貫いてきた。
それは、シオンには幼馴染で騎士団長であるクラウドという愛する人がいるから。
二人の尊い関係を眺めることが生きがいになっていたティアは、この結婚生活に満足していた。
けれど、シオンの父が亡くなり、公爵家を継いだことをきっかけに離縁することを決意する。
親に決められた好きでもない相手ではなく、愛する人と一緒になったほうがいいと。
だが、それはティアの大きな勘違いだった。
シオンは、ティアを溺愛していた。
溺愛するあまり、手を出すこともできず、距離があった。
そしてシオンもまた、勘違いをしていた。
ティアは、自分ではなくクラウドが好きなのだと。
絶対に振り向かせると決意しながらも、好きになってもらうまでは手を出さないと決めている。
紳士的に振舞おうとするあまり、ティアの勘違いを助長させていた。
そして、ティアの離縁大作戦によって、二人の関係は少しずつ変化していく。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
花言葉は「私のものになって」
岬 空弥
恋愛
(婚約者様との会話など必要ありません。)
そうして今日もまた、見目麗しい婚約者様を前に、まるで人形のように微笑み、私は自分の世界に入ってゆくのでした。
その理由は、彼が私を利用して、私の姉を狙っているからなのです。
美しい姉を持つ思い込みの激しいユニーナと、少し考えの足りない美男子アレイドの拗れた恋愛。
青春ならではのちょっぴり恥ずかしい二人の言動を「気持ち悪い!」と吐き捨てる姉の婚約者にもご注目ください。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
聖なる森と月の乙女
小春日和
恋愛
ティアリーゼは皇太子であるアルフレッドの幼馴染で婚約者候補の1人。趣味である薬草を愛でつつ、アルフレッドを幸せにしてくれる、アルフレッドの唯一の人を探して、令嬢方の人間観察に励むことを趣味としている。
これは皇太子殿下の幸せ至上主義である公爵令嬢と、そんな公爵令嬢の手綱を握る皇太子殿下の恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる