35 / 52
第七章 夢
第三十一話
しおりを挟む
「な……ど……一体、どうしたというのだ」
父は動揺から、一気に溢れ出しそうになる言葉を懸命に抑え、やっとのことで端的な疑問を口にすることができているようだった。
「わたくしは後宮に行ったイェン兄様を追いかけます」
父の疑問に、わたくしは端的に、まっすぐに前を見つめながら答える。
わたくしの初めての恋……大切な人……。
そんな人と離れ離れになり、もう二度と会えないなんて……わたくしには耐えられなかった。
「イェンを……? 一体どういうことだ。順を追って説明しなさい」
父は頭を抱えながら、わたくしに説明を求める。
なのでわたくしは、正直にありのままに答える。
「わたくしは初めてお会いしたときから、イェン兄様をお慕いしております。そのイェン兄様が後宮に行くというのであれば、わたくしも後宮に行きます」
父は口をはくはくと声なく動かして、呆然としている。
かと思うと、はぁー……と深い溜め息を吐いてから、真剣な面持ちでわたくしを見つめる。
「……なぜ女官ではなく、皇帝陛下のお妃様なのだ」
「女官では後宮に行けても、イェン兄様のお傍に行ける可能性が低いです。わたくしは確実に、イェン兄様ともう一度お会いしたいのです」
女官の仕事がどんなものかは、わたくしはよく分かっていない。
けれど、後宮内を自由に動き回れる仕事ではないだろうということは、わたくしでも分かる。
もしイェン兄様と違う場所での仕事内容を割り振られたら、お顔を見ることすら叶わないかもしれない。
けれどお妃様であればある程度自由に動けるし、何よりも少し我儘を言えば、特定の宦官と会うこともできるだろう。
だから女官ではなく、お妃様になる必要性があるのだ。
わたくしの真っ直ぐな目を見つめ返していた父は、もう一度はぁ……と深い溜め息を吐いて、机に手をやってうなだれる。
「お前は昔からこうと決めたら曲げない娘だからな……けれど、そんなにイェンを好いているのであれば、もっと早く言ってくれれば……」
父の言葉はそこで途切れていたけれど、言わずともその先の言葉は想像がつく。
わたくしがもっと早くにイェン兄様御本人か、父に彼への想いを伝えていれば、夫婦になることもできただろう。
分かっているけれど……わたくしはイェン兄様に想いを告げることもできなければ、彼とそんな風に無理矢理添い遂げることもしたくなかったのだ。
「そんなことは百も承知ですが、もう過去には戻れません。なので、せめて前に進ませてください」
わたくしの願いを聞いた父は、再び思い悩んでいる様子だったけれど、わたくしの気持ちが変わらないのを理解したのか、はぁ……とため息を吐いて「分かった」と仰った。
これでイェン兄様のところへ行けるという安堵と喜びを感じながらも、同時に父をこんなにも悩ませてしまったことへの罪悪感が湧き上がる。
「申し訳ありません。けれど、ありがとうございます」
わたくしの謝罪と感謝を聞いた父は、疲れ切った表情でわたくしを見やると、また深い溜め息を吐いていた。
「皇帝陛下ならば、きっと悪いようにはなさらないだろう……」
かと思うと、ぐったりとしながら諦めたような口調でそうこぼした。
皇帝陛下のことは噂程度しか知らずお会いしたことがないけれど、父は随分と皇帝陛下のことを信頼している様子だった。
ただわたくしの頭の中は、イェン兄様のお傍に行けることを喜ぶばかりで、夫となる人物のことなどどうでも良かった。
あの人のところに行けるのであれば、どこへでも行くし、誰の妻になろうとも構わなかった。
そして、わたくしの後宮入りが決まった。
――そこで、目を覚ました。
目の前には見慣れた天井があり、わたくしの身体の下には柔らかな寝台がある。
どうやらわたくしは随分と懐かしい夢を見ていたらしい。
子どもの頃の夢……後宮入りを決めたときの夢……わたくしのイェン兄様への想いが詰まった夢だ。
皇帝陛下へも好意を寄せるなんて、そんな風に気持ちが揺らいでいるから……わたくし自身を戒めるために見せられた夢のように感じた。
わたくしは身体を起こして胸元に手をやり、自分の気持ちを確かめる。
イェン兄様への気持ちは、あの頃と変わっていない。
それだけあれば、わたくしには十分だった。
寝台から降りたわたくしは身支度を整え、今日は朝からイェン兄様の定期連絡をして、夕方には皇帝陛下とお茶を飲むお約束をしていたわねと思い出す。
今日も、いつもと変わらない日常が始まる。
父は動揺から、一気に溢れ出しそうになる言葉を懸命に抑え、やっとのことで端的な疑問を口にすることができているようだった。
「わたくしは後宮に行ったイェン兄様を追いかけます」
父の疑問に、わたくしは端的に、まっすぐに前を見つめながら答える。
わたくしの初めての恋……大切な人……。
そんな人と離れ離れになり、もう二度と会えないなんて……わたくしには耐えられなかった。
「イェンを……? 一体どういうことだ。順を追って説明しなさい」
父は頭を抱えながら、わたくしに説明を求める。
なのでわたくしは、正直にありのままに答える。
「わたくしは初めてお会いしたときから、イェン兄様をお慕いしております。そのイェン兄様が後宮に行くというのであれば、わたくしも後宮に行きます」
父は口をはくはくと声なく動かして、呆然としている。
かと思うと、はぁー……と深い溜め息を吐いてから、真剣な面持ちでわたくしを見つめる。
「……なぜ女官ではなく、皇帝陛下のお妃様なのだ」
「女官では後宮に行けても、イェン兄様のお傍に行ける可能性が低いです。わたくしは確実に、イェン兄様ともう一度お会いしたいのです」
女官の仕事がどんなものかは、わたくしはよく分かっていない。
けれど、後宮内を自由に動き回れる仕事ではないだろうということは、わたくしでも分かる。
もしイェン兄様と違う場所での仕事内容を割り振られたら、お顔を見ることすら叶わないかもしれない。
けれどお妃様であればある程度自由に動けるし、何よりも少し我儘を言えば、特定の宦官と会うこともできるだろう。
だから女官ではなく、お妃様になる必要性があるのだ。
わたくしの真っ直ぐな目を見つめ返していた父は、もう一度はぁ……と深い溜め息を吐いて、机に手をやってうなだれる。
「お前は昔からこうと決めたら曲げない娘だからな……けれど、そんなにイェンを好いているのであれば、もっと早く言ってくれれば……」
父の言葉はそこで途切れていたけれど、言わずともその先の言葉は想像がつく。
わたくしがもっと早くにイェン兄様御本人か、父に彼への想いを伝えていれば、夫婦になることもできただろう。
分かっているけれど……わたくしはイェン兄様に想いを告げることもできなければ、彼とそんな風に無理矢理添い遂げることもしたくなかったのだ。
「そんなことは百も承知ですが、もう過去には戻れません。なので、せめて前に進ませてください」
わたくしの願いを聞いた父は、再び思い悩んでいる様子だったけれど、わたくしの気持ちが変わらないのを理解したのか、はぁ……とため息を吐いて「分かった」と仰った。
これでイェン兄様のところへ行けるという安堵と喜びを感じながらも、同時に父をこんなにも悩ませてしまったことへの罪悪感が湧き上がる。
「申し訳ありません。けれど、ありがとうございます」
わたくしの謝罪と感謝を聞いた父は、疲れ切った表情でわたくしを見やると、また深い溜め息を吐いていた。
「皇帝陛下ならば、きっと悪いようにはなさらないだろう……」
かと思うと、ぐったりとしながら諦めたような口調でそうこぼした。
皇帝陛下のことは噂程度しか知らずお会いしたことがないけれど、父は随分と皇帝陛下のことを信頼している様子だった。
ただわたくしの頭の中は、イェン兄様のお傍に行けることを喜ぶばかりで、夫となる人物のことなどどうでも良かった。
あの人のところに行けるのであれば、どこへでも行くし、誰の妻になろうとも構わなかった。
そして、わたくしの後宮入りが決まった。
――そこで、目を覚ました。
目の前には見慣れた天井があり、わたくしの身体の下には柔らかな寝台がある。
どうやらわたくしは随分と懐かしい夢を見ていたらしい。
子どもの頃の夢……後宮入りを決めたときの夢……わたくしのイェン兄様への想いが詰まった夢だ。
皇帝陛下へも好意を寄せるなんて、そんな風に気持ちが揺らいでいるから……わたくし自身を戒めるために見せられた夢のように感じた。
わたくしは身体を起こして胸元に手をやり、自分の気持ちを確かめる。
イェン兄様への気持ちは、あの頃と変わっていない。
それだけあれば、わたくしには十分だった。
寝台から降りたわたくしは身支度を整え、今日は朝からイェン兄様の定期連絡をして、夕方には皇帝陛下とお茶を飲むお約束をしていたわねと思い出す。
今日も、いつもと変わらない日常が始まる。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる