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亡国の残響
風が選ぶ森
風竜の棲家の森は、人の営みから遠かった。
街道は途中で途切れ、草の細い道が岩場へ変わり、やがて山の斜面に吸い込まれていく。遠くに見える峰は白く霞み、谷間を流れる風は、音もなく衣の裾を引いた。
モコは鞍具に工具箱と測定器を固定し、しっかりとした足取りで斜面を進んだ。強い横風が吹くたび、前脚を踏み締め、首を少し低くして仲間の歩調を待つ。
「くるる……」
振り返るように鳴いたモコに、ノアは頷いた。
「大丈夫。ありがとう、モコ」
セラは周囲の木々を見上げていた。山の上へ行くほど、木の姿が変わっていく。枝は低く横へ流れ、葉は細く、風の向きを示すように一方向へ伏せている。
その時、森の音が消えた。
葉擦れも、鳥の声も、遠い谷の唸りも。
ノアは足を止める。レクサスも剣に手をかけた。ただし、抜かない。
梢の奥から、淡い若葉色の影が降りてきた。
風竜だった。
柔らかな体毛が風に伏せ、背から尾へ流れる鬣が霧のように揺れる。畳んだ翼の羽先だけが、森の気流を読むように微かに震えていた。
梢の奥には、ほかにも淡い影があった。
姿を現しきらない風竜たちが、枝葉の向こうからこちらを見ている。敵意はない。けれど、この森に踏み込んだ者を、風そのものが見定めているようだった。
その中で、ひときわ近くに降り立った竜がノアたちを見下ろした。
威圧ではない。
けれど、浅い嘘ならすぐに風へほどかれてしまう。そんな眼差しだった。
「人の子らよ。ここは、風が選ぶ森だ」
声は静かで、よく通った。
ノアは一歩進み、胸に手を当てて頭を下げる。
「突然の訪問をお許しください。私はストーリア王国のノア・ライトエースです。こちらはレクサス殿下、セラさん、そしてモコです」
風竜の目が、ノアの上で止まった。
「ノア・ライトエース。神竜の気配を持つ者よ。その名は、風にも届いている」
セラが息を呑む。レクサスは表情を変えなかったが、視線だけをノアへ向けた。
ノアは逃げずに頷いた。
「はい。今日は、お願いがあって参りました」
風竜はしばらく黙っていた。
やがて、首をわずかに上げる。
「私はシルフィ。この森の風と、天脈樹を預かる者」
そして、シルフィの視線がセラの手元へ移る。
「天脈樹を求めて来たのだな」
セラは一歩前に出た。
図面を握る手に、少しだけ力が入っている。
「はい。ホークを直すために必要です。竜の異常行動を追う時、落ちないようにするためでもあります」
そこで一度、息を吸う。
「必要な量は、私が計算します。余分には持ち出しません。森を荒らすつもりもありません」
シルフィはセラを見た。
「氷を抱く同胞の噂は、こちらにも届いている」
森の奥で、風が低く鳴った。
「あれは、己の風で飛んでいなかった。命じられた矢のようだった」
ノアの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「私たちは、確かめに行きます」
ノアは言った。
「あの氷竜は、自分の意思で飛んでいませんでした。なら、誰が、何のために、彼の空を奪ったのか。それを見つけなければなりません」
ノアは、シルフィをまっすぐに見た。
「竜が竜として、自分の空を取り戻せるように」
シルフィは瞼を伏せた。
「レガリアと相対し、なお祈りを手放さなかった神竜よ」
ノアの指が、胸元で小さく強張った。
すぐには、言葉を返せなかった。
シルフィは深い森の奥へ視線を向けた。
「あの戦いの時、我らはこの森から離れられなかった。天脈樹と、まもなく孵る仔らを守るために」
その声に、わずかな翳りが混じった。
「風は、遠くの叫びも運ぶ。聞こえていても、動けぬ時がある」
ノアは、その言葉を胸の奥で受け止めた。
「……私ひとりで出来たことではありません」
やがて、静かに言う。
「たくさんの人が、支えてくれました」
「知っている」
シルフィの声は、少しだけ柔らかくなった。
「風は、勝利の知らせだけを運ぶわけではない。そこにいた者たちの声も運ぶ。恐れも、祈りも、痛みも」
沈黙のあと、風が道を開くように梢を揺らした。
「……ついて来るがよい」
* * *
天脈樹の森は、音が柔らかかった。
高地の風は本来なら鋭いはずなのに、その場所だけは違っていた。幾本もの巨木が根を絡めるように立ち、幹の内側から淡い光が透けている。枝葉は空を遮らず、むしろ風の通り道を作るように伸びていた。
「天脈樹は、我らの棲家であり、記憶でもある」
シルフィはゆっくりと歩いた。
「仔が初めて羽を広げる時、この樹の下で風を覚える。傷ついた者は根元で眠る。老いた者は、最後にこの枝の音を聞く」
セラは無言で頷いた。
案内されたのは、森の奥に横たわる一本の倒木だった。
根元から自然に折れた古い天脈樹で、幹は大人が数人で囲んでも余るほど太い。表面は乾いているのに、切れた枝の奥には淡い筋が幾重にも走っていた。
セラは膝をつき、測定器を当てた。
小さな針が震え、静かに一定の位置で止まる。セラは息を詰めたまま、何度か測り直した。
「……合う」
その声は、ほとんど囁きだった。
「これなら、ホークの翼骨に使える。制御軸にも。想定よりずっといい」
レクサスが倒木を見た。
「運び出せる量ではなさそうだね」
「今日の人数じゃ無理。試験片だけなら持ち帰れるけど、本材は切り出しと搬出が要る。技師、運搬役、護衛、飛行艇団の手も借りたい」
セラはシルフィに向き直った。
「この森に、人を入れる許可が必要です」
空気が、わずかに張った。
シルフィの大きな翼がゆっくりと開き、また畳まれる。その動きだけで、森の風向きが変わった。
「人の足は、時に多くを踏み荒らす」
レクサスが前へ出た。
「森へ入る者は、僕が責任を持って選びます。人数、役割、搬出経路、切り出す量。すべて事前にお伝えします。許された場所以外には踏み込みません」
ノアも続けた。
「私も約束します」
シルフィは二人を見つめ、それからセラへ視線を移した。
「お前は、どれほど求める」
セラは倒木に触れたまま、しばらく黙っていた。
「ホークが次に空へ上がるのに必要な分だけ」
彼女は、幹の淡い筋を指でなぞった。
「それ以上は要りません。余ったって、意味がないから」
シルフィの目が、少しだけ和らいだように見えた。
「ならば許そう。だが、条件がある」
風竜の声に、森が耳を澄ませた。
「生きた天脈樹を傷つけぬこと。森へ入る者の名と役目を知らせること。武器を抜かぬこと。切り出した跡は、我らと共に風へ返すこと」
「守ります」
レクサスは迷いなく答えた。
シルフィは最後に、ノアを見た。
「神竜よ。もうひとつ、願いがある」
* * *
案内されたのは、さらに森の奥だった。
そこには、ひときわ古い天脈樹が立っていた。根は大地を抱くように広がり、その間に淡い風が溜まっている。光は枝葉に砕かれ、白く、青く、静かに降っていた。
根の内側に、ひとつの卵があった。
薄い空色の殻に、風の脈のような模様が走っている。卵の周りには細かな羽が敷かれ、空気が柔らかく温んでいた。
「まもなく孵る仔だ」
シルフィは卵のそばに身を伏せた。淡い体毛が根元の草に触れ、風が静かに沈む。
「近ごろの風は乱れている。生まれてくる仔に、恐れを最初の風として覚えさせたくはない」
シルフィは深く頭を下げた。
「この仔が、自ら選ぶ風を掴めるように。祝福を」
ノアは卵の前に膝をついた。
レクサスが少し離れた場所で見守っている。セラは試験片を手にしたまま、言葉を失ったように立っていた。
モコは翼を畳み、前脚を揃えて伏せる。喉の奥で、かすかに「くるる」と鳴いた。
ノアは両手を重ねた。
「……私にできることなら」
目を伏せると、森の音が近くなった。
どうか、この仔が生まれてくる空が、優しいものでありますように。
誰かに命じられた風ではなく、自分で選ぶ風を知れますように。
恐れに翼を閉ざされることなく、初めての羽ばたきが祝福でありますように。
ノアの胸の奥で、淡い光が灯った。
春の朝、凍っていた水面が音もなくほどけるような、静かな温もりだった。
その光が卵を包む。
天脈樹の枝葉が、優しく鳴った。風が卵の周りを巡り、敷かれた羽をふわりと揺らす。草の穂が一斉に伏せ、またゆっくりと起き上がった。
殻の内側で、こつん、と小さな音がした。
誰も声を上げなかった。
シルフィは目を閉じ、深く頭を垂れた。梢の奥で見守っていた風竜たちも、同じように首を下げる。
ノアはそっと手を下ろした。
「ありがとう、神竜よ」
シルフィの声は、初めて少しだけ柔らかかった。
「この森は、約束を覚える。お前たちが天脈樹を運び出す日、風は道を閉ざさぬ」
レクサスが静かに頭を下げた。
「必ず、約束を守ります」
* * *
帰り道、山の風は穏やかだった。
モコの鞍具には、天脈樹の試験片が丁寧に包まれて固定されている。本材はまだ森にある。切り出しも、搬出も、修理も、これからだった。
それでも、セラの歩調は来た時より少し軽かった。
「ホークは、直せる」
彼女は前を向いたまま言った。
「時間はかかる。人も要る。風竜との約束もある。でも、直せる。前より、ちゃんと帰ってこられるようにする」
ノアは頷いた。
「お願いします、セラさん」
レクサスが空を見上げる。雲の切れ間から、薄い光が差していた。
「搬出班を編成しよう。約束を守れる者だけを連れていく」
モコが「きゅう」と明るく鳴いた。大きな羽を少しだけ広げ、風を確かめるように羽先を震わせる。
ホークの修理は、まだ終わっていない。
けれど、空へ戻る道は見えた。
街道は途中で途切れ、草の細い道が岩場へ変わり、やがて山の斜面に吸い込まれていく。遠くに見える峰は白く霞み、谷間を流れる風は、音もなく衣の裾を引いた。
モコは鞍具に工具箱と測定器を固定し、しっかりとした足取りで斜面を進んだ。強い横風が吹くたび、前脚を踏み締め、首を少し低くして仲間の歩調を待つ。
「くるる……」
振り返るように鳴いたモコに、ノアは頷いた。
「大丈夫。ありがとう、モコ」
セラは周囲の木々を見上げていた。山の上へ行くほど、木の姿が変わっていく。枝は低く横へ流れ、葉は細く、風の向きを示すように一方向へ伏せている。
その時、森の音が消えた。
葉擦れも、鳥の声も、遠い谷の唸りも。
ノアは足を止める。レクサスも剣に手をかけた。ただし、抜かない。
梢の奥から、淡い若葉色の影が降りてきた。
風竜だった。
柔らかな体毛が風に伏せ、背から尾へ流れる鬣が霧のように揺れる。畳んだ翼の羽先だけが、森の気流を読むように微かに震えていた。
梢の奥には、ほかにも淡い影があった。
姿を現しきらない風竜たちが、枝葉の向こうからこちらを見ている。敵意はない。けれど、この森に踏み込んだ者を、風そのものが見定めているようだった。
その中で、ひときわ近くに降り立った竜がノアたちを見下ろした。
威圧ではない。
けれど、浅い嘘ならすぐに風へほどかれてしまう。そんな眼差しだった。
「人の子らよ。ここは、風が選ぶ森だ」
声は静かで、よく通った。
ノアは一歩進み、胸に手を当てて頭を下げる。
「突然の訪問をお許しください。私はストーリア王国のノア・ライトエースです。こちらはレクサス殿下、セラさん、そしてモコです」
風竜の目が、ノアの上で止まった。
「ノア・ライトエース。神竜の気配を持つ者よ。その名は、風にも届いている」
セラが息を呑む。レクサスは表情を変えなかったが、視線だけをノアへ向けた。
ノアは逃げずに頷いた。
「はい。今日は、お願いがあって参りました」
風竜はしばらく黙っていた。
やがて、首をわずかに上げる。
「私はシルフィ。この森の風と、天脈樹を預かる者」
そして、シルフィの視線がセラの手元へ移る。
「天脈樹を求めて来たのだな」
セラは一歩前に出た。
図面を握る手に、少しだけ力が入っている。
「はい。ホークを直すために必要です。竜の異常行動を追う時、落ちないようにするためでもあります」
そこで一度、息を吸う。
「必要な量は、私が計算します。余分には持ち出しません。森を荒らすつもりもありません」
シルフィはセラを見た。
「氷を抱く同胞の噂は、こちらにも届いている」
森の奥で、風が低く鳴った。
「あれは、己の風で飛んでいなかった。命じられた矢のようだった」
ノアの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「私たちは、確かめに行きます」
ノアは言った。
「あの氷竜は、自分の意思で飛んでいませんでした。なら、誰が、何のために、彼の空を奪ったのか。それを見つけなければなりません」
ノアは、シルフィをまっすぐに見た。
「竜が竜として、自分の空を取り戻せるように」
シルフィは瞼を伏せた。
「レガリアと相対し、なお祈りを手放さなかった神竜よ」
ノアの指が、胸元で小さく強張った。
すぐには、言葉を返せなかった。
シルフィは深い森の奥へ視線を向けた。
「あの戦いの時、我らはこの森から離れられなかった。天脈樹と、まもなく孵る仔らを守るために」
その声に、わずかな翳りが混じった。
「風は、遠くの叫びも運ぶ。聞こえていても、動けぬ時がある」
ノアは、その言葉を胸の奥で受け止めた。
「……私ひとりで出来たことではありません」
やがて、静かに言う。
「たくさんの人が、支えてくれました」
「知っている」
シルフィの声は、少しだけ柔らかくなった。
「風は、勝利の知らせだけを運ぶわけではない。そこにいた者たちの声も運ぶ。恐れも、祈りも、痛みも」
沈黙のあと、風が道を開くように梢を揺らした。
「……ついて来るがよい」
* * *
天脈樹の森は、音が柔らかかった。
高地の風は本来なら鋭いはずなのに、その場所だけは違っていた。幾本もの巨木が根を絡めるように立ち、幹の内側から淡い光が透けている。枝葉は空を遮らず、むしろ風の通り道を作るように伸びていた。
「天脈樹は、我らの棲家であり、記憶でもある」
シルフィはゆっくりと歩いた。
「仔が初めて羽を広げる時、この樹の下で風を覚える。傷ついた者は根元で眠る。老いた者は、最後にこの枝の音を聞く」
セラは無言で頷いた。
案内されたのは、森の奥に横たわる一本の倒木だった。
根元から自然に折れた古い天脈樹で、幹は大人が数人で囲んでも余るほど太い。表面は乾いているのに、切れた枝の奥には淡い筋が幾重にも走っていた。
セラは膝をつき、測定器を当てた。
小さな針が震え、静かに一定の位置で止まる。セラは息を詰めたまま、何度か測り直した。
「……合う」
その声は、ほとんど囁きだった。
「これなら、ホークの翼骨に使える。制御軸にも。想定よりずっといい」
レクサスが倒木を見た。
「運び出せる量ではなさそうだね」
「今日の人数じゃ無理。試験片だけなら持ち帰れるけど、本材は切り出しと搬出が要る。技師、運搬役、護衛、飛行艇団の手も借りたい」
セラはシルフィに向き直った。
「この森に、人を入れる許可が必要です」
空気が、わずかに張った。
シルフィの大きな翼がゆっくりと開き、また畳まれる。その動きだけで、森の風向きが変わった。
「人の足は、時に多くを踏み荒らす」
レクサスが前へ出た。
「森へ入る者は、僕が責任を持って選びます。人数、役割、搬出経路、切り出す量。すべて事前にお伝えします。許された場所以外には踏み込みません」
ノアも続けた。
「私も約束します」
シルフィは二人を見つめ、それからセラへ視線を移した。
「お前は、どれほど求める」
セラは倒木に触れたまま、しばらく黙っていた。
「ホークが次に空へ上がるのに必要な分だけ」
彼女は、幹の淡い筋を指でなぞった。
「それ以上は要りません。余ったって、意味がないから」
シルフィの目が、少しだけ和らいだように見えた。
「ならば許そう。だが、条件がある」
風竜の声に、森が耳を澄ませた。
「生きた天脈樹を傷つけぬこと。森へ入る者の名と役目を知らせること。武器を抜かぬこと。切り出した跡は、我らと共に風へ返すこと」
「守ります」
レクサスは迷いなく答えた。
シルフィは最後に、ノアを見た。
「神竜よ。もうひとつ、願いがある」
* * *
案内されたのは、さらに森の奥だった。
そこには、ひときわ古い天脈樹が立っていた。根は大地を抱くように広がり、その間に淡い風が溜まっている。光は枝葉に砕かれ、白く、青く、静かに降っていた。
根の内側に、ひとつの卵があった。
薄い空色の殻に、風の脈のような模様が走っている。卵の周りには細かな羽が敷かれ、空気が柔らかく温んでいた。
「まもなく孵る仔だ」
シルフィは卵のそばに身を伏せた。淡い体毛が根元の草に触れ、風が静かに沈む。
「近ごろの風は乱れている。生まれてくる仔に、恐れを最初の風として覚えさせたくはない」
シルフィは深く頭を下げた。
「この仔が、自ら選ぶ風を掴めるように。祝福を」
ノアは卵の前に膝をついた。
レクサスが少し離れた場所で見守っている。セラは試験片を手にしたまま、言葉を失ったように立っていた。
モコは翼を畳み、前脚を揃えて伏せる。喉の奥で、かすかに「くるる」と鳴いた。
ノアは両手を重ねた。
「……私にできることなら」
目を伏せると、森の音が近くなった。
どうか、この仔が生まれてくる空が、優しいものでありますように。
誰かに命じられた風ではなく、自分で選ぶ風を知れますように。
恐れに翼を閉ざされることなく、初めての羽ばたきが祝福でありますように。
ノアの胸の奥で、淡い光が灯った。
春の朝、凍っていた水面が音もなくほどけるような、静かな温もりだった。
その光が卵を包む。
天脈樹の枝葉が、優しく鳴った。風が卵の周りを巡り、敷かれた羽をふわりと揺らす。草の穂が一斉に伏せ、またゆっくりと起き上がった。
殻の内側で、こつん、と小さな音がした。
誰も声を上げなかった。
シルフィは目を閉じ、深く頭を垂れた。梢の奥で見守っていた風竜たちも、同じように首を下げる。
ノアはそっと手を下ろした。
「ありがとう、神竜よ」
シルフィの声は、初めて少しだけ柔らかかった。
「この森は、約束を覚える。お前たちが天脈樹を運び出す日、風は道を閉ざさぬ」
レクサスが静かに頭を下げた。
「必ず、約束を守ります」
* * *
帰り道、山の風は穏やかだった。
モコの鞍具には、天脈樹の試験片が丁寧に包まれて固定されている。本材はまだ森にある。切り出しも、搬出も、修理も、これからだった。
それでも、セラの歩調は来た時より少し軽かった。
「ホークは、直せる」
彼女は前を向いたまま言った。
「時間はかかる。人も要る。風竜との約束もある。でも、直せる。前より、ちゃんと帰ってこられるようにする」
ノアは頷いた。
「お願いします、セラさん」
レクサスが空を見上げる。雲の切れ間から、薄い光が差していた。
「搬出班を編成しよう。約束を守れる者だけを連れていく」
モコが「きゅう」と明るく鳴いた。大きな羽を少しだけ広げ、風を確かめるように羽先を震わせる。
ホークの修理は、まだ終わっていない。
けれど、空へ戻る道は見えた。
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