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その一 別界の浮幽士
その一 別界の浮幽士
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1
「司馬どの、司馬どの……」
自らの口が、自らの名を呼んでいる……。
森の景色が目に飛びこんできた。その景色は急速に後ろへ流れていた。
ほんの寸前まで気絶していたというのに、李玄の渾身は猛烈に動いて鞭のように地を蹴っている。
「デュナンか?」
と李玄は自らの口をつかい呼びかける。
契約霊のデュナンが李玄の体を借りて、汪豹のこもる洞穴から命からがら逃げ出してきたところだった。
デュナンは気絶した鉄斎をしっかりと背負ってきたようだ。
いつものことだが、デュナンが入ると、李玄は金縛りにあったように感じる。
彼は遮断された目玉に意識をつなげて、ギョロギョロと動かし周囲を見た。
「デュナン、ここはどこだ?」
「まだ後山を出ておりませぬ。早くこの場を離れねば」
とすると、気絶してさほど経っていないようだった。デュナンは口を使わずとも李玄と意志を通じ合わすことが出来た(一つの体を共有しているのだから当然だが)。が、利口な彼は司馬の意識を保つために体を使うことに決めたようだ。
李玄は鉄斎の体が重く背にのしかかるのを感じた。霊力のほとんどを使い果たし、仮死状態とかしている。ときおり鉄斎の体を揺すって名を呼んだ。
「師匠、死んだらだめだ。一緒に本界に帰るんだ」
李玄は、父上を連れて、という言葉を飲みこむ。
その父が、息子の李玄と、師である鉄斎を迷いもなく殺そうとしたのだ。
5年ぶりにあった父親に殺され掛かったことで、李玄の心は深く傷ついていた。
膨大な霊力をもつ李玄の体は、汪豹(おうひょう)に受けた裂傷もどんどん回復していった。攻撃は師匠以上に喰らったが、見た目ほどの重傷ではない。
今は鉄斎が死んでしまわないか心配だった。八十才を越える五体はなんとも軽い。
一方、汪豹は40代の壮年である。正面から戦うこと自体に無理があったのだ。鉄斎は、口ではなんと言おうと弟子を殺すつもりなど、なかったのだから。
「ちくしょう、俺に霊術が使えたら」
「そう申しますな。あの場から逃げられたのは、司馬殿なればこそですぞ」
「お前のおかげだよ、デュナン……」
李玄は背後に首を回す。デュナンは霊体だから、首が後ろを向こうが、視界に支障はない。
後山は、三人の霊力合戦で、地形まで変わり果てている。別界の住人がくれば、すぐに騒ぎになるだろう。
「デュナン、父上はどうした?」
と李玄は言った。今は体が一人でに走るのに身を任せている。
「デュナン、きかせてくれ。お前は父上を殺したのか?」
「霊術使いを剣で倒せとは、奇っ怪な……」
とデュナンは言った。だが、李玄が意識を失う寸前、鉄斎は霊術を仕掛けていたはずである。岩石の牢獄に汪豹を閉じこめたのだ。霊力を喪失した鉄斎が、汪豹の手を逃れることができたのは、汪豹もまた動けぬ身であったからだった。
「司馬殿は父上の死を望んでおられない。だから拙者は逃げ申した」
「ありがとう……デュナン」
と言ったきり、李玄は疲れ果て、再び意識を無くした。デュナンは鉄斎を(正確には李玄をも)連れて、後山を後にした。
2
司馬鳳仙は、山麓のなかほどにある神社の境内で、司馬李玄の帰りを待っていた。
別界(司馬らのいる本界の下位世界。呼び名は通称である)についたのは二日前だが、李玄と鉄斎には会えぬままだ。
李玄たちがねぐらとしているのは、太守神社という小さな社である。
瀏帝は本界との通路を、この小さな社に築いたのだ。
過去には別界と本界は自由に行き来をしていた。が、現在では皇家が往来を禁止して、別界に渡る術も隠匿している。
とはいえ、犯人捕縛に協力してはいる。司馬一族の者が兄を殺した後も、瀏帝は養育掛かりであった鉄斎を信頼しているようだ。
鳳仙は霊力を視覚と結びつけて下界の様子を探っていた。
「五体を霊力と結びつける法」とも内界術とも呼ばれている。
神社から眼下の道路に続く石段を李玄がのぼってくるのが見えた。どうやら鉄斎を背負っているようだ。
また無茶をしでかしたらしい。
鳳仙は吐息をつくと、階段を下りていった。
3
「何者だ!」と李玄が階上にたつ鳳仙に目を止めて言った。が、すぐに鳳仙の装束に気がついたようだ。「本界の者か? そこで何をしている?」
鳳仙は顔をしかめた。親しくはないが、顔見知りのはずである。
「そうか、貴様デュナンとかいう契約霊だな」
と鳳仙は言った。李玄がうなずいた。
よく見ると、その目は青みがかっている。肌も白いようである。
鳳仙は契約霊がつくと、浮幽士の体に若干の変化が起こるという話を思い出した。
「司馬殿は眠っておられる」
「眠っているだと? 契約霊を取り憑かせたままでか」
そんなことをすれば、体を乗っ取られてもおかしくはない。
鳳仙は、叩き起こせ、と怒鳴った。
神社の戸が開いた。声を聞き付けて出てきたのは、朱仙と羌櫂である。ともに司馬一族の霊術使いだ。鳳仙は霊力で五体を高めると、すばやく李玄――デュナンに身を寄せて、唇を耳にそばよらせた。
「あの二人は司馬一族の者だ。しばらく李玄の振りをしろ」
と言った。
4
鉄斎は司馬一族の天才だから、たいていの者が手ほどきを受けている。
朱仙と羌櫂も弟子である。
二人は鉄斎の様子に驚いて、急いで社に運びこんだ。
李玄の目を覚まさすのなら今の内だった。鳳仙は李玄を境内の脇につれていった。ややうつむいた李玄の目が、青から黒に変わるのを見たが、表情を変えず、「戻ったか?」と鳳仙は訊いた。
「鳳仙? なぜここに?」
と李玄は目を一杯にして身をひいた。現在、別界にいる司馬一族は、自分と鉄斎だけのはずだったからだ。
デュナンはすでに体を抜け出して脇に浮いている。生前は東方の騎士だった男だ。死後も金髪碧眼の姿を保っている。鎧を着込んでいるが、それが死んだ直後の姿なのだという。
が、依り代の体質でない鳳仙には見えない。
――この娘、里で見かけましたな。
とデュナンが心に語りかけてくる。李玄は鳳仙には気づかれぬようにうなずき、
――宗家の一人娘だよ。俺は苦手だ。
と返した。李玄は分家の出だからろくに話したことがない。感情を表に出さない娘で、どこか近寄りがたかった。整った顔立ちだけに、実際の性格よりも冷たく見える。李玄よりも二つ若いが、霊術を使いこなすことに関しては天才である。
李玄は疲労が重りのようにのしかかってくるのを感じた。眠気を強く感じる。
李玄はそれを振り払って、
「皇帝一家との約定を忘れたのか? 別界に来ていいのは、師匠と俺だけのはずだぞ」
鳳仙が李玄の口をおさえて黙らせる。意外に小さな手だった。
「お主こそ自体が飲み込めていないな。約定の期限まで三月だ。もうほとんど過ぎてしまったぞ。汪豹殿をいますぐに捕らえなければ、一族がどうなるやわからんのだ」
李玄は口元の手をおしのけると、涙を隠すように頭をかいた。
司馬汪豹が皇兄の玄武を殺害したのは、半年前のことだ。
司馬一族でも飛び抜けた天才霊力者で、宮廷術士として都に召し出されていた(前任者は鉄斎)。占術の他に、宮廷の術者の育成、皇家の護衛にも携わっていた。それが、皇兄を暗殺したうえ、別界に遁走するという事件を起こしたのだから、都は天地を返す騒ぎとなった。
皇家は異能者ぞろいの司馬一族を畏れもしたし利用もしてきたが、今度ばかりはその恐れが現実となったわけである。
目撃者こそなかったが、現場には確定的な証拠がいくつも残されていた。宮廷での信任は厚かったが、都を抜けたことはいただけない。宮廷術師が無断で都を離れること自体禁じられているのである。
政府では、汪豹と反瀏組織(瀏は国家名。反政府組織のこと)との結びつきを疑っている。
鉄斎は都におもむき、汪豹の無実を主張したが、宰相たちは聞き入れない。そもそも得体のしれない霊力者自体を嫌っているのである。
司馬一族は自らの手で同胞を捕らえ、都に護送せねばならなくなった。
鳳仙はちらりと社をかえりみて、「朱仙殿と羌櫂殿も別界に来ている。声を抑えろ」
「叔父きもか?」
李玄はいくぶんほっとした。朱仙は汪豹の弟だし、鳳仙とて元々は汪豹の弟子なのだ。
長老たちが殺害の腹を決めたのかと思ったが、生きたまま捕縛することを諦めてはいないようだ。都に戻り、申し開きをすべきだと。
鳳仙は吐息をつくと、視線を有らぬ方にやった。
「――が、羌櫂殿も一緒だ。大臣たちは鉄斎殿の遅れを疑いはじめている」
「師匠まで? なぜだ?」
「反瀏組織との関わりを鉄斎殿も疑われているのだ。言いがかりだが、司馬一族自体がつながっていると、噂する者もいる」
と鳳仙は言ったが、この疑惑は以前から囁かれてもいた。
ともあれ汪豹が無実ならすぐに出廷していいはずだった。鳳仙は、
「汪豹殿に会ったのか? デュナンは戦いに敗れたと言っていたぞ」
李玄はつと目を反らしたが、
「本当だ。二人がかりだったが父上にはかなわなかった」
そもそも二人は汪豹と戦うつもりがなかった。汪豹が本当に皇兄を殺めたとは考えられなかったからだ。都でも複数の下手人が手配されていた。
汪豹が、罠にはめられた、とも考えられていたからだし、李玄はそう信じている。けれど――
汪豹はそもそも聞く耳を持たなかった。
李玄は不意打ちをくらい、危うく死にかけた。後はもう、ろくに話すことも出来ずに霊術合戦だ。
このことの意味することは何か?
李玄の心は千々に乱れた。疑惑が蛇のようにとぐろをまいて、胸の中をうねっている。
唯一の肉親が、会得した霊術で人を殺したんだろうか?
それも皇兄を殺したのか?
李玄は下を向いて吐き気に耐えた。
鳳仙は話をそらし、「ここは別界のどこにあたる」
「日本という島国だ」
と思いを断つようにして額をぬぐう。
鳳仙の後方に浮かぶ神主装束の男を顎で示し、
「そこに宮司がいる。二十年前に死んだそうだ」
李玄、と鳳仙はさらに声を低めた。『五感を霊力で高める法』を恐れてのことだ。司馬一族は、聴覚をたやすく高めるから、気が置ける。
彼女は李玄も知らぬ話を説明した。
「羌櫂殿は使い手には違いないが、汪豹殿にやぶれ宮仕えを逃した過去も持っておられる。お主ら浮幽士のことも快く思っていないのだ。霊に関することは口にするな」
李玄は少し青い顔をしてうなずいた。羌櫂が怖いというよりは、過去の迫害をまざまざと思い出してのことだった。
浮幽士の術は、浮幽霊と契約を結ぶことからはじまる。契約霊の持つ能力(デュナンであれば剣術)を五体に発現する者のことを言うのだ。
が、今となっては禁術である。
かつて浮幽士だったものが、能力の高い者を次々と殺し、契約霊にしてしまったことがあるためだ。
以来、長老たちはこの体質の者が生まれることすら嫌った。修行を積んだ浮幽士は、司馬の里でも汪豹しかいない。
李玄も表向きは浮幽士としての修行を受けていないことになっていた。デュナンという霊を従えていること自体、知る者は少ない。
そもそも、浮幽士の術は体質によるところが多かった。霊と交信のできる霊媒の体質でなくてはならない。膨大な霊力も必要だ。普通の術士では霊力の消耗が激しすぎて、逆に体を乗っ取られかねない。そもそも素質のある者自体が少ないのである。
李玄は幼い頃から忌み子と呼ばれ続け、孤独な少年時代を過ごしてきた。
李玄は我に返ると、鳳仙を見た。この娘はじっと李玄を見つめている。
「皇家はなんと言ってる。父上を殺してでも連れて来いと?」
「当然だろう。皇兄を殺して蓄電してしまったのだからな」
「だから使い手のお前と羌櫂が選ばれたのか?」
李玄は身を引いた。鳳仙の大きな目が、急に険しくなって迫ってきたからだ。
鳳仙は李玄の目前に顔を立て、
「忘れるな。汪豹どのは私にとっても師に当たるのだ。汪豹殿が死ねばいいなどとは、里の者も思っておらぬ――皇兄を殺したのが、汪豹殿などと……間違いであればよかったのだが」
李玄は黙りこんだ。
汪豹は自分と鉄斎すら、殺しにかかったのだ。
「李玄、我々も困り果てている。汪豹どのが出廷せぬのなら、王宮での嫌疑を自ら認めたことになるのだぞ」
鳳仙は苦渋に目を曇らせる。李玄がはじめてみる、感情をのせた顔だった。
李玄は恥じ入るようにうつむいた。師匠以外で汪豹の味方についてくれる者が、他にいるとは思わなかった。
――よい娘ではありませぬか
デュナンがとりなすように言ったが、李玄は答えず、
「羌櫂殿と話してみよう。父上をどう思っているのか、確かめておきたい」
鳳仙はうなずいた。李玄はハッと黙り込んだ。朱仙が音もなく現れたからである。鳳仙も驚いて振り向いた。
『五体を天地に溶かす法』を用いたのだろうが、鳳仙の背後をとるとは、この朱仙も相当の使い手だった。
「朱仙叔父……」
と李玄は言った。信頼できる叔父の顔を見て、李玄は心の緊張が保てなくなった。
父親に殺され掛かったという事実よりも、父親にすら否定されたような気がして、そのことの方が辛く感じた。
李玄は拳を突き下ろすような格好をしたまま、とぼとぼと涙をこぼした。
朱仙は李玄の肩を叩くと、そのまま抱くようにして神社のほうへ連れて行った。鳳仙も無言で後に続いた。
5
司馬一族が暮らす山里は、里名すら伝わっていない。一族の霊力で隠されているために、場所は皇帝ですら知らないとされている。
そもそも本界でも目にすることの少ない司馬の術者が、四人も別界にそろうのは、珍妙なことだった
司馬の里の者は老若をたがわず霊術者である。子供の頃から霊力を練り続けるため、特異な体質者が多かった。
その霊術の内容も謎に包まれている。学術的にまとめた者がいないため、まとまった名称も存在しない。各家で術名も微妙に食い違い、里の者でもその全体像を把握する者は少なかった。
練り上げた霊力は様々なものに応用されるが、内容は、『外界術』と『内界術』に大別されている。
外界術は『五大元素と霊力を結びつける法』とも呼ばれている。内界の霊力を外界と結びつける、とも表現する。
内界術は『五体を霊力で高める法(五感を霊力で高める法をふくむ)』のことである。内界の霊力で五体を練り上げろ、と教わることが多い。
術の応用はほとんど無限だが、李玄はどちらも苦手で使えない。
司馬一族は独特の衣装をもちいるが、その色は白を基調に各家で装飾色が決まっている。李玄と朱仙は赤だし、宗家の鳳仙は紫、羌櫂は青。
装束には霊力がこもるとされるが、確かに丈夫で汚れにも強かった。
鉄斎はまだ目覚めていない。
李玄は、これまでの経緯を、羌櫂らに語らねばならなかった。
羌櫂は目つきの鋭い男である。李玄は、この男が、幼少のころから苦手だった。天才であることは疑いないが、自分の術を研くことにしか興味がなく、その分他人に冷たい男だ。今も、汪豹が皇兄殺害の下手人であると決めてかかっていた。
「だから、浮幽士などを宮廷にだすべきではなかったのだ。禁術となって以来、里の者でも術の実体を知らぬ。得体のしれぬ術をあつかう者が、不安定におちいるのは当然ではないか!」
「ちがう、父上ははめられたのだ」
「ならば、なぜお主を攻撃する。師である鉄斎殿を殺そうとしたのはなぜだ? 申し開きができぬのであれば、汪豹は我々の手で殺さねばならん。奴を殺したとて、皇家の怒りはおさまらぬのだぞ」
二人が言い争う間も、朱仙は腕を組んで考えこんでいる。細身だった兄に比べるとずっと大柄で筋骨格もずっしりしている。広い顎を引き結ぶようにして唸り声を上げた。
「殺すなどと、それでは皇兄殺しが、汪豹殿の仕業と認めたようなものではありませぬか」鳳仙が珍しく声を荒げる。「今なら、汪豹殿は、下手人の一人にすぎませぬ」
「父は裁判にかけられるのか」
李玄の声は重く沈んだ。深海のような悲しみが、押しつぶしていた。肩が下がり、背が丸まる。そんなふうにしていると彼は十五才の若者から一挙に老人になってしまったようだった。
デュナンがそっと手を添えて、注意をひいた。李玄は小さくうなずいた。
羌櫂はそんな李玄を横目に見ながら、
「もはや事実がどうのという話ではない。刻限は三月、もう二ヶ月が過ぎた。大臣どもは司馬の里を襲う覚悟を固めていると聞く。無実ならば宮廷に出向き、申し開きをしなければならん」と言ってから、李玄を睨み、「里の者はお前を連れて行ったこと自体を、疑問視している」
李玄は悔しさに顔を赤らめ、頬の肉を噛んだ。霊力者として半人前なのは、自分でもよくわかっていた。なにせ霊術がほとんど使えないのだ。霊力をいまだに制御しきれない。
霊媒の体質者は外界の影響を受けやすく、霊力のコントロールも不安定になってしまう。この体質を忌み嫌うものが多いのは、精神的に不安定な者が多いからだった。羌櫂が李玄親子を嫌うのは、なにも宮廷術師の地位を逃したからばかりではない。
「今はそんなことを申している場合ではあるまい」と朱仙がとりなす。「しかし、兄上が大人しく捕につかぬとなれば厄介だ。我々だけでは抑えられんぞ」
と眠る鉄斎を見つめる。
「汪豹殿は本当に反瀏組織とつながっているのでしょうか」
と鳳仙が訊いた。
「それはあるまい」と朱仙が答えた。「ならばなぜ反瀏組織に合流せず別界になど逃げたのだ」
だけど、皇兄を殺したのでないならば、別界に来る必要もなかったはずだ――その思いがまた李玄の胸を締め付ける。
司馬の里では、親が我が子を教えることを禁じている。だから、李玄の稽古は鉄斎が行ってきた。
父の記憶はわずかだった。逆にそのことが汪豹の存在を大きくしていた。宮廷術師となった父親のことが誇りであり支えだった。忌み子と呼ばれても耐えられたのは、この体質すら父とのつながりのように思えたからだ。
朱仙は李玄の思いをくみ取るように、「反瀏組織が暗殺するならば瀏帝のはず。なぜ皇兄の玄武を?」
一同は答えあぐねて沈黙する。
「鉄斎殿はいかほどで回復する」
羌櫂が言った。
朱仙が、「ここは下位世界だから霊力が薄い。早くとも三日はかかろう」
「それでは遅い。そうしている間にも、都では里への軍隊を差し向けているかもしれん」羌櫂は鼻から大きく息をつくと、鉄斎のことを顧みる。「司馬一族の手で汪豹を捕らえろというのは、瀏帝の温情に他ならん。が、鉄斎殿が亡くなれば、その温情も失せよう」
「そんな言い方は……」
「李玄、今は一族存亡の危機であることを忘れるな」
と羌櫂。里に残っていただけに現状がわかるのだろう。鳳仙と朱仙は同意するようにうなずいた。
「汪豹が戦いを望むのなら仕方あるまい。奴を封じて都に護送する他ない」
羌櫂が内心の焦りを隠すように手を組んだ。汪豹ほどの術者を生かしたまま捕らえるなど不可能に近い。
――司馬殿
とデュナンが言った。
李玄も顔を上げてお堂の外に目線を向けた。何者かが結界をやぶるのを感じたのだ。三人の術者も異変を感じたらしかった。
鳳仙がすぐさま鉄斎に飛びついた。
羌櫂が膝をたてつつ、霊剣を手元に引きつける。
「汪豹か」
6
李玄は自分も立ち上がりながら、
「馬鹿な、父上のはずがない。師匠と戦ったばかりじゃないか。こんなに早く回復できるはずがない」
だが、汪豹の存在はどんどん近づいてくる。
「李玄。お主、汪豹が動けぬことを黙っていたな」
羌櫂は責めるような口調ではなかった。そのことが李玄は恐ろしかった。戦う覚悟を決めたとわかったからだ。
「別界の者に、鉄斎殿の結界はやぶれん」
と朱仙も霊符を取り出し、準備を始めた。
朱仙叔父、と李玄は朱仙の袖を掴んだ。「あれは父上じゃない。きっと何者かに操られているんだ」
「だとしても、我々を襲ってくることに変わりはない」
鳳仙はすでに鉄斎の体に帯を回している。
朱仙は李玄の肩を叩き、「二人を連れて逃げろ。兄上のことは我々で食い止める」
李玄はさらに袖を引いた。叔父のことが本気で心配だった。里中から嫌われた自分を、この叔父だけはかばってくれたからだ。
「朱仙叔父は父上を殺す気がないんだろ?」と言う。「でも、父上は二人を殺そうとするかもしれない」
羌櫂が、
「かもしれん。だが、手を合わせれば、汪豹の身に何が起こったのかわかるはずだ」と口をはさんで、表に向かいだした。「お主の父が普通でないことは、すでにわかったはずだ。お主も身が危うくなれば、迷うことなく奴を殺せ。それができぬのならば逃げろ」
李玄の背中に何かが乗った。朱仙が鉄斎の体をかぶせているのだ。朱仙は耳を近づけると、
「鉄斎殿が目を覚まさぬのはおかしい。何か術を施されているのかもしれん」
「なんの術を?」
「わからん。新術かもしれんぞ」
でなければ、羌櫂や朱仙が見抜けぬはずはない。
李玄は顔を上げる。鳳仙が彼の手をとったからだ。
「もう行くぞ、李玄。大勢いても逃げにくくなるだけだ」
「俺は足手まといにはならない」
と意地を張ったが、
「誰もそんなことは言っていない。だが、お主は汪豹どのを攻撃できまい。覚悟がきまらんのなら、この場は去ることだ」
鳳仙の言葉が、甘言のように身を揺らした。確かに父親には会いたくない。殺され掛かったのは今朝のことなのだ。
朱仙はさっと身を寄せて、
「羌櫂は里の者が言うような男ではない。案ずるな」
とはいえ、李玄はちっとも安心できない。朱仙は励ますように肩を抱き、
「必ず後から追いかける。鉄斎殿を安全なところにお連れし、霊力の回復を待て」
李玄はうなずいた。彼に逃亡を決意させたのは、背中におった鉄斎だった。
この世で一番偉いと思っていた師匠が、五体の力を抜かしてしなだれかかっている。
朱仙が李玄の頬を、いかつい大きな手ではさんだ。李玄は嫌がった。が、ふいに幼子に戻ったような気がする。朱仙は力強い声で言った。
「お主は忌み子などではない。里の者もきっといつかはわかってくれる。お前は――お前はいずれ立派な奴になる。俺は信じているぞ」
李玄の鼻がふいにふくらんだ。幼児から彼の面倒を見てくれた叔父の腕を、無数に思い出すようだった。彼は鳳仙に見られているのもかまわず大声を上げた。
「朱仙叔父、俺朱仙叔父に感謝してるよ。朱仙叔父がいてくれたから、俺は……」
朱仙はふいに涙をうかして、顔をそむけた。
「もう行け、李玄」
李玄は鳳仙を連れて板敷きに出た。廊下を走り、端にある引き戸を開けると、斜面に伸びる竹林が目に入る。
実のところ、李玄は汪豹が怖かった。自分に向けた殺意は本物だ。彼にとっては霊術を使っての実戦も初めてだし、他人に殺され掛かったのもあれが初めてのことだ。
これまで平和な里の中にいて、普通に修行をして普通に暮らすことしか考えていなかった。
なによりも、彼は、自分が明確な殺意を抱く最初の人間が、尊敬していた父親だとは、思いもしなかったのである。
李玄はその思いを振り払うように頭を振った。
ちくしょう、あんなの父上であるもんか。
「デュナン」と彼は背後をついてくる契約霊に声をかける。「お前はここに残って三人の様子を確かめてくれ。頼めるか?」
デュナンは一瞬迷う顔を見せたが、わずかにうなずくと廊下を引き返した。
鳳仙、と彼は境内を見つめる鳳仙に声をかけた。
「下に別界の町がある。そこに逃げこもう」
鳳仙は無言でうなずいた。落ち着き払ってはいたが、いくぶん顔が青いようにも見える。いくら天才でも、実戦ははじめてのはずだ。李玄はそのことにいくらか安堵しながら、疲れた体を引きずり、鳳仙をつれ、竹林へと逃げこんだ。
7
朱仙は、三人の後ろ姿を見送ると、表に出た。
羌櫂は、霊力を四方に伸ばして、汪豹の探索を行っている。
殺意をこれだけ感じているのに、境内は不思議と静かである。
見つかったか、と訊くと、左右に首を振った。気配をこれだけ感じるのに、姿が見えない。
兄上は鉄斎を追ったのではないか、と朱仙が疑ったとき、左方の空中に黒点が浮かび上がる。点は水平の線になり、その線はグルリと回転して、軌跡は巨大な円になった。
高い金属音が轟き、二人は思わず耳を押さえる。
漆黒の円内に、複雑な文様が、黒い飛沫をあげて走りだす。見たこともない法陣だ。
おどろおどろしい瘴気を吹き上げ、黒い物質がポタポタと血雫のように地面に落ちた。
「なんだあれは?」
羌櫂が地面に突き刺した剣を抜いた。片足をじんわりと踏み出して気息を整える。腰をわずかに落とし、呼吸を練りだしたのだが、そのときになって体内の異変に気がついた。霊力を練るほどに、体力が減っていく。細胞中から力が抜けていくようだ。鉄斎の回復のために、霊力を半分方つかっていた彼は、
「まずいぞ朱仙」と言った。
渾身をとりまく悪配に心音を狂わせていたのは、朱仙も同じである。このときになっても実兄と戦う勇気がわかない。彼は身を守るようにして金剛杖をささげながら、必死に頭を巡らした。
――あの法陣、あれは司馬一族の術ではない。
法陣の中央が膨れあがり、ぐんと黒液が突き出てくる。何者かが内側から腕を突きだしているのだ。
羊膜を突き破るようにして、法陣は左右に割れた。空を駆けるようにして地に降り立ったのは、汪豹だった。
「兄上……」
朱仙は李玄の話を聞いた後も、兄の変質を信じることができなかった。あれだけの術者が精神を乗っ取られるなどありえないと思ったのだ。けれど、本当だった。
姿こそ汪豹だが、面構えは似ても似つかず、肝心の霊力の質が違う。
今にして思うと、兄は優しいだけでなく、どこかしら気品を感じさせる男だった。目前の汪豹は、いかにも残酷で……それに粗野だった。体外にもれでる霊気が乱雑なのである。それは羌櫂も一目で見取ったらしく、
「何者か知らんが、汪豹の体を返してもらおうか」
汪豹は口端を上げる。冷酷さが笑みの形で、その顔に刻まれている。
朱仙はようやく金剛杖をかまえた。
汪豹が言った。「ここは霊力の薄い別界だ。貴様らでは力を発揮できんぞ」
「それは貴様も同じのはず」
と羌櫂は答えた。
朱仙の疑念は尽きなかった。汪豹は激しい霊術合戦を繰り広げたと聞く。なのにこの力の充実はどうしたことだろう? 鉄斎の結界は消えていないのに?、
朱仙は背後に向けて、
「デュナン! 側にいるなら聞いておけ! これは皇家の秘術だ!」
朱仙は危険を承知で振り向いた。汪豹はその機を逃さなかった。獣が地上より伸び上がるようにして、懐に飛び込んできた。
朱仙は気配を頼りに、金剛杖を立てた。
霊力で固めた汪豹の手刀は、鉄の杖をど真ん中で両断する。
汪豹の指先は、朱仙の臍の真上に突き刺さる。
朱仙は霊力を集中して防ごうとしたが、汪豹の火のような霊力はたちまち皮肉をつらぬいた。
朱仙は体をくの字に折った。内臓を引き裂かれ、人血がたちまち衣服を濡らしていく。背骨を断ち斬られると、朱仙は下半身の力がどっと抜けるのを感じた。
汪豹は朱仙の巨体を引きずりながら、なおも前進する。朱仙は兄の二の腕をがっとつかんだ。
「兄上……」
「貴様の兄などと虫酸が走るわ」
汪豹は歯を剥き出し、朱仙の体内で拳を固めた。
朱仙は渾身の霊力を腹部に集めていたというのに、まるでふせぐことができなかった。
臓腑は焼け、その苦しみに朱仙は絶叫した。
「朱仙!」
羌櫂が駆けつけたときには、汪豹はたちまち姿をくらましていた。
羌櫂は剣を下段に下げながら、顔をレーダーのようにして左右に振る。
汪豹はいつの間に移動したのか、階段に立っていた。霊力で五体を高めたのでも、天地に姿をくらましたのでもない。空間を瞬時に移動したとしか思えない。
――司馬一族の術ではない。
羌櫂は、朱仙の言葉の意味を知った。
「おのれ、汪豹! 気を違えたか!」
羌櫂は剣で宙を斬った。彼の剣風は霊気のかまいたちとなって、汪豹に迫ったが、その目前にして霧散してしまう。
羌櫂は思った。外界術はまずい、霊力を消耗しすぎる。
さほど戦ってもいないのに、すでに肩で息をしている。
首を巡らすと、境内にはいつのまにか結界が張り巡らされていた。
濃い茶色の円陣が幾重にも走り、古代文字が蜘蛛の巣のようにその円陣をつないでいる。
これでは逃げられない。
羌櫂は観念した。朱仙に屈みこみ、手をかざした。霊力で傷を回復しようとしたのだが、霊力自体が朱仙にいかない。
朱仙が彼の腕をつかみ、羌櫂は我に返る。
「奴の言うとおり、ここは別界だ。むだな霊力を使うな」
「ならば、なぜやつはあれほどの霊術を駆使できる」
羌櫂はかえりみ気がついた。汪豹の手には、いつ取り出したのか、拳大の水晶が握られている。
「あの霊玉はなんだ? あれに霊力を溜めこんでいるのか?」
羌櫂は足元の法陣を見やる。どうやら、あれが霊力を吸い取っているようだ。鉄斎の霊力が回復しなかったのは、そのせいかもしれない。汪豹がなんらかの術を施していたとしか思えなかった。あそこまで霊力を注ぎ込めば、全快とまではいかずとも、目を覚ましたはずである。
羌櫂はなかば呆然としながらもフラフラと立ち上がる。そのとき朱仙が霊力をつかい語りかけてきた。
――李玄だ。膨大な霊力をもつ奴ならば、この別界でも戦えるはずだ。
「ばかな、奴は半人前ではないか」
羌櫂が答えた時には、朱仙は苦しい身をおこしていた。背骨がへしおれているというのに、この男もすさまじい精神力である。朱仙は手印をくむと、残った霊力をふりしぼり結界の一部をこじ開ける。李玄の契約霊が結界に閉じこめられたと見取ってのことだった。
「逃げろ、デュナン」
朱仙は地に頭を落とした。残された霊力がぐんぐんと結界へと吸い取られていく。朱仙は傷を回復させることができない。
李玄……と朱仙は思う。子供のない朱仙にとって、息子のような存在だった。李玄はどんなに苦しくとも、自分の前では明るく振る舞う少年だった。何よりも無償で愛してくれた。
李玄が実の父親に殺される姿など見たくもない。
朱仙の指はまだ戦おうとしているのか、無意識のうちに金剛杖をさぐっていた。
李玄、お前は死ぬな、本界に戻るんだ、と思いながら、朱仙は意識を無くしていった。
8
鐘をつくような音が幾つもする。体の芯に響いてくるようだ。
鉄工所が一部で操業をしているのだが、李玄も鳳仙もそこがなんの施設なのかわからなかった。巨大で複雑だったから、身を隠すのに都合がよいように思えたのだ。鉄斎の回復をはかるのなら、霊力の強い場所にうつるべきだったが、それでは簡単に見つかってしまう。
李玄はデュナンから全ての話を聞いた。デュナンを取り憑かせると太守神社に戻ったが、山は崩れ、建物も全壊した後である。三人の姿は跡形もなく別界の人間が集まっていた。もうなんの結界も残っていないのだ。本界に戻るすべも無くしてしまった。李玄はそのことを鳳仙に報告するのを恐れ、工場の中庭に腰をおろして時間を過ごしていた。中庭には樹が一本だけ立っており、その根本には大きな石が鎮座していた。彼はその石に座っている。あぐらを組んで、膝にに腕を垂らす。悲しみが天から降るようだ。彼は置物のように微動だにしなかったが、やがてポトリと涙が落ちた。デュナンがいたわるように側に来た。
「俺は臆病者だ。朱仙叔父を見捨ててしまったんだ」
開いたままの目から、涙があふれる。自分が落ちこぼれだとは知っている。問題は自信のなさが、あの一瞬、彼を臆病者にしてしまったことだ。神社から逃げ出したのは、父と向き合う勇気がわかなかったからだ。鳳仙を守るとか、鉄斎を守るとか、そんなことは二の次だったのだ。そのことが自分でもよくわかっていたから、涙が出た。
いい加減な男で、修行をさぼってきたのなら諦めもつくかもしれない。けれど一生懸命やってきたのである。人一倍稽古に打ちこんだのに、うまくできかなかった。李玄はほとほと情けなくて泣けてきた。
「そんなことを申されるな」
デュナンが肩に触れる。霊体ゆえに、その手は冷たい。なのに李玄は心が温かくなるのを感じた。デュナンの心情にふれたからのようだった。李玄はむしろ申し訳なく、首を垂れたのだった。
なんだか一人になったようだった。李玄の家系は血が弱いのか、血縁者は朱仙と汪豹しかいなかった。そのどちらともが自分の元を去ってしまった。李玄はなんとはなしにもう朱仙には会えないと思っていた。李玄とて霊術使いの端くれだから、叔父の霊力を感じないことはわかっていた。
朱仙叔父。そう思うと、李玄は嗚咽すら漏らして泣いた。あの叔父だけは、忌み子と呼ばれた自分を手放しでかわいがってくれた。なのに自分は叔父の手助けもせずにむざむざと死なせてしまったのだ。
「俺は朱仙叔父の仇が討ちたい。でもその仇が父親だなんて……デュナン、俺はどうすればいい」
デュナンにはなんとも言えない。
「司馬殿、あのとき朱仙殿は汪豹殿の術を皇家の秘術と申されました」
「ああ、父上は皇家の秘術を狙ったとの疑いも出ている」
と涙を拭いた。
「それはそうかもしれませぬ。ですが、既知の事実なら、朱仙殿はわざわざ拙者に叫ばれますまい」
李玄はどういうことだ、と訊いた。デュナンは視線をそらすように遠くを見た。
「ともあれ、鉄斎殿の回復を待ちましょう。あの方ならば何事かわかるやもしれませぬ」
ああ、と返事をして、李玄は力なく立ち上がった。寄る辺のない子供のような気持ちだった。
9
李玄は鳳仙に全てを話した。途中で鉄斎がようやっと目を覚ました。ともあれ、太守神社には別界の人間が大勢駆けつけており彼らは近づくことも出来ない。三人は救援を求めることもできず、自分たちだけで汪豹に立ち向かわなくてはならなくなったのである。
そこは工場の一室である。鳳仙は結界を張り、別界の人間からは部屋の存在自体を眩ましている。
「朱仙は皇家の術だと言ったのだな」
と鉄斎が言った。彼は横たわったままである。鳳仙が、汪豹殿はやはり秘術を盗むために玄武を殺したのですか、と訊いた。
「正確なところはわからん」鉄斎は疲れたように吐息する。「汪豹を支配している者は、おそらく皇兄玄武」
「玄武? 皇兄を殺して契約霊としたのですか?」
と鳳仙が身を乗り出す。李玄と鳳仙は両側から鉄斎をはさんでいる。鉄斎は李玄の方を向いて、
「李玄、わしの身をおこせ」
李玄と鳳仙は言われるがままに、鉄斎の体を起こして、霊衣をまくりあげる。すると鉄斎の背中、肩甲骨の合間に法陣が描かれているのが見えた。朱仙らが目にしたのと同質の物である。
「これが霊力を吸い取っているのですか?」
と鳳仙。鉄斎はいかにもとうなずく。額には脂汗がにじんでいる。鳳仙は服を元に戻し、そっと寝かしつけると、鉄斎の襟元をていねいに整えだした。
李玄はデュナンが見た物を正確に鉄斎に伝えた。
「朱仙と羌櫂はわしに治療をほどこしたのだろう。霊力が半減したまま奴と戦うことになった。対して玄武は二人の霊力をすら吸い取ってしまったのだ。わしの霊力も今もって奪われているようだ」
李玄はぎゅっと膝頭をつかんだ。そんなやつとどう戦えばいいんだ?
敵が実際には父ではないと知って、李玄は少しほっとした。鳳仙も同じのようだった。むしろ玄武の存在やそのやり口を知って、憎むところが大きかった。汪豹の体を乗っ取っただけでも許せないのに、他人の霊力を奪うやり方が姑息な気がしたのだ。
李玄は我にかえって鉄斎を見おろした。鉄斎はふだんは飄々としたところのある老人だったが、今はきまじめな顔をして自分を見上げていたからである。
「二人とも心して聞くがいい」とおもむろに口を切った。「わしはじきに死ぬ。そうなればお主らは二人だけで汪豹と対さねばならん」
「禁縛術をとくことは出来ないのですか?」
と鳳仙は言ったが、誰が聞いても無理な相談だった。鉄斎の霊力はすでに尽きかかっているのである。
鉄斎は諦めたように首を戻した。別界の無機質な天蓋が見えた。李玄同様、彼もこの世界になじめぬようだった。
「本界との入り口は閉ざされてしまった。奴に対する方法はもはや一つしかない」
と鉄斎は言った。いやに光る目で、李玄の目を覗きこんだ。李玄はつい視線をそらしたくなったが、できなかった。師匠がこんな目をしたときは、ろくなことを言わないとわかっていたのだが。
果たして鉄斎の依頼は途方もなかった。
「わしを契約霊にしろ。死んだ直後に契約を結ぶのだ」と言ったのだ。
「そんなの無理だ」李玄は思わず腰を浮かした。「師匠は忘れてる――」
鉄斎は李玄の声をさえぎる。「たしかに契約霊とできるのはこの世に残る霊魂のみだ。が、力ある術者を殺し、その御魂を次々と契約霊としたものがいた。死んだ直後ならば、肉体と霊魂は結びついたままなのだ。そのときに契約を結ぶ方法がある」
「師匠は知っているのですか?」
鉄斎はうなずいた。「あの者が使った術式は伝わっておらぬ。が、その術理は想像出来ている。それを教えよう」
「では、汪豹殿は……」鳳仙の声が高くなる。信じたくないという響きが声音にまで現れた。「その方法を知っていたのですか? その術をつかって、玄武様を……」
「とも思えんのだ」と鉄斎は気遣うように李玄を見やる。目線を天井に戻し、「それではなぜ汪豹ほどの術者が体を乗っ取られたのか説明がつかん。たしかに玄武は相当な術者とみえる。これまでそのことを隠してきたやり口を見てもな。宮廷にいたころのわしには見抜くことができなんだ」それほどの男が大人しく契約霊になったとは思えなかったのだ。「奴には何か秘密がある。あれほどの法術をどうやって得たのかもふくめてだ」
そんな、と李玄は首を垂れて涙ぐむ。「師匠まで死ぬなんて、俺には我慢できません」
「しっかりせぬか」鉄斎が声を励まし、叱りつけた。「汪豹を救えるのはお主らだけだ。わしが回復したところで、やつにはかなわん」
李玄は信じられなくて、首を振った。鉄斎は都でも尊敬された霊力使いなのだ。鉄斎はこんこんとかき口説いた。霊媒体質で、外界の霊力を取りこみやすい李玄の体を借りれば互角の戦いができるかもしれないと言うのである。
「奴は司馬一族の術を使ううえに、皇家の秘術も体得している。どんな手を使ってくるかわからん。体のことはデュナンに任せて、お主は霊術に専念するのだ」
鳳仙が話を割って、「しかし、李玄は霊術を使えません」
鉄斎はかすかに首をふる。肉体の動きは弱々しかったが、その声は霊力をふりしぼり、二人の胸によく響いた。
「使えるのだ。デュナンに体を任せれば、霊術のみに専念することができるからだ」
鳳仙は得心してうなずいた。だから、鉄斎は李玄に禁術を教えこんだのだ。長老達に知られれば、鉄斎といえば里を追われかねない。しかし、鉄斎も鳳仙に告げなかったことがある。デュナンの力を借りても、李玄が使えたのは霊術の初歩に過ぎないのである。李玄はそのことを思うと恐ろしくなった。幼児と変わらぬほどのつたない術で玄武と戦えるとは思えない。自分が死ぬならまだいいが、鉄斎の師を無駄にして、鳳仙もまた危険にさらすのだろうか?
昔から、何をやっても足手まといの自分がいた。でも、今は子供の遊びをやっているわけではない。生死のやりとりの現場でも、昔と変わらないのだろうか?
しかし、鉄斎には、自らを契約霊とすることに、あと一つ考えがあった。自分が体内から霊力を操れば、李玄にも体得できるはずだった。霊媒体質で、そのために霊力が膨大なものとなる体質にこそ、李玄の霊術を難しくしている要因があるのだから。訓練としてはこれ以上のものはないはずだった。李玄は黙り込んだ。
「だけど、師父は忘れています」
と鳳仙が口を挟んだ。浮幽士の術がすべからく禁術となったのは、契約霊とされた者たちが、成仏できずに曲霊(まがつひ)と化したからだった。あのときは、里の者も滅却をする他なかったと聞く。
「曲霊となる前に契約をとくのだ。その間に玄武を倒すための結界術をほどこす。李玄、お主はわしの霊術を体を通して体得しろ。後は、玄武をおびき寄せればよい」
「玄武は来ますか?」
「わしが死んだとわかれば喜んで来よう」
鳳仙はここまで「天地に身を眩ます法」を用いて逃げてきた。いかな玄武といえど、いまだ彼らの居所はつかめていないはずである。
「問題はやつの禁縛術よ。李玄の霊力まで奪い取られては手に負えん。二人で力を合わせて戦うのだ」
鳳仙はさすがに揺れる面持ちで頷いた。
「お主は外に出ておれ。……これから李玄に契約術を教える」
10
鳳仙を外に出したのは、浮幽術との関わりを持たせぬための配慮だった。
「我々で玄武を仕留めるのだ。鳳仙も腕は立つ。しかし、実戦にはなれてはおらん」
「でも、師匠。俺では足手まといにしかなりません」
「そういうな」と鉄斎は嘆息した。白髪がかすかに揺れた。「お主にはすまぬことをした。浮幽士の術を会得していたとなれば、お主はもう司馬の里に入られぬかもしれん」
「師匠」と李玄は鼻を赤くしてうつむいた。「いいんです。俺、納得して修行したし、霊術がちょっとでも使えたときはすごく嬉しかった。師匠には感謝してます」
鉄斎はうなずく。「三人で力を合わせて玄武を倒すんじゃ。デュナンはいるか」
「側に」
「わしも霊魂の仲間いりじゃな」
「師匠」
鉄斎は首をわずかに傾けて李玄をみた。「お主は素直でいいやつだ。術に長けるよりもずっと大切なことだ。自分の特質を見失うな。鳳仙を守ってやれ」
「霊術はあいつのほうがうまいのに。俺じゃああいつに守られてしまいますよ」
鉄斎は李玄の二の腕を叩いて注意を引いた。
「お主は他人に劣ってなどいない。大成するのに時間のかかる者もいる。成長は人それぞれなのだ。だが、お主が懸命に努力しておったことをわしは知っておる。これまでめげずによくやったのう」
「師匠……」
李玄は顔をおおってめそめそと泣いた。師匠は彼を叱らなかった。
「お主達を残して死ぬのは残念だ。が、里のために、身を捨てる覚悟はできている。汪豹を捕らえた後は奴を本界に連れて帰れ。里を救え」
李玄はこくりとうなずいた。
「司馬どの、司馬どの……」
自らの口が、自らの名を呼んでいる……。
森の景色が目に飛びこんできた。その景色は急速に後ろへ流れていた。
ほんの寸前まで気絶していたというのに、李玄の渾身は猛烈に動いて鞭のように地を蹴っている。
「デュナンか?」
と李玄は自らの口をつかい呼びかける。
契約霊のデュナンが李玄の体を借りて、汪豹のこもる洞穴から命からがら逃げ出してきたところだった。
デュナンは気絶した鉄斎をしっかりと背負ってきたようだ。
いつものことだが、デュナンが入ると、李玄は金縛りにあったように感じる。
彼は遮断された目玉に意識をつなげて、ギョロギョロと動かし周囲を見た。
「デュナン、ここはどこだ?」
「まだ後山を出ておりませぬ。早くこの場を離れねば」
とすると、気絶してさほど経っていないようだった。デュナンは口を使わずとも李玄と意志を通じ合わすことが出来た(一つの体を共有しているのだから当然だが)。が、利口な彼は司馬の意識を保つために体を使うことに決めたようだ。
李玄は鉄斎の体が重く背にのしかかるのを感じた。霊力のほとんどを使い果たし、仮死状態とかしている。ときおり鉄斎の体を揺すって名を呼んだ。
「師匠、死んだらだめだ。一緒に本界に帰るんだ」
李玄は、父上を連れて、という言葉を飲みこむ。
その父が、息子の李玄と、師である鉄斎を迷いもなく殺そうとしたのだ。
5年ぶりにあった父親に殺され掛かったことで、李玄の心は深く傷ついていた。
膨大な霊力をもつ李玄の体は、汪豹(おうひょう)に受けた裂傷もどんどん回復していった。攻撃は師匠以上に喰らったが、見た目ほどの重傷ではない。
今は鉄斎が死んでしまわないか心配だった。八十才を越える五体はなんとも軽い。
一方、汪豹は40代の壮年である。正面から戦うこと自体に無理があったのだ。鉄斎は、口ではなんと言おうと弟子を殺すつもりなど、なかったのだから。
「ちくしょう、俺に霊術が使えたら」
「そう申しますな。あの場から逃げられたのは、司馬殿なればこそですぞ」
「お前のおかげだよ、デュナン……」
李玄は背後に首を回す。デュナンは霊体だから、首が後ろを向こうが、視界に支障はない。
後山は、三人の霊力合戦で、地形まで変わり果てている。別界の住人がくれば、すぐに騒ぎになるだろう。
「デュナン、父上はどうした?」
と李玄は言った。今は体が一人でに走るのに身を任せている。
「デュナン、きかせてくれ。お前は父上を殺したのか?」
「霊術使いを剣で倒せとは、奇っ怪な……」
とデュナンは言った。だが、李玄が意識を失う寸前、鉄斎は霊術を仕掛けていたはずである。岩石の牢獄に汪豹を閉じこめたのだ。霊力を喪失した鉄斎が、汪豹の手を逃れることができたのは、汪豹もまた動けぬ身であったからだった。
「司馬殿は父上の死を望んでおられない。だから拙者は逃げ申した」
「ありがとう……デュナン」
と言ったきり、李玄は疲れ果て、再び意識を無くした。デュナンは鉄斎を(正確には李玄をも)連れて、後山を後にした。
2
司馬鳳仙は、山麓のなかほどにある神社の境内で、司馬李玄の帰りを待っていた。
別界(司馬らのいる本界の下位世界。呼び名は通称である)についたのは二日前だが、李玄と鉄斎には会えぬままだ。
李玄たちがねぐらとしているのは、太守神社という小さな社である。
瀏帝は本界との通路を、この小さな社に築いたのだ。
過去には別界と本界は自由に行き来をしていた。が、現在では皇家が往来を禁止して、別界に渡る術も隠匿している。
とはいえ、犯人捕縛に協力してはいる。司馬一族の者が兄を殺した後も、瀏帝は養育掛かりであった鉄斎を信頼しているようだ。
鳳仙は霊力を視覚と結びつけて下界の様子を探っていた。
「五体を霊力と結びつける法」とも内界術とも呼ばれている。
神社から眼下の道路に続く石段を李玄がのぼってくるのが見えた。どうやら鉄斎を背負っているようだ。
また無茶をしでかしたらしい。
鳳仙は吐息をつくと、階段を下りていった。
3
「何者だ!」と李玄が階上にたつ鳳仙に目を止めて言った。が、すぐに鳳仙の装束に気がついたようだ。「本界の者か? そこで何をしている?」
鳳仙は顔をしかめた。親しくはないが、顔見知りのはずである。
「そうか、貴様デュナンとかいう契約霊だな」
と鳳仙は言った。李玄がうなずいた。
よく見ると、その目は青みがかっている。肌も白いようである。
鳳仙は契約霊がつくと、浮幽士の体に若干の変化が起こるという話を思い出した。
「司馬殿は眠っておられる」
「眠っているだと? 契約霊を取り憑かせたままでか」
そんなことをすれば、体を乗っ取られてもおかしくはない。
鳳仙は、叩き起こせ、と怒鳴った。
神社の戸が開いた。声を聞き付けて出てきたのは、朱仙と羌櫂である。ともに司馬一族の霊術使いだ。鳳仙は霊力で五体を高めると、すばやく李玄――デュナンに身を寄せて、唇を耳にそばよらせた。
「あの二人は司馬一族の者だ。しばらく李玄の振りをしろ」
と言った。
4
鉄斎は司馬一族の天才だから、たいていの者が手ほどきを受けている。
朱仙と羌櫂も弟子である。
二人は鉄斎の様子に驚いて、急いで社に運びこんだ。
李玄の目を覚まさすのなら今の内だった。鳳仙は李玄を境内の脇につれていった。ややうつむいた李玄の目が、青から黒に変わるのを見たが、表情を変えず、「戻ったか?」と鳳仙は訊いた。
「鳳仙? なぜここに?」
と李玄は目を一杯にして身をひいた。現在、別界にいる司馬一族は、自分と鉄斎だけのはずだったからだ。
デュナンはすでに体を抜け出して脇に浮いている。生前は東方の騎士だった男だ。死後も金髪碧眼の姿を保っている。鎧を着込んでいるが、それが死んだ直後の姿なのだという。
が、依り代の体質でない鳳仙には見えない。
――この娘、里で見かけましたな。
とデュナンが心に語りかけてくる。李玄は鳳仙には気づかれぬようにうなずき、
――宗家の一人娘だよ。俺は苦手だ。
と返した。李玄は分家の出だからろくに話したことがない。感情を表に出さない娘で、どこか近寄りがたかった。整った顔立ちだけに、実際の性格よりも冷たく見える。李玄よりも二つ若いが、霊術を使いこなすことに関しては天才である。
李玄は疲労が重りのようにのしかかってくるのを感じた。眠気を強く感じる。
李玄はそれを振り払って、
「皇帝一家との約定を忘れたのか? 別界に来ていいのは、師匠と俺だけのはずだぞ」
鳳仙が李玄の口をおさえて黙らせる。意外に小さな手だった。
「お主こそ自体が飲み込めていないな。約定の期限まで三月だ。もうほとんど過ぎてしまったぞ。汪豹殿をいますぐに捕らえなければ、一族がどうなるやわからんのだ」
李玄は口元の手をおしのけると、涙を隠すように頭をかいた。
司馬汪豹が皇兄の玄武を殺害したのは、半年前のことだ。
司馬一族でも飛び抜けた天才霊力者で、宮廷術士として都に召し出されていた(前任者は鉄斎)。占術の他に、宮廷の術者の育成、皇家の護衛にも携わっていた。それが、皇兄を暗殺したうえ、別界に遁走するという事件を起こしたのだから、都は天地を返す騒ぎとなった。
皇家は異能者ぞろいの司馬一族を畏れもしたし利用もしてきたが、今度ばかりはその恐れが現実となったわけである。
目撃者こそなかったが、現場には確定的な証拠がいくつも残されていた。宮廷での信任は厚かったが、都を抜けたことはいただけない。宮廷術師が無断で都を離れること自体禁じられているのである。
政府では、汪豹と反瀏組織(瀏は国家名。反政府組織のこと)との結びつきを疑っている。
鉄斎は都におもむき、汪豹の無実を主張したが、宰相たちは聞き入れない。そもそも得体のしれない霊力者自体を嫌っているのである。
司馬一族は自らの手で同胞を捕らえ、都に護送せねばならなくなった。
鳳仙はちらりと社をかえりみて、「朱仙殿と羌櫂殿も別界に来ている。声を抑えろ」
「叔父きもか?」
李玄はいくぶんほっとした。朱仙は汪豹の弟だし、鳳仙とて元々は汪豹の弟子なのだ。
長老たちが殺害の腹を決めたのかと思ったが、生きたまま捕縛することを諦めてはいないようだ。都に戻り、申し開きをすべきだと。
鳳仙は吐息をつくと、視線を有らぬ方にやった。
「――が、羌櫂殿も一緒だ。大臣たちは鉄斎殿の遅れを疑いはじめている」
「師匠まで? なぜだ?」
「反瀏組織との関わりを鉄斎殿も疑われているのだ。言いがかりだが、司馬一族自体がつながっていると、噂する者もいる」
と鳳仙は言ったが、この疑惑は以前から囁かれてもいた。
ともあれ汪豹が無実ならすぐに出廷していいはずだった。鳳仙は、
「汪豹殿に会ったのか? デュナンは戦いに敗れたと言っていたぞ」
李玄はつと目を反らしたが、
「本当だ。二人がかりだったが父上にはかなわなかった」
そもそも二人は汪豹と戦うつもりがなかった。汪豹が本当に皇兄を殺めたとは考えられなかったからだ。都でも複数の下手人が手配されていた。
汪豹が、罠にはめられた、とも考えられていたからだし、李玄はそう信じている。けれど――
汪豹はそもそも聞く耳を持たなかった。
李玄は不意打ちをくらい、危うく死にかけた。後はもう、ろくに話すことも出来ずに霊術合戦だ。
このことの意味することは何か?
李玄の心は千々に乱れた。疑惑が蛇のようにとぐろをまいて、胸の中をうねっている。
唯一の肉親が、会得した霊術で人を殺したんだろうか?
それも皇兄を殺したのか?
李玄は下を向いて吐き気に耐えた。
鳳仙は話をそらし、「ここは別界のどこにあたる」
「日本という島国だ」
と思いを断つようにして額をぬぐう。
鳳仙の後方に浮かぶ神主装束の男を顎で示し、
「そこに宮司がいる。二十年前に死んだそうだ」
李玄、と鳳仙はさらに声を低めた。『五感を霊力で高める法』を恐れてのことだ。司馬一族は、聴覚をたやすく高めるから、気が置ける。
彼女は李玄も知らぬ話を説明した。
「羌櫂殿は使い手には違いないが、汪豹殿にやぶれ宮仕えを逃した過去も持っておられる。お主ら浮幽士のことも快く思っていないのだ。霊に関することは口にするな」
李玄は少し青い顔をしてうなずいた。羌櫂が怖いというよりは、過去の迫害をまざまざと思い出してのことだった。
浮幽士の術は、浮幽霊と契約を結ぶことからはじまる。契約霊の持つ能力(デュナンであれば剣術)を五体に発現する者のことを言うのだ。
が、今となっては禁術である。
かつて浮幽士だったものが、能力の高い者を次々と殺し、契約霊にしてしまったことがあるためだ。
以来、長老たちはこの体質の者が生まれることすら嫌った。修行を積んだ浮幽士は、司馬の里でも汪豹しかいない。
李玄も表向きは浮幽士としての修行を受けていないことになっていた。デュナンという霊を従えていること自体、知る者は少ない。
そもそも、浮幽士の術は体質によるところが多かった。霊と交信のできる霊媒の体質でなくてはならない。膨大な霊力も必要だ。普通の術士では霊力の消耗が激しすぎて、逆に体を乗っ取られかねない。そもそも素質のある者自体が少ないのである。
李玄は幼い頃から忌み子と呼ばれ続け、孤独な少年時代を過ごしてきた。
李玄は我に返ると、鳳仙を見た。この娘はじっと李玄を見つめている。
「皇家はなんと言ってる。父上を殺してでも連れて来いと?」
「当然だろう。皇兄を殺して蓄電してしまったのだからな」
「だから使い手のお前と羌櫂が選ばれたのか?」
李玄は身を引いた。鳳仙の大きな目が、急に険しくなって迫ってきたからだ。
鳳仙は李玄の目前に顔を立て、
「忘れるな。汪豹どのは私にとっても師に当たるのだ。汪豹殿が死ねばいいなどとは、里の者も思っておらぬ――皇兄を殺したのが、汪豹殿などと……間違いであればよかったのだが」
李玄は黙りこんだ。
汪豹は自分と鉄斎すら、殺しにかかったのだ。
「李玄、我々も困り果てている。汪豹どのが出廷せぬのなら、王宮での嫌疑を自ら認めたことになるのだぞ」
鳳仙は苦渋に目を曇らせる。李玄がはじめてみる、感情をのせた顔だった。
李玄は恥じ入るようにうつむいた。師匠以外で汪豹の味方についてくれる者が、他にいるとは思わなかった。
――よい娘ではありませぬか
デュナンがとりなすように言ったが、李玄は答えず、
「羌櫂殿と話してみよう。父上をどう思っているのか、確かめておきたい」
鳳仙はうなずいた。李玄はハッと黙り込んだ。朱仙が音もなく現れたからである。鳳仙も驚いて振り向いた。
『五体を天地に溶かす法』を用いたのだろうが、鳳仙の背後をとるとは、この朱仙も相当の使い手だった。
「朱仙叔父……」
と李玄は言った。信頼できる叔父の顔を見て、李玄は心の緊張が保てなくなった。
父親に殺され掛かったという事実よりも、父親にすら否定されたような気がして、そのことの方が辛く感じた。
李玄は拳を突き下ろすような格好をしたまま、とぼとぼと涙をこぼした。
朱仙は李玄の肩を叩くと、そのまま抱くようにして神社のほうへ連れて行った。鳳仙も無言で後に続いた。
5
司馬一族が暮らす山里は、里名すら伝わっていない。一族の霊力で隠されているために、場所は皇帝ですら知らないとされている。
そもそも本界でも目にすることの少ない司馬の術者が、四人も別界にそろうのは、珍妙なことだった
司馬の里の者は老若をたがわず霊術者である。子供の頃から霊力を練り続けるため、特異な体質者が多かった。
その霊術の内容も謎に包まれている。学術的にまとめた者がいないため、まとまった名称も存在しない。各家で術名も微妙に食い違い、里の者でもその全体像を把握する者は少なかった。
練り上げた霊力は様々なものに応用されるが、内容は、『外界術』と『内界術』に大別されている。
外界術は『五大元素と霊力を結びつける法』とも呼ばれている。内界の霊力を外界と結びつける、とも表現する。
内界術は『五体を霊力で高める法(五感を霊力で高める法をふくむ)』のことである。内界の霊力で五体を練り上げろ、と教わることが多い。
術の応用はほとんど無限だが、李玄はどちらも苦手で使えない。
司馬一族は独特の衣装をもちいるが、その色は白を基調に各家で装飾色が決まっている。李玄と朱仙は赤だし、宗家の鳳仙は紫、羌櫂は青。
装束には霊力がこもるとされるが、確かに丈夫で汚れにも強かった。
鉄斎はまだ目覚めていない。
李玄は、これまでの経緯を、羌櫂らに語らねばならなかった。
羌櫂は目つきの鋭い男である。李玄は、この男が、幼少のころから苦手だった。天才であることは疑いないが、自分の術を研くことにしか興味がなく、その分他人に冷たい男だ。今も、汪豹が皇兄殺害の下手人であると決めてかかっていた。
「だから、浮幽士などを宮廷にだすべきではなかったのだ。禁術となって以来、里の者でも術の実体を知らぬ。得体のしれぬ術をあつかう者が、不安定におちいるのは当然ではないか!」
「ちがう、父上ははめられたのだ」
「ならば、なぜお主を攻撃する。師である鉄斎殿を殺そうとしたのはなぜだ? 申し開きができぬのであれば、汪豹は我々の手で殺さねばならん。奴を殺したとて、皇家の怒りはおさまらぬのだぞ」
二人が言い争う間も、朱仙は腕を組んで考えこんでいる。細身だった兄に比べるとずっと大柄で筋骨格もずっしりしている。広い顎を引き結ぶようにして唸り声を上げた。
「殺すなどと、それでは皇兄殺しが、汪豹殿の仕業と認めたようなものではありませぬか」鳳仙が珍しく声を荒げる。「今なら、汪豹殿は、下手人の一人にすぎませぬ」
「父は裁判にかけられるのか」
李玄の声は重く沈んだ。深海のような悲しみが、押しつぶしていた。肩が下がり、背が丸まる。そんなふうにしていると彼は十五才の若者から一挙に老人になってしまったようだった。
デュナンがそっと手を添えて、注意をひいた。李玄は小さくうなずいた。
羌櫂はそんな李玄を横目に見ながら、
「もはや事実がどうのという話ではない。刻限は三月、もう二ヶ月が過ぎた。大臣どもは司馬の里を襲う覚悟を固めていると聞く。無実ならば宮廷に出向き、申し開きをしなければならん」と言ってから、李玄を睨み、「里の者はお前を連れて行ったこと自体を、疑問視している」
李玄は悔しさに顔を赤らめ、頬の肉を噛んだ。霊力者として半人前なのは、自分でもよくわかっていた。なにせ霊術がほとんど使えないのだ。霊力をいまだに制御しきれない。
霊媒の体質者は外界の影響を受けやすく、霊力のコントロールも不安定になってしまう。この体質を忌み嫌うものが多いのは、精神的に不安定な者が多いからだった。羌櫂が李玄親子を嫌うのは、なにも宮廷術師の地位を逃したからばかりではない。
「今はそんなことを申している場合ではあるまい」と朱仙がとりなす。「しかし、兄上が大人しく捕につかぬとなれば厄介だ。我々だけでは抑えられんぞ」
と眠る鉄斎を見つめる。
「汪豹殿は本当に反瀏組織とつながっているのでしょうか」
と鳳仙が訊いた。
「それはあるまい」と朱仙が答えた。「ならばなぜ反瀏組織に合流せず別界になど逃げたのだ」
だけど、皇兄を殺したのでないならば、別界に来る必要もなかったはずだ――その思いがまた李玄の胸を締め付ける。
司馬の里では、親が我が子を教えることを禁じている。だから、李玄の稽古は鉄斎が行ってきた。
父の記憶はわずかだった。逆にそのことが汪豹の存在を大きくしていた。宮廷術師となった父親のことが誇りであり支えだった。忌み子と呼ばれても耐えられたのは、この体質すら父とのつながりのように思えたからだ。
朱仙は李玄の思いをくみ取るように、「反瀏組織が暗殺するならば瀏帝のはず。なぜ皇兄の玄武を?」
一同は答えあぐねて沈黙する。
「鉄斎殿はいかほどで回復する」
羌櫂が言った。
朱仙が、「ここは下位世界だから霊力が薄い。早くとも三日はかかろう」
「それでは遅い。そうしている間にも、都では里への軍隊を差し向けているかもしれん」羌櫂は鼻から大きく息をつくと、鉄斎のことを顧みる。「司馬一族の手で汪豹を捕らえろというのは、瀏帝の温情に他ならん。が、鉄斎殿が亡くなれば、その温情も失せよう」
「そんな言い方は……」
「李玄、今は一族存亡の危機であることを忘れるな」
と羌櫂。里に残っていただけに現状がわかるのだろう。鳳仙と朱仙は同意するようにうなずいた。
「汪豹が戦いを望むのなら仕方あるまい。奴を封じて都に護送する他ない」
羌櫂が内心の焦りを隠すように手を組んだ。汪豹ほどの術者を生かしたまま捕らえるなど不可能に近い。
――司馬殿
とデュナンが言った。
李玄も顔を上げてお堂の外に目線を向けた。何者かが結界をやぶるのを感じたのだ。三人の術者も異変を感じたらしかった。
鳳仙がすぐさま鉄斎に飛びついた。
羌櫂が膝をたてつつ、霊剣を手元に引きつける。
「汪豹か」
6
李玄は自分も立ち上がりながら、
「馬鹿な、父上のはずがない。師匠と戦ったばかりじゃないか。こんなに早く回復できるはずがない」
だが、汪豹の存在はどんどん近づいてくる。
「李玄。お主、汪豹が動けぬことを黙っていたな」
羌櫂は責めるような口調ではなかった。そのことが李玄は恐ろしかった。戦う覚悟を決めたとわかったからだ。
「別界の者に、鉄斎殿の結界はやぶれん」
と朱仙も霊符を取り出し、準備を始めた。
朱仙叔父、と李玄は朱仙の袖を掴んだ。「あれは父上じゃない。きっと何者かに操られているんだ」
「だとしても、我々を襲ってくることに変わりはない」
鳳仙はすでに鉄斎の体に帯を回している。
朱仙は李玄の肩を叩き、「二人を連れて逃げろ。兄上のことは我々で食い止める」
李玄はさらに袖を引いた。叔父のことが本気で心配だった。里中から嫌われた自分を、この叔父だけはかばってくれたからだ。
「朱仙叔父は父上を殺す気がないんだろ?」と言う。「でも、父上は二人を殺そうとするかもしれない」
羌櫂が、
「かもしれん。だが、手を合わせれば、汪豹の身に何が起こったのかわかるはずだ」と口をはさんで、表に向かいだした。「お主の父が普通でないことは、すでにわかったはずだ。お主も身が危うくなれば、迷うことなく奴を殺せ。それができぬのならば逃げろ」
李玄の背中に何かが乗った。朱仙が鉄斎の体をかぶせているのだ。朱仙は耳を近づけると、
「鉄斎殿が目を覚まさぬのはおかしい。何か術を施されているのかもしれん」
「なんの術を?」
「わからん。新術かもしれんぞ」
でなければ、羌櫂や朱仙が見抜けぬはずはない。
李玄は顔を上げる。鳳仙が彼の手をとったからだ。
「もう行くぞ、李玄。大勢いても逃げにくくなるだけだ」
「俺は足手まといにはならない」
と意地を張ったが、
「誰もそんなことは言っていない。だが、お主は汪豹どのを攻撃できまい。覚悟がきまらんのなら、この場は去ることだ」
鳳仙の言葉が、甘言のように身を揺らした。確かに父親には会いたくない。殺され掛かったのは今朝のことなのだ。
朱仙はさっと身を寄せて、
「羌櫂は里の者が言うような男ではない。案ずるな」
とはいえ、李玄はちっとも安心できない。朱仙は励ますように肩を抱き、
「必ず後から追いかける。鉄斎殿を安全なところにお連れし、霊力の回復を待て」
李玄はうなずいた。彼に逃亡を決意させたのは、背中におった鉄斎だった。
この世で一番偉いと思っていた師匠が、五体の力を抜かしてしなだれかかっている。
朱仙が李玄の頬を、いかつい大きな手ではさんだ。李玄は嫌がった。が、ふいに幼子に戻ったような気がする。朱仙は力強い声で言った。
「お主は忌み子などではない。里の者もきっといつかはわかってくれる。お前は――お前はいずれ立派な奴になる。俺は信じているぞ」
李玄の鼻がふいにふくらんだ。幼児から彼の面倒を見てくれた叔父の腕を、無数に思い出すようだった。彼は鳳仙に見られているのもかまわず大声を上げた。
「朱仙叔父、俺朱仙叔父に感謝してるよ。朱仙叔父がいてくれたから、俺は……」
朱仙はふいに涙をうかして、顔をそむけた。
「もう行け、李玄」
李玄は鳳仙を連れて板敷きに出た。廊下を走り、端にある引き戸を開けると、斜面に伸びる竹林が目に入る。
実のところ、李玄は汪豹が怖かった。自分に向けた殺意は本物だ。彼にとっては霊術を使っての実戦も初めてだし、他人に殺され掛かったのもあれが初めてのことだ。
これまで平和な里の中にいて、普通に修行をして普通に暮らすことしか考えていなかった。
なによりも、彼は、自分が明確な殺意を抱く最初の人間が、尊敬していた父親だとは、思いもしなかったのである。
李玄はその思いを振り払うように頭を振った。
ちくしょう、あんなの父上であるもんか。
「デュナン」と彼は背後をついてくる契約霊に声をかける。「お前はここに残って三人の様子を確かめてくれ。頼めるか?」
デュナンは一瞬迷う顔を見せたが、わずかにうなずくと廊下を引き返した。
鳳仙、と彼は境内を見つめる鳳仙に声をかけた。
「下に別界の町がある。そこに逃げこもう」
鳳仙は無言でうなずいた。落ち着き払ってはいたが、いくぶん顔が青いようにも見える。いくら天才でも、実戦ははじめてのはずだ。李玄はそのことにいくらか安堵しながら、疲れた体を引きずり、鳳仙をつれ、竹林へと逃げこんだ。
7
朱仙は、三人の後ろ姿を見送ると、表に出た。
羌櫂は、霊力を四方に伸ばして、汪豹の探索を行っている。
殺意をこれだけ感じているのに、境内は不思議と静かである。
見つかったか、と訊くと、左右に首を振った。気配をこれだけ感じるのに、姿が見えない。
兄上は鉄斎を追ったのではないか、と朱仙が疑ったとき、左方の空中に黒点が浮かび上がる。点は水平の線になり、その線はグルリと回転して、軌跡は巨大な円になった。
高い金属音が轟き、二人は思わず耳を押さえる。
漆黒の円内に、複雑な文様が、黒い飛沫をあげて走りだす。見たこともない法陣だ。
おどろおどろしい瘴気を吹き上げ、黒い物質がポタポタと血雫のように地面に落ちた。
「なんだあれは?」
羌櫂が地面に突き刺した剣を抜いた。片足をじんわりと踏み出して気息を整える。腰をわずかに落とし、呼吸を練りだしたのだが、そのときになって体内の異変に気がついた。霊力を練るほどに、体力が減っていく。細胞中から力が抜けていくようだ。鉄斎の回復のために、霊力を半分方つかっていた彼は、
「まずいぞ朱仙」と言った。
渾身をとりまく悪配に心音を狂わせていたのは、朱仙も同じである。このときになっても実兄と戦う勇気がわかない。彼は身を守るようにして金剛杖をささげながら、必死に頭を巡らした。
――あの法陣、あれは司馬一族の術ではない。
法陣の中央が膨れあがり、ぐんと黒液が突き出てくる。何者かが内側から腕を突きだしているのだ。
羊膜を突き破るようにして、法陣は左右に割れた。空を駆けるようにして地に降り立ったのは、汪豹だった。
「兄上……」
朱仙は李玄の話を聞いた後も、兄の変質を信じることができなかった。あれだけの術者が精神を乗っ取られるなどありえないと思ったのだ。けれど、本当だった。
姿こそ汪豹だが、面構えは似ても似つかず、肝心の霊力の質が違う。
今にして思うと、兄は優しいだけでなく、どこかしら気品を感じさせる男だった。目前の汪豹は、いかにも残酷で……それに粗野だった。体外にもれでる霊気が乱雑なのである。それは羌櫂も一目で見取ったらしく、
「何者か知らんが、汪豹の体を返してもらおうか」
汪豹は口端を上げる。冷酷さが笑みの形で、その顔に刻まれている。
朱仙はようやく金剛杖をかまえた。
汪豹が言った。「ここは霊力の薄い別界だ。貴様らでは力を発揮できんぞ」
「それは貴様も同じのはず」
と羌櫂は答えた。
朱仙の疑念は尽きなかった。汪豹は激しい霊術合戦を繰り広げたと聞く。なのにこの力の充実はどうしたことだろう? 鉄斎の結界は消えていないのに?、
朱仙は背後に向けて、
「デュナン! 側にいるなら聞いておけ! これは皇家の秘術だ!」
朱仙は危険を承知で振り向いた。汪豹はその機を逃さなかった。獣が地上より伸び上がるようにして、懐に飛び込んできた。
朱仙は気配を頼りに、金剛杖を立てた。
霊力で固めた汪豹の手刀は、鉄の杖をど真ん中で両断する。
汪豹の指先は、朱仙の臍の真上に突き刺さる。
朱仙は霊力を集中して防ごうとしたが、汪豹の火のような霊力はたちまち皮肉をつらぬいた。
朱仙は体をくの字に折った。内臓を引き裂かれ、人血がたちまち衣服を濡らしていく。背骨を断ち斬られると、朱仙は下半身の力がどっと抜けるのを感じた。
汪豹は朱仙の巨体を引きずりながら、なおも前進する。朱仙は兄の二の腕をがっとつかんだ。
「兄上……」
「貴様の兄などと虫酸が走るわ」
汪豹は歯を剥き出し、朱仙の体内で拳を固めた。
朱仙は渾身の霊力を腹部に集めていたというのに、まるでふせぐことができなかった。
臓腑は焼け、その苦しみに朱仙は絶叫した。
「朱仙!」
羌櫂が駆けつけたときには、汪豹はたちまち姿をくらましていた。
羌櫂は剣を下段に下げながら、顔をレーダーのようにして左右に振る。
汪豹はいつの間に移動したのか、階段に立っていた。霊力で五体を高めたのでも、天地に姿をくらましたのでもない。空間を瞬時に移動したとしか思えない。
――司馬一族の術ではない。
羌櫂は、朱仙の言葉の意味を知った。
「おのれ、汪豹! 気を違えたか!」
羌櫂は剣で宙を斬った。彼の剣風は霊気のかまいたちとなって、汪豹に迫ったが、その目前にして霧散してしまう。
羌櫂は思った。外界術はまずい、霊力を消耗しすぎる。
さほど戦ってもいないのに、すでに肩で息をしている。
首を巡らすと、境内にはいつのまにか結界が張り巡らされていた。
濃い茶色の円陣が幾重にも走り、古代文字が蜘蛛の巣のようにその円陣をつないでいる。
これでは逃げられない。
羌櫂は観念した。朱仙に屈みこみ、手をかざした。霊力で傷を回復しようとしたのだが、霊力自体が朱仙にいかない。
朱仙が彼の腕をつかみ、羌櫂は我に返る。
「奴の言うとおり、ここは別界だ。むだな霊力を使うな」
「ならば、なぜやつはあれほどの霊術を駆使できる」
羌櫂はかえりみ気がついた。汪豹の手には、いつ取り出したのか、拳大の水晶が握られている。
「あの霊玉はなんだ? あれに霊力を溜めこんでいるのか?」
羌櫂は足元の法陣を見やる。どうやら、あれが霊力を吸い取っているようだ。鉄斎の霊力が回復しなかったのは、そのせいかもしれない。汪豹がなんらかの術を施していたとしか思えなかった。あそこまで霊力を注ぎ込めば、全快とまではいかずとも、目を覚ましたはずである。
羌櫂はなかば呆然としながらもフラフラと立ち上がる。そのとき朱仙が霊力をつかい語りかけてきた。
――李玄だ。膨大な霊力をもつ奴ならば、この別界でも戦えるはずだ。
「ばかな、奴は半人前ではないか」
羌櫂が答えた時には、朱仙は苦しい身をおこしていた。背骨がへしおれているというのに、この男もすさまじい精神力である。朱仙は手印をくむと、残った霊力をふりしぼり結界の一部をこじ開ける。李玄の契約霊が結界に閉じこめられたと見取ってのことだった。
「逃げろ、デュナン」
朱仙は地に頭を落とした。残された霊力がぐんぐんと結界へと吸い取られていく。朱仙は傷を回復させることができない。
李玄……と朱仙は思う。子供のない朱仙にとって、息子のような存在だった。李玄はどんなに苦しくとも、自分の前では明るく振る舞う少年だった。何よりも無償で愛してくれた。
李玄が実の父親に殺される姿など見たくもない。
朱仙の指はまだ戦おうとしているのか、無意識のうちに金剛杖をさぐっていた。
李玄、お前は死ぬな、本界に戻るんだ、と思いながら、朱仙は意識を無くしていった。
8
鐘をつくような音が幾つもする。体の芯に響いてくるようだ。
鉄工所が一部で操業をしているのだが、李玄も鳳仙もそこがなんの施設なのかわからなかった。巨大で複雑だったから、身を隠すのに都合がよいように思えたのだ。鉄斎の回復をはかるのなら、霊力の強い場所にうつるべきだったが、それでは簡単に見つかってしまう。
李玄はデュナンから全ての話を聞いた。デュナンを取り憑かせると太守神社に戻ったが、山は崩れ、建物も全壊した後である。三人の姿は跡形もなく別界の人間が集まっていた。もうなんの結界も残っていないのだ。本界に戻るすべも無くしてしまった。李玄はそのことを鳳仙に報告するのを恐れ、工場の中庭に腰をおろして時間を過ごしていた。中庭には樹が一本だけ立っており、その根本には大きな石が鎮座していた。彼はその石に座っている。あぐらを組んで、膝にに腕を垂らす。悲しみが天から降るようだ。彼は置物のように微動だにしなかったが、やがてポトリと涙が落ちた。デュナンがいたわるように側に来た。
「俺は臆病者だ。朱仙叔父を見捨ててしまったんだ」
開いたままの目から、涙があふれる。自分が落ちこぼれだとは知っている。問題は自信のなさが、あの一瞬、彼を臆病者にしてしまったことだ。神社から逃げ出したのは、父と向き合う勇気がわかなかったからだ。鳳仙を守るとか、鉄斎を守るとか、そんなことは二の次だったのだ。そのことが自分でもよくわかっていたから、涙が出た。
いい加減な男で、修行をさぼってきたのなら諦めもつくかもしれない。けれど一生懸命やってきたのである。人一倍稽古に打ちこんだのに、うまくできかなかった。李玄はほとほと情けなくて泣けてきた。
「そんなことを申されるな」
デュナンが肩に触れる。霊体ゆえに、その手は冷たい。なのに李玄は心が温かくなるのを感じた。デュナンの心情にふれたからのようだった。李玄はむしろ申し訳なく、首を垂れたのだった。
なんだか一人になったようだった。李玄の家系は血が弱いのか、血縁者は朱仙と汪豹しかいなかった。そのどちらともが自分の元を去ってしまった。李玄はなんとはなしにもう朱仙には会えないと思っていた。李玄とて霊術使いの端くれだから、叔父の霊力を感じないことはわかっていた。
朱仙叔父。そう思うと、李玄は嗚咽すら漏らして泣いた。あの叔父だけは、忌み子と呼ばれた自分を手放しでかわいがってくれた。なのに自分は叔父の手助けもせずにむざむざと死なせてしまったのだ。
「俺は朱仙叔父の仇が討ちたい。でもその仇が父親だなんて……デュナン、俺はどうすればいい」
デュナンにはなんとも言えない。
「司馬殿、あのとき朱仙殿は汪豹殿の術を皇家の秘術と申されました」
「ああ、父上は皇家の秘術を狙ったとの疑いも出ている」
と涙を拭いた。
「それはそうかもしれませぬ。ですが、既知の事実なら、朱仙殿はわざわざ拙者に叫ばれますまい」
李玄はどういうことだ、と訊いた。デュナンは視線をそらすように遠くを見た。
「ともあれ、鉄斎殿の回復を待ちましょう。あの方ならば何事かわかるやもしれませぬ」
ああ、と返事をして、李玄は力なく立ち上がった。寄る辺のない子供のような気持ちだった。
9
李玄は鳳仙に全てを話した。途中で鉄斎がようやっと目を覚ました。ともあれ、太守神社には別界の人間が大勢駆けつけており彼らは近づくことも出来ない。三人は救援を求めることもできず、自分たちだけで汪豹に立ち向かわなくてはならなくなったのである。
そこは工場の一室である。鳳仙は結界を張り、別界の人間からは部屋の存在自体を眩ましている。
「朱仙は皇家の術だと言ったのだな」
と鉄斎が言った。彼は横たわったままである。鳳仙が、汪豹殿はやはり秘術を盗むために玄武を殺したのですか、と訊いた。
「正確なところはわからん」鉄斎は疲れたように吐息する。「汪豹を支配している者は、おそらく皇兄玄武」
「玄武? 皇兄を殺して契約霊としたのですか?」
と鳳仙が身を乗り出す。李玄と鳳仙は両側から鉄斎をはさんでいる。鉄斎は李玄の方を向いて、
「李玄、わしの身をおこせ」
李玄と鳳仙は言われるがままに、鉄斎の体を起こして、霊衣をまくりあげる。すると鉄斎の背中、肩甲骨の合間に法陣が描かれているのが見えた。朱仙らが目にしたのと同質の物である。
「これが霊力を吸い取っているのですか?」
と鳳仙。鉄斎はいかにもとうなずく。額には脂汗がにじんでいる。鳳仙は服を元に戻し、そっと寝かしつけると、鉄斎の襟元をていねいに整えだした。
李玄はデュナンが見た物を正確に鉄斎に伝えた。
「朱仙と羌櫂はわしに治療をほどこしたのだろう。霊力が半減したまま奴と戦うことになった。対して玄武は二人の霊力をすら吸い取ってしまったのだ。わしの霊力も今もって奪われているようだ」
李玄はぎゅっと膝頭をつかんだ。そんなやつとどう戦えばいいんだ?
敵が実際には父ではないと知って、李玄は少しほっとした。鳳仙も同じのようだった。むしろ玄武の存在やそのやり口を知って、憎むところが大きかった。汪豹の体を乗っ取っただけでも許せないのに、他人の霊力を奪うやり方が姑息な気がしたのだ。
李玄は我にかえって鉄斎を見おろした。鉄斎はふだんは飄々としたところのある老人だったが、今はきまじめな顔をして自分を見上げていたからである。
「二人とも心して聞くがいい」とおもむろに口を切った。「わしはじきに死ぬ。そうなればお主らは二人だけで汪豹と対さねばならん」
「禁縛術をとくことは出来ないのですか?」
と鳳仙は言ったが、誰が聞いても無理な相談だった。鉄斎の霊力はすでに尽きかかっているのである。
鉄斎は諦めたように首を戻した。別界の無機質な天蓋が見えた。李玄同様、彼もこの世界になじめぬようだった。
「本界との入り口は閉ざされてしまった。奴に対する方法はもはや一つしかない」
と鉄斎は言った。いやに光る目で、李玄の目を覗きこんだ。李玄はつい視線をそらしたくなったが、できなかった。師匠がこんな目をしたときは、ろくなことを言わないとわかっていたのだが。
果たして鉄斎の依頼は途方もなかった。
「わしを契約霊にしろ。死んだ直後に契約を結ぶのだ」と言ったのだ。
「そんなの無理だ」李玄は思わず腰を浮かした。「師匠は忘れてる――」
鉄斎は李玄の声をさえぎる。「たしかに契約霊とできるのはこの世に残る霊魂のみだ。が、力ある術者を殺し、その御魂を次々と契約霊としたものがいた。死んだ直後ならば、肉体と霊魂は結びついたままなのだ。そのときに契約を結ぶ方法がある」
「師匠は知っているのですか?」
鉄斎はうなずいた。「あの者が使った術式は伝わっておらぬ。が、その術理は想像出来ている。それを教えよう」
「では、汪豹殿は……」鳳仙の声が高くなる。信じたくないという響きが声音にまで現れた。「その方法を知っていたのですか? その術をつかって、玄武様を……」
「とも思えんのだ」と鉄斎は気遣うように李玄を見やる。目線を天井に戻し、「それではなぜ汪豹ほどの術者が体を乗っ取られたのか説明がつかん。たしかに玄武は相当な術者とみえる。これまでそのことを隠してきたやり口を見てもな。宮廷にいたころのわしには見抜くことができなんだ」それほどの男が大人しく契約霊になったとは思えなかったのだ。「奴には何か秘密がある。あれほどの法術をどうやって得たのかもふくめてだ」
そんな、と李玄は首を垂れて涙ぐむ。「師匠まで死ぬなんて、俺には我慢できません」
「しっかりせぬか」鉄斎が声を励まし、叱りつけた。「汪豹を救えるのはお主らだけだ。わしが回復したところで、やつにはかなわん」
李玄は信じられなくて、首を振った。鉄斎は都でも尊敬された霊力使いなのだ。鉄斎はこんこんとかき口説いた。霊媒体質で、外界の霊力を取りこみやすい李玄の体を借りれば互角の戦いができるかもしれないと言うのである。
「奴は司馬一族の術を使ううえに、皇家の秘術も体得している。どんな手を使ってくるかわからん。体のことはデュナンに任せて、お主は霊術に専念するのだ」
鳳仙が話を割って、「しかし、李玄は霊術を使えません」
鉄斎はかすかに首をふる。肉体の動きは弱々しかったが、その声は霊力をふりしぼり、二人の胸によく響いた。
「使えるのだ。デュナンに体を任せれば、霊術のみに専念することができるからだ」
鳳仙は得心してうなずいた。だから、鉄斎は李玄に禁術を教えこんだのだ。長老達に知られれば、鉄斎といえば里を追われかねない。しかし、鉄斎も鳳仙に告げなかったことがある。デュナンの力を借りても、李玄が使えたのは霊術の初歩に過ぎないのである。李玄はそのことを思うと恐ろしくなった。幼児と変わらぬほどのつたない術で玄武と戦えるとは思えない。自分が死ぬならまだいいが、鉄斎の師を無駄にして、鳳仙もまた危険にさらすのだろうか?
昔から、何をやっても足手まといの自分がいた。でも、今は子供の遊びをやっているわけではない。生死のやりとりの現場でも、昔と変わらないのだろうか?
しかし、鉄斎には、自らを契約霊とすることに、あと一つ考えがあった。自分が体内から霊力を操れば、李玄にも体得できるはずだった。霊媒体質で、そのために霊力が膨大なものとなる体質にこそ、李玄の霊術を難しくしている要因があるのだから。訓練としてはこれ以上のものはないはずだった。李玄は黙り込んだ。
「だけど、師父は忘れています」
と鳳仙が口を挟んだ。浮幽士の術がすべからく禁術となったのは、契約霊とされた者たちが、成仏できずに曲霊(まがつひ)と化したからだった。あのときは、里の者も滅却をする他なかったと聞く。
「曲霊となる前に契約をとくのだ。その間に玄武を倒すための結界術をほどこす。李玄、お主はわしの霊術を体を通して体得しろ。後は、玄武をおびき寄せればよい」
「玄武は来ますか?」
「わしが死んだとわかれば喜んで来よう」
鳳仙はここまで「天地に身を眩ます法」を用いて逃げてきた。いかな玄武といえど、いまだ彼らの居所はつかめていないはずである。
「問題はやつの禁縛術よ。李玄の霊力まで奪い取られては手に負えん。二人で力を合わせて戦うのだ」
鳳仙はさすがに揺れる面持ちで頷いた。
「お主は外に出ておれ。……これから李玄に契約術を教える」
10
鳳仙を外に出したのは、浮幽術との関わりを持たせぬための配慮だった。
「我々で玄武を仕留めるのだ。鳳仙も腕は立つ。しかし、実戦にはなれてはおらん」
「でも、師匠。俺では足手まといにしかなりません」
「そういうな」と鉄斎は嘆息した。白髪がかすかに揺れた。「お主にはすまぬことをした。浮幽士の術を会得していたとなれば、お主はもう司馬の里に入られぬかもしれん」
「師匠」と李玄は鼻を赤くしてうつむいた。「いいんです。俺、納得して修行したし、霊術がちょっとでも使えたときはすごく嬉しかった。師匠には感謝してます」
鉄斎はうなずく。「三人で力を合わせて玄武を倒すんじゃ。デュナンはいるか」
「側に」
「わしも霊魂の仲間いりじゃな」
「師匠」
鉄斎は首をわずかに傾けて李玄をみた。「お主は素直でいいやつだ。術に長けるよりもずっと大切なことだ。自分の特質を見失うな。鳳仙を守ってやれ」
「霊術はあいつのほうがうまいのに。俺じゃああいつに守られてしまいますよ」
鉄斎は李玄の二の腕を叩いて注意を引いた。
「お主は他人に劣ってなどいない。大成するのに時間のかかる者もいる。成長は人それぞれなのだ。だが、お主が懸命に努力しておったことをわしは知っておる。これまでめげずによくやったのう」
「師匠……」
李玄は顔をおおってめそめそと泣いた。師匠は彼を叱らなかった。
「お主達を残して死ぬのは残念だ。が、里のために、身を捨てる覚悟はできている。汪豹を捕らえた後は奴を本界に連れて帰れ。里を救え」
李玄はこくりとうなずいた。
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「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
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