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88(終)
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(この調子で子供が産まれたらどうなるんだろう……)
今までの冷静さはどこにいったのか、人が変わった様に過保護になった楓さんを見ていると心配にもなる。
全く嬉しくない訳ではないが、この調子で子供が産まれたら楓さんの過保護は留まる事がなく、親バカにさえなるかもしれない。
その兆候は既にあり、ここ最近は早く我が子の胎動を感じたいと話していた。もし胎動を感じたと話したら、楓さんも胎動を感じるまで、ずっと私のお腹に張り付いてしまいそうだった。
そんな過保護の楓さんと相談して、私の身体とお腹にいる子供にあまり負担を掛けない様に、出産して落ち着くまで、こっちに残る事になった。
その為に必要な手続きは全て楓さんがやってくれた。ここでの出産に必要な用意も楓さんと手分けして進めており、現地人のジェニファーや所長も用意を手伝ってくれるので、かなり助かっていた。出産が近くなったら、日本から両親も手伝いに来てくれるらしい。
遠い異国の地で、二人きりで出産に挑むつもりだったが、想像以上に周囲の環境に恵まれている事に気付いたのだった。
「楓さんの気持ちは嬉しいですが、早く行かないとバスに乗り遅れますよ」
「そ、そうだな……。行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「……本当に一人で大丈夫なんだな」
「大丈夫です。行ってらっしゃいませ」
何度も名残惜しそうに仕事に向かう楓さんを見送ると、肩の力を抜いて家の中に戻ろうとする。すると、さっき見送ったはずの楓さんが慌てて戻って来たのだった。
「どうしたんですか? 忘れ物ですか?」
「ああ。忘れ物だ」
楓さんはカバンを床の上に置くと、私の両肩を掴む。
そうして、私の前髪を掻き上げると、額に口付けを落としたのだった。
「……っ!」
額に柔らかな唇の感触を感じて息を呑む。
体中が熱に包まれているかの様に熱くなり、頬が火照り、胸が激しく高鳴る。楓さんはすぐに離れると、そっと笑みを浮かべたのだった。
「行ってくる」
そう言い残すと、楓さんはカバンを持って颯爽とエレベーターに向かったのだった。
「行ってらっしゃいませ……」
小声で返した時には既に楓さんの姿は見えなくなっていた。
中に戻ると、そっと息を吐いてベランダに向かう。ベランダに出て、マンション前の道路を見ていると、少しして楓さんが姿を見せた。
私がベランダに立っている事に気づいたのか、楓さんが振り返ったので軽く手を振る。
こうしてベランダから仕事に行く楓さんを見送るのは久しぶりだった。つわりが酷くなるまでは毎朝ベランダから楓さんを見送っていたが、ここ最近、楓さんを玄関で見送った後は、ずっと横になっていた。
案の定、楓さんは驚いた様に目を見開いたが、すぐに口元を緩めると、顔の辺りまで片手を上げて、手を振り返してくれたのだった。
お互いに手を振っていたが、やがて楓さんはマンションに背を向けるとバス停に向かって歩いて行ったので、楓さんを見送ると、今まで振っていた自分の掌をじっと見つめる。
(こうして、誰かを見送る日が来るなんて、「あの頃」は思いもしなかった……)
楓さんと出会った「あの頃」は、また心から笑える日が来るとは思わなかった。
楓さんと出会った頃は「明日」が来るのが嫌だった。毎日が苦しくて、悲しくて、でもどうしたらいいのか分からなくて、息苦しい日々を過ごしていた。そんな日々が続く事を考えたくなくて、「未来」を考えられなかった――。
じっと掌を見つめながら考えていると、私達を見守る様に優しく照らし続けるニューヨークの陽光にだんだん心地良くなってくる。
今なら自信を持って言える。
――あの日、死ななくて良かったと。
そんな私を肯定してくれるかの様に、室内に戻ろうとした時、私達の愛しい我が子にお腹を蹴られた。
初めて胎動を感じた瞬間だった。
今までの冷静さはどこにいったのか、人が変わった様に過保護になった楓さんを見ていると心配にもなる。
全く嬉しくない訳ではないが、この調子で子供が産まれたら楓さんの過保護は留まる事がなく、親バカにさえなるかもしれない。
その兆候は既にあり、ここ最近は早く我が子の胎動を感じたいと話していた。もし胎動を感じたと話したら、楓さんも胎動を感じるまで、ずっと私のお腹に張り付いてしまいそうだった。
そんな過保護の楓さんと相談して、私の身体とお腹にいる子供にあまり負担を掛けない様に、出産して落ち着くまで、こっちに残る事になった。
その為に必要な手続きは全て楓さんがやってくれた。ここでの出産に必要な用意も楓さんと手分けして進めており、現地人のジェニファーや所長も用意を手伝ってくれるので、かなり助かっていた。出産が近くなったら、日本から両親も手伝いに来てくれるらしい。
遠い異国の地で、二人きりで出産に挑むつもりだったが、想像以上に周囲の環境に恵まれている事に気付いたのだった。
「楓さんの気持ちは嬉しいですが、早く行かないとバスに乗り遅れますよ」
「そ、そうだな……。行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「……本当に一人で大丈夫なんだな」
「大丈夫です。行ってらっしゃいませ」
何度も名残惜しそうに仕事に向かう楓さんを見送ると、肩の力を抜いて家の中に戻ろうとする。すると、さっき見送ったはずの楓さんが慌てて戻って来たのだった。
「どうしたんですか? 忘れ物ですか?」
「ああ。忘れ物だ」
楓さんはカバンを床の上に置くと、私の両肩を掴む。
そうして、私の前髪を掻き上げると、額に口付けを落としたのだった。
「……っ!」
額に柔らかな唇の感触を感じて息を呑む。
体中が熱に包まれているかの様に熱くなり、頬が火照り、胸が激しく高鳴る。楓さんはすぐに離れると、そっと笑みを浮かべたのだった。
「行ってくる」
そう言い残すと、楓さんはカバンを持って颯爽とエレベーターに向かったのだった。
「行ってらっしゃいませ……」
小声で返した時には既に楓さんの姿は見えなくなっていた。
中に戻ると、そっと息を吐いてベランダに向かう。ベランダに出て、マンション前の道路を見ていると、少しして楓さんが姿を見せた。
私がベランダに立っている事に気づいたのか、楓さんが振り返ったので軽く手を振る。
こうしてベランダから仕事に行く楓さんを見送るのは久しぶりだった。つわりが酷くなるまでは毎朝ベランダから楓さんを見送っていたが、ここ最近、楓さんを玄関で見送った後は、ずっと横になっていた。
案の定、楓さんは驚いた様に目を見開いたが、すぐに口元を緩めると、顔の辺りまで片手を上げて、手を振り返してくれたのだった。
お互いに手を振っていたが、やがて楓さんはマンションに背を向けるとバス停に向かって歩いて行ったので、楓さんを見送ると、今まで振っていた自分の掌をじっと見つめる。
(こうして、誰かを見送る日が来るなんて、「あの頃」は思いもしなかった……)
楓さんと出会った「あの頃」は、また心から笑える日が来るとは思わなかった。
楓さんと出会った頃は「明日」が来るのが嫌だった。毎日が苦しくて、悲しくて、でもどうしたらいいのか分からなくて、息苦しい日々を過ごしていた。そんな日々が続く事を考えたくなくて、「未来」を考えられなかった――。
じっと掌を見つめながら考えていると、私達を見守る様に優しく照らし続けるニューヨークの陽光にだんだん心地良くなってくる。
今なら自信を持って言える。
――あの日、死ななくて良かったと。
そんな私を肯定してくれるかの様に、室内に戻ろうとした時、私達の愛しい我が子にお腹を蹴られた。
初めて胎動を感じた瞬間だった。
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