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第一話 闇に響く銃声
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慶応四年、江戸の空は重く垂れ込めていた。春の終わりとはいえ、夜ともなれば冷たい風が路地を抜け、提灯の火を揺らした。浅草の裏町、観音堂の裏手にひっそりと佇む長屋に、佐々木源四郎は住んでいた。かつて幕府の剣術指南役として名を馳せた男も、今は浪人として日々を過ごす。刀は畳の間に仕舞われ、埃をかぶっていた。
源四郎は四十二歳。顔には深い皺が刻まれ、目はかつての鋭さを失わずとも、どこか遠くを見るような翳りを帯びていた。幕府の衰退とともに、彼の人生もまた色褪せていた。薩摩や長州の新政府軍が勢力を増し、江戸の街は不安と混乱に満ちていた。町人たちは噂話を囁き、武士たちは刀を握る手に力を込めた。だが、源四郎はただ静かに酒を飲み、夜の闇に耳を澄ませていた。
その夜、いつものように長屋の縁側で酒を傾けていると、聞き慣れない音が響いた。パンッ! 乾いた、金属的な音だった。火縄銃の鈍い爆音とも、ゲベール銃の重い響きとも異なる、鋭く空気を切り裂く音。源四郎の身体は反射的に動いた。刀は手にしなかった。代わりに、懐に忍ばせた短刀を握り、音のした路地裏へ足を踏み入れた。
路地は暗く、湿った土の匂いが鼻をついた。提灯の光が届かぬ闇の中、源四郎は息を殺して進んだ。やがて、血の匂いが漂ってきた。路地の突き当たり、崩れかけた土塀の陰に、男が倒れていた。黒い着物は血に染まり、息はすでに途絶えていた。男の手元には、見たことのない長銃が握られていた。銃身には「Snider-Enfield」の刻印。源四郎は眉をひそめた。西洋の銃だ。火縄銃やゲベール銃とは異なり、滑らかな金属の感触が新時代の到来を告げていた。
男の懐を探ると、血に濡れた書状が見つかった。蝋で封印されたそれを破ると、走り書きの文字が現れた。「黒龍会、港の蔵、スナイドル銃、百挺、外国の陰謀…」。源四郎の心臓が跳ねた。この銃が、ただの武器ではないことを直感した。
源四郎は書状を手に、男の亡魂を背に感じながら路地を後にした。夜の浅草は静かだったが、どこか遠くで聞こえる喧騒が、江戸の不安定な空気を物語っていた。提灯の火が揺れる長屋に戻り、源四郎は畳の上に書状を広げた。血の匂いがまだ鼻をつく。書状の文字は乱雑で、急いで書かれたものだと分かった。「黒龍会、港の蔵、スナイドル銃、百挺、外国の陰謀…」。言葉の一つ一つが、まるで刃のように源四郎の胸を刺した。
スナイドル銃。その名は、源四郎も耳にしたことがあった。数年前、幕府が西洋から輸入した新式の後装式ライフル。火縄銃やゲベール銃とは異なり、弾を銃身の後ろから装填でき、速射性と射程に優れると評判だった。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍がこれを使い、幕府軍を圧倒したという話は、江戸の武士たちの間に広まっていた。だが、なぜこの銃が今、裏町の路地に現れたのか。書状に記された「黒龍会」とは何か。源四郎の頭は、答えの出ない問いで渦巻いた。
彼は酒盃を手に取り、口をつけたが、酒はすでに冷めていた。長屋の薄暗い灯の下、源四郎の目はかつての自分を映していた。十年前、彼は幕府の剣術指南役として、旗本たちに剣を教えていた。北辰一刀流の使い手として、道場では誰も彼に敵わなかった。だが、黒船来航以来、幕府の力は衰え、源四郎の誇りもまた揺らいでいた。開国か攘夷か、薩長か幕府か。武士としての生き方が問われる時代に、彼はただ刀を握ることに固執していた。
「あの頃、俺は何を守ろうとしていたのだ…?」 源四郎は呟き、書状を再び手に取った。スナイドル銃は、刀の時代を終わらせる象徴だった。鉄と火薬の冷たい力は、剣の技を無意味にしかねない。だが、今、源四郎の手元にはその銃があった。死にゆく男が残した言葉が、耳に残る。「この銃を…守れ…」。守るとは何か。誰のために、何のために。
源四郎は長屋を出て、浅草の街を歩いた。夜の観音堂は、参拝客の喧騒が収まり、静寂に包まれていた。仲見世の屋台はすでに閉まり、わずかに残る提灯の光が石畳を照らす。遠くで聞こえる三味線の音が、廓の存在を思い出させた。だが、その音もどこか儚く、時代の変わり目を予感させるようだった。源四郎は浅草寺の境内を抜け、隅田川の畔に出た。川面には月が映り、揺れる水面がまるで不安定な世を映し出す鏡のようだった。
彼はかつての仲間、旗本の山崎左近を思い出した。左近は幕府の火器隊に属し、西洋の銃に詳しかった。スナイドル銃についても語っていたことがあった。「あれは化け物だよ、源四郎。火縄銃の十倍の速さで撃てる。遠くの敵を一瞬で仕留める。刀では太刀打ちできん」。左近の言葉は、源四郎に刀の限界を突きつけていた。だが、彼は笑って答えていた。「銃があろうと、武士の魂は刀にある」。その言葉が、今は空しく響く。
源四郎は川沿いの道を歩きながら、書状の「港の蔵」を考えた。江戸の港といえば、品川や深川が思い浮かぶ。黒龍会がそこに潜伏し、スナイドル銃を隠しているのだとしたら、単なる盗賊や浪人の集団ではない。外国の陰謀と結びついた、大きな企みがあるはずだ。源四郎は立ち止まり、懐から短刀を抜いた。刃に映る月光は、かつての自分を嘲るようだった。
源四郎は四十二歳。顔には深い皺が刻まれ、目はかつての鋭さを失わずとも、どこか遠くを見るような翳りを帯びていた。幕府の衰退とともに、彼の人生もまた色褪せていた。薩摩や長州の新政府軍が勢力を増し、江戸の街は不安と混乱に満ちていた。町人たちは噂話を囁き、武士たちは刀を握る手に力を込めた。だが、源四郎はただ静かに酒を飲み、夜の闇に耳を澄ませていた。
その夜、いつものように長屋の縁側で酒を傾けていると、聞き慣れない音が響いた。パンッ! 乾いた、金属的な音だった。火縄銃の鈍い爆音とも、ゲベール銃の重い響きとも異なる、鋭く空気を切り裂く音。源四郎の身体は反射的に動いた。刀は手にしなかった。代わりに、懐に忍ばせた短刀を握り、音のした路地裏へ足を踏み入れた。
路地は暗く、湿った土の匂いが鼻をついた。提灯の光が届かぬ闇の中、源四郎は息を殺して進んだ。やがて、血の匂いが漂ってきた。路地の突き当たり、崩れかけた土塀の陰に、男が倒れていた。黒い着物は血に染まり、息はすでに途絶えていた。男の手元には、見たことのない長銃が握られていた。銃身には「Snider-Enfield」の刻印。源四郎は眉をひそめた。西洋の銃だ。火縄銃やゲベール銃とは異なり、滑らかな金属の感触が新時代の到来を告げていた。
男の懐を探ると、血に濡れた書状が見つかった。蝋で封印されたそれを破ると、走り書きの文字が現れた。「黒龍会、港の蔵、スナイドル銃、百挺、外国の陰謀…」。源四郎の心臓が跳ねた。この銃が、ただの武器ではないことを直感した。
源四郎は書状を手に、男の亡魂を背に感じながら路地を後にした。夜の浅草は静かだったが、どこか遠くで聞こえる喧騒が、江戸の不安定な空気を物語っていた。提灯の火が揺れる長屋に戻り、源四郎は畳の上に書状を広げた。血の匂いがまだ鼻をつく。書状の文字は乱雑で、急いで書かれたものだと分かった。「黒龍会、港の蔵、スナイドル銃、百挺、外国の陰謀…」。言葉の一つ一つが、まるで刃のように源四郎の胸を刺した。
スナイドル銃。その名は、源四郎も耳にしたことがあった。数年前、幕府が西洋から輸入した新式の後装式ライフル。火縄銃やゲベール銃とは異なり、弾を銃身の後ろから装填でき、速射性と射程に優れると評判だった。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍がこれを使い、幕府軍を圧倒したという話は、江戸の武士たちの間に広まっていた。だが、なぜこの銃が今、裏町の路地に現れたのか。書状に記された「黒龍会」とは何か。源四郎の頭は、答えの出ない問いで渦巻いた。
彼は酒盃を手に取り、口をつけたが、酒はすでに冷めていた。長屋の薄暗い灯の下、源四郎の目はかつての自分を映していた。十年前、彼は幕府の剣術指南役として、旗本たちに剣を教えていた。北辰一刀流の使い手として、道場では誰も彼に敵わなかった。だが、黒船来航以来、幕府の力は衰え、源四郎の誇りもまた揺らいでいた。開国か攘夷か、薩長か幕府か。武士としての生き方が問われる時代に、彼はただ刀を握ることに固執していた。
「あの頃、俺は何を守ろうとしていたのだ…?」 源四郎は呟き、書状を再び手に取った。スナイドル銃は、刀の時代を終わらせる象徴だった。鉄と火薬の冷たい力は、剣の技を無意味にしかねない。だが、今、源四郎の手元にはその銃があった。死にゆく男が残した言葉が、耳に残る。「この銃を…守れ…」。守るとは何か。誰のために、何のために。
源四郎は長屋を出て、浅草の街を歩いた。夜の観音堂は、参拝客の喧騒が収まり、静寂に包まれていた。仲見世の屋台はすでに閉まり、わずかに残る提灯の光が石畳を照らす。遠くで聞こえる三味線の音が、廓の存在を思い出させた。だが、その音もどこか儚く、時代の変わり目を予感させるようだった。源四郎は浅草寺の境内を抜け、隅田川の畔に出た。川面には月が映り、揺れる水面がまるで不安定な世を映し出す鏡のようだった。
彼はかつての仲間、旗本の山崎左近を思い出した。左近は幕府の火器隊に属し、西洋の銃に詳しかった。スナイドル銃についても語っていたことがあった。「あれは化け物だよ、源四郎。火縄銃の十倍の速さで撃てる。遠くの敵を一瞬で仕留める。刀では太刀打ちできん」。左近の言葉は、源四郎に刀の限界を突きつけていた。だが、彼は笑って答えていた。「銃があろうと、武士の魂は刀にある」。その言葉が、今は空しく響く。
源四郎は川沿いの道を歩きながら、書状の「港の蔵」を考えた。江戸の港といえば、品川や深川が思い浮かぶ。黒龍会がそこに潜伏し、スナイドル銃を隠しているのだとしたら、単なる盗賊や浪人の集団ではない。外国の陰謀と結びついた、大きな企みがあるはずだ。源四郎は立ち止まり、懐から短刀を抜いた。刃に映る月光は、かつての自分を嘲るようだった。
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