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その一 別界の浮幽士
その二
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11
鉄斎の鼓動はどんどん小さくなっていく。李玄はその胸に手を置いて死に行く体を見守っていた。うまく行くとは思えなかった。鉄斎はそもそも浮幽士ではないし、この術を完成させた浮幽士は、その秘奥を誰にも伝えぬまま死んでいるのである。彼はつまり失伝した禁術を、理屈のみで組み上げようとしている。一族中でもきっての落ちこぼれであった自分がか?
李玄は弱気になる心を叱りつける。鉄斎の脈をとり、完全に死んだことを確かめる。師の逝去を前に取り乱すことを恐れている。震える前腕を叱咤しながら、魂が天に召されぬよう教えられた通りに封印術を施していく。
こんな方法でうまくいくのか? もっと複雑な方法が必要なのではないか、と自分でも疑問を持つ。もっとも禁忌とされた術を自らに施すとは、師匠だとて想像していなかったはずだ。
舌打ちをしたい気持ちをこらえながら、霊力の経路の主要な部分に霊符を貼りつけていく。左手の数珠を一つずつまわし(これは霊術というより魔除けに近かったが)脂汗を拭う。大きく吐息をついた。体に魂が残っているのなら、鉄斎の霊魂を捕まえることが出来たはずである。
李玄は契約術にとりかかった。デュナンにも聞き取れぬ声で一族に伝わる真言(言霊の霊力を引き出し法)を唱え、額に胸元、腹部から、指でつまみだすような動作をくわえて霊力の糸を伸ばしていく。霊線が鉄斎につながると、遺体がほのかに輝きはじめた。まるでにじみ出すようにして、霊魂が浮かび上がる。白い靄のようなものがまとわりつき、他の霊体に比べるとしっとりして見えた。どちらかといえば、生き霊に近かった。死人になりきっていないのではないか。
「師匠」
と唾を飲む。果たしてこの鉄斎は曲霊なのか?
李玄は傍らのデュナンを見た。デュナンもまた複雑な顔をして横に首を振る。二人とも祈るような気持ちだった。
霊魂と弟子が固唾をのんで見守る中、鉄斎は静かに目を開いた。整然と変わらぬ目をして、李玄を見た。
「鳳仙を呼べ。これより結界式を行う」
12
――李玄、よく感得するのだ。体でなにが起こっているか、霊力をどう扱っているのかを。会得して忘れるな
はい、と李玄は言った。彼も必死だった。文字通り、師匠はこの修行に命をかけたのである。八十年を越える修行の日々で身に付けた霊術の力が、李玄の霊体に及んでいく。彼は悲鳴をのみこむ。体中に霊力の通る経路が開き始めたからだ。
全身に霊路が張り巡らされ、霊力は何倍にも増したかのようだった。李玄も霊線、霊丹を配置する、という言葉こそ知っていたが、こんなにも明確な物だとは思わなかった。雑然としていた霊力が、ついに機能をはじめた。鉄斎は外界の霊力を自在に取りこんでいく。それを丹田に練り上げ、外界に解き放ち、結界術を施していく。
すごいこれが師匠の霊術か
李玄は瞠目しながらも、夢中で鉄斎の動きを追っていった。それはある意味で容易なことだ。鉄斎は彼の脳を用いて生み出しているからだ。
李玄の脳神経は激しく活性化し、霊術のための回路がつぎつぎと形成されていく。こんな真似をつづけたら、精神に異常をきたすか、脳溢血を起こすかのどちらかだろう。画然たる進化とともに、脳細胞を痛めつけられていたのも事実だった。鉄斎は上丹に霊力を掻き集めては、傷ついた脳を修復していった。その霊術は途方もない。全ての作業を同時におこなっているのである。
鉄斎が封印の場所に選んだのは、用具部屋のような小さな一室である。そこに自身の遺体をおいておとりとするつもりだった。肉体には魂こそ宿らなかったが、禁縛術は残っている。死後硬直の始まった死体に結跏趺坐をくませると部屋の中央に安置した。
魂の痛哭に苦しみながらも、多重結界術を施す。その遺体から霊道を地下に伸ばしていった。部屋の外では、死角となる位置で、鳳仙が小さな結界を張っている。鉄斎は彼女まで霊道をつなげていく。
「鉄斎殿! ご無理をなされぬよう!」
鳳仙がこらえきれずに叫んだ。そもそも曲霊となった鉄斎を封じる方法を二人は知らないのだ。
強引な契約術を用いたつけは、着実に出始めていた。李玄は魂を結びつけているから、四魂が乱れむしばまれていく様子が手に取るようにわかるのだ。
――司馬殿、もう限界だ、とデュナンも言った。
思えばあのとき、鉄斎が脇に立ち上がったときから、李玄は師匠の異常に気づいていた。鉄斎が感じていたのは、絶望的な孤独と不安である。直霊(天とつながる魂)と切り離され、師匠の四魂はバラバラになりかけている。李玄はいにしえの霊術使いたちがどのようにして曲霊となったか、わかるようだった。あのとき鉄斎の目は虚ろで寄る辺を無くしたように見えたのだ。
鉄斎は霊道を強化しながら鳳仙の元に向かう。
「ここから霊力を注ぎ込むのですね」
と鳳仙が言った。すでに彼女からは霊力が流れ出している。禁縛術を通して、汪豹に吸い取られているはずだ。李玄はいつもの彼にはない空白の漂う表情で彼女を見おろしている。呼吸は乱れ、彼女を見ているようで見ていない。最後の力でどうにか自分を保っているようだった。
「霊力を注げば、玄武はわしが生きていると思うはずだ。決して動いてはならぬ。最後の封印術は任せたぞ」
鳳仙は三つ指をついて頭を下げた。顔の隠れる寸前、涙が頬を伝うのを見た。
「鉄斎師父、最後のご教授ありがとうございました」
李玄の顔から鉄斎がのき、若々しい表情が現れる。「師匠、もう十分です」と一息に言った。
「玄武をここまでおびき寄せるのだ」と鉄斎が口を借りる。「お主の霊術はまだ完璧ではない。無理はするな」
李玄には師の気持ちがいやと言うほど伝わった。自分たちを残して行きたくないのだ。鉄斎から見れば、二人とも年端のいかぬ子供にすぎないのである。
霊魂が体を抜けだした。不完全な幽体術で、もはや正体をなくしかけていた。
「鉄斎師父……」
鳳仙が目に涙をうかべながらあらぬ方を探している。李玄はその手をそっと握って鉄斎の立つ位置を指し示してやった。
「契約術を解きます」
――手筈通りやるのだぞ
李玄は言葉に詰まりながらもうなずいた。鉄斎は死んだ今も自分たちのことを気にかけている。
「ご心配なきよう」
李玄は霊衣の裾をはらうと、身を整えて手印(印のこと)を組んだ。真言とともに二人をつなぐ幽力線が浮かび上がる。李玄は互いの絆を切っていく。糸が減るたびに鉄斎の存在は遠くなった。鉄斎の乱れた四魂が遠のいていき、李玄の負担も減っていった。それは鉄斎の支えが減ったということでもあった。
李玄の渾身は突然の強風にぐらついた。彼は真言をやめて目を開く。鉄斎が急に苦しみ始めたのだ。嵐が突然現出したかのようだった。天井には台風のような雲がわいて風雨とともに渦を巻いている。鳳仙が膝を立て、
「李玄、間に合わなかった! このままでは曲霊に変わってしまう!」
「結界を出るな! デュナン、来てくれ!」
鳳仙は結界の中にいるから外界の影響も受けていなかった。真四角の結界に雨が当たり弾けるのが見える。李玄は前屈みになって風に抗し、腕で雨を弾きながら雲の正体を確かめようとする。
実のところ、二人は曲霊がどのようなものか知らない。大人たちは過去の事件を決して子供には決して語らなかったからだ。
「司馬殿、なんだあれは?」
雲の中に裂け目が見える。巨大な目がまぶたを開けたかのようだった。中身はなく、どす黒い瘴気が雲を浸食するように漂い出している。李玄は玄武の術を思いだした。玄武は空間をわかる術を使いこなしていたはずだ。
「あれは、玄武の術ではござらん。法陣ではない」
デュナンが言下に否定する。だが、李玄は霊門の向こうに人を見る。暗くて細部はわからないが、赤い目玉と長い鬣の子供をみたのだ。
鉄斎が雲を見上げ、つぶやくのが聞こえる。――まがつひ
「曲霊だって?」と李玄。
「あれがそうなのか? 鉄斎殿が変わるのではないのか?」
鳳仙が結界の中から手を伸ばし、李玄の腰にしがみつく。師匠の五体は音をたてて光芒を放ち、ひび割れを起こしていた。獣のごとき、牙に獣毛を生やし、人外に身を落とし始めている。
――このままじゃあ、師匠の四魂が裂ける
合掌印を組むと、霊力を練り上げる。
「師匠、こらえてください! 曲霊などに負けないでくれ!」
デュナンが風の縫い目をさくように体幹をくねらせる。李玄は体をデュナンに任せると、霊術に集中していく。これまでになかったほど意識の源泉まで深く沈み込んでいった。霊体には、鉄斎の操った霊線術と霊丹術が色濃く残っている。それらは霊力を、物質化あるいは身体化したものだった。鉄斎の築いた回路が、脳に残っているのが自分でもわかる。
いけるぞ、自信をもつんだ。
李玄は鉄斎の記憶を辿るようにして、霊力を練り上げ、体外に霊路を伸ばし、空間の裂け目そのものと結びつけていく。
「立ち去れ! 師匠は天に還るんだ! お前のところになんか行かない!」
独鈷印を組み力を解き放つ。曲霊が霊路をつかみ上げた。霊路をつたい、曲霊の悪気が落ちてくる。李玄は邪悪な魂にふれて悶絶しかかる。どうにか耐えられたのはデュナンのおかげだった。デュナンの御魂が、崩れゆく四魂を支えてくれたからだ。
二人は体を立て直すと、曲霊に向かって猛然と霊力を送りこむ。霊路がかがやき、霊門の陰で、曲霊が苦悶するのが見えた。李玄は霊路を広げると、先端を巨大な霊手に変えて曲霊の頭を抑えつける。霊門の奥へと押し戻していった。瘴気が彼の魂を再びおびやかしたが、霊力をふりしぼると、門の上下を抑えて目玉を閉じていく。裂け目からわき出た雲は、霊門に吸い込まれていった。風はやみ、雨は最後の小降りを残して消えた。
構内は竜巻の通った後のような惨憺たる有様だった。李玄は呆然と曲霊の消えた箇所を見つめた。霊門は消えて、工場のランプが顔をあらわし、三人の人と霊魂を照らしている。
「師匠!」
李玄は我にかえって、鳳仙の腕を振りほどくと、鉄斎の元にしゃがみこんだ。師の霊魂が幾重にもひび割れて、蒸気のようなものを発している。それに曲霊の放った瘴気だった。どす黒い気体が幽体のあちこちに貼りついて、鉄斎を苦しめている。曲霊はまだ去ったわけではないのだ。四魂が反魂すれば(邪悪化してしまうこと)鉄斎もまた曲霊に身を落とすのかもしれない。
霊力を与えるしかない、と李玄は思った。伸ばした霊路をたぐり寄せると、鉄斎の幽体に繋げていった。
――よせ、李玄。玄武と戦うために、霊力を残しておけ。なんのために修行をつけたのだ
鉄斎はこんこんと説得した。李玄も首を左右に振った。
「俺は師匠を放っておけない。だって、なんの恩返しもしてないじゃないか」
このまま死なれたくないと思った。
――李玄
「天に還って下さい。師匠が曲霊になるところなんて見たくない」
李玄は残りの霊力を使い果たしても構わないと思った。水が乾いた大地に染みこむようだ。彼の霊力は鉄斎の穢れを祓い、裂け目をつぎつぎとふさいでいく。李玄は自分でも知らぬ間に、魂鎮め(タマシズメ)を行っているのである。曲霊の存在は遠のいて、金色の煙は次第にやんでいった。幽体にまとわりついていた瘴気も、周囲に四散していく。李玄は霊力をとめて、日輪印をといた。
直霊が戻ったのだろうか? 鉄斎の魂は金色の光の中にあった。その霊魂は陽光を放つように温かみをましている。ああ、師匠が消えてしまう。ぽつりと目尻を涙が落ちた。その魂は、里よりも遠い故郷に帰ろうとしている。デュナンと鳳仙が手を合わせて辞儀をしていた。
霊魂の鉄斎には彼らの気持ちがじかに伝わる。光の中で彼は微笑む。世を去るときに、死を悼み涙を流してくれる者が側にいることは素晴らしいことだった。鉄斎もまたこの二人の弟子をどんなに愛していたか気づくことができたからである。
李玄は濡れた地面に手をついた。鉄斎が光りに溶けていきながら語りかけてきた。
――どんな苦難もお主達なら乗り越えられる。四魂を磨き、立派な霊術使いになれ。司馬の者はみな見守っているぞ
李玄はその場にひれ伏してしまった。
これまでのさまざまなことが一度に蘇った。里一番の術者の弟子になったと威張ったこと。七つの頃から、共に寝起きをして、同じ物を食い、同じ物を見てきたこと。厳しい修行をして叱られたことや、褒められたこととか、他愛もない話を聞いて貰ったことが、ありがたいと彼は思った。師匠は自分に時間をくれて自分をつくってくれたから。本当はその全ての気持ちを伝えたかったのだが、もう時間はなく、鉄斎の二つの魂は、直霊に導かれて天へと還っていく。
「師匠、これまでありがとうございました! 師匠!」
そして、二人は鉄斎の最後の遺言を聞いた。それは二人の切なる願いでもあった。魂が天へと召される最後に、鉄斎は、生き残れと告げたのだから。
13
鉄斎が消えると、結界の内側は、まるで地下の洞穴のごとく静まりかえってしまった。「最後の鉄斎殿のお言葉、私にも聞こえた」
どういうことだろう、と鳳仙は訊いた。
「それだけ、師匠は強く思ってくれたんだろう」
李玄は雨を拭う振りをしている。鳳仙は吐息をついた。
「鉄斎殿は行ってしまわれたのだな」
もうこれでこの世界に残る司馬一族は自分たちだけになってしまった。
李玄が振り向くと、鳳仙がさすがに肩を落としていた。彼は胸をしめつける甘酢い感情を不思議に思う。李玄は勝手に死ねない、と思った。師匠の言うとおりだったのだ。鳳仙を一人にしたくなかった。李玄は自分を納得させるようにうなずいた。不安で孤独かもしれないが、なんとなく力がわいてきた。
「俺とデュナンであいつを誘い出す。そこからは決してでないでくれ」
「お主一人で大丈夫なのか。もう霊力をずいぶん使ってしまったぞ」
「それはお前も同じだろう。そこにいるだけで霊力が減っていくはずだ」
鳳仙は答えなかった。
「お前の存在を玄武は知らない。きっとあいつの裏をかける」
「しかし……」
「師匠にも言われたろう。何があってもそこから出るな」
鳳仙が彼を睨む。わずかに悲しむような顔でもあった。この娘とて一人ではどうにもできぬのだ。
「師匠が残してくれた最後の術だ。成し遂げよう」と彼は言った。
鳳仙は顔を伏せている。以前の李玄を知るだけに不安なのだろう。が、顔を上げたときには、そんな色を微塵も見せなかった。彼女はただ静かに頷いたのだった。
「わかった。これを持って行け。結界術を封じた護符だ。貼りつければそこに結界が生まれる」
三枚の黄色い護符には赤い文字で呪文が描かれている。その方面には疎い彼には文字を読むことは出来なかった。
「お主に任せたぞ」
と鳳仙は言った。
14
自分が死に向かって歩いていることを知っている。心を乱すな、四魂を保つんだと李玄は自らに言い聞かせる。これまでにないほど霊力術を開眼できた。けれど、肝心の霊力がもうほとんど残っていない。多重結界と、曲霊封じに使ってしまった。
相手は鉄斎と互角に戦う化け物である。司馬の霊術と皇家の秘術をともに使える。自分がちっぽけに思えた。つい、体が強張りそうになる。
恐れちゃだめだ、生き残る努力を最大限するんだと言い聞かす。なぜか自然に涙がこぼれる。それは怖かったからというよりも、鉄斎と鳳仙が自分を思ってくれたからだった。立ち止まり、二人のために泣いたらだめだと乱暴に涙を拭う。
体には、鉄斎の残してくれた霊路霊丹の数々が、隅々にまで張り巡らされていた。だが、脳が恐ろしく疲れているのも事実だ。今日一日でこれまでにないほど酷使してきたのだから当然だろう。筋肉ならとっくに断裂していてもおかしくない。うまく温存しなければ、と自分を戒めた。疲労が濃すぎては冷静な判断を見失うかもしれない。死ぬことよりも、しくじる方が怖かった。
結界を出ると、音が復活し、匂いも濃くなる。油と鉄の香りが鼻孔をさしたのである。緊張に奥歯を噛みしめながら玄武の気配を探った。
「霊力の回復を待たれた方がよいのではござらぬか」
「だめだ、師匠の残してくれた結界も時間が経てば弱まってしまう」
彼らは鉄斎が生きているように装っているが、玄武はいつこのからくりに気づくかしれない。それに霊術の問題がある。高度な感覚がなくなる前に勝負を付けたかった。
彼は懐に結界符をねじこむ。わずかだが信念を持つようになっていた。以前なら、この体質を克服することが不可能なように思っていた。天才とうたわれた汪豹も相当の努力で克服したと聞いている。それだけに彼には父を尊敬する気持ちが強かった。鉄斎は、そんな自らに対する憤懣を打ち砕くかのように、霊力を完全に支配してみせた。使っているのは全く同じ肉体のはずだ。自分にも霊術が使えるのだ。
あいつは自分が霊術を使えるのを知らない。第一撃は油断を付けるはずである。
李玄は鉄斎から霊符を預かっていた。火術をこめた火符である。彼はそれを路面に貼りつけると、わずかに離れて真言を唱える。霊符を裂いて炎が噴き上がる。
「デュナン入ってくれ」
――よろしいので?
「ああ、奴は父上の体を使っているから、お前のことも見えるかもしれない」
デュナンが取り憑いた直後だった。
「貴様一人か小僧」
頭上から、汪豹の声が降ってきた。李玄は結界符を取り出し、デュナンは腰の剣を抜き出した。デュナンが素早く回転しながら、攻撃にそなえる。李玄は片手二指刀印を組んだ。
来るのが早すぎる。やつはどこだ?
「鉄斎はどうした。貴様一人ではあるまい」
玄武の声はぐるぐると回っているかのようだ。これでは出所がつかめない。李玄は目眩を堪えて怒鳴った。
「玄武! 姿を現せ!」
そのすきに霊力をソナーのように伸ばす。デュナンは右足を中心にしてじわじわと体を回していく。
「貴様一人でどう戦うつもりだ。抵抗して何になる」
「黙れ!」
「浮幽士の貴様は貴重だ。大人しく俺のいうことを聞くのだ」
「お前は父上を罠に嵌めたではないか」
「だからなんだ。貴様に何ができる」
「しれたこと、お前の手から父上を取り戻すんだ」
玄武の哄笑がした。「お前が父の何を知る? 鉄斎の何を? 司馬一族のことを何も知るまい。頑迷な長老共は全てを隠匿し、貴様らにはしらせようとしない」
「お前は誰なんだ……」
李玄は一瞬唖然となった。玄武のいいようはおかしい。あれではまるで――
――司馬殿!
デュナンが警告の声を上げる。玄武は彼の隙を見逃さなかったのだ。李玄は夢中で結界符を叩きつけた。霊符はコンクリートの上で微動しながら透明の結界を伸ばし、彼の体を足元から包みこむ。とっさに顔を上げると、四つの火球が彗星のように降ってきた。思わず腕を上げて顔をかばう。火球は見えない壁にぶつかり、平らにひしゃげて飛散していく。火の粉が結界の上を転がり、その音すらも耳に聞こえた。
「結界符か! 笑止な! 小僧、そこで固まるつもりか!」
黙れ――李玄は護符を体に叩きつける。結界が胸を中心に広がり、全身を包んだ。デュナンが意図を察して走ると、結界は李玄とともに移動する。
「これならどうだ!」快哉を上げたときだ。
「面白い奴だ」
耳元で声があがり、二人は夢中で飛び退る。李玄は胃の腑が裏返るような恐怖を覚える。玄武の顔が息が触れるほど近くにあったからだ。
こいつ、ほんとに一瞬で移動するぞ!
足元にはデュナンが見たという法陣が広がっている。しばらくぶりにみる父の姿だった。剣のかわりに松明を持っている。もう片方には、霊玉が七色にきらめく。父の顔はひどく青白い、その残酷な笑みを松明の赤々とした炎が照らし、不気味な陰影をつくっていた。
李玄は夢中で霊路を地に這わしていく。見つかるな。あいつの油断をつくんだ。
――奴はなぜ松明を?
――五大元素の種だよ。あれを霊力で増幅させるんだ
つまり霊術者といえど、無からは何も生み出せないのである。
上空で工場のランプがつぎつぎに弾け、ガラスと粉塵がふってきた。結界の上にパラパラと積もる。が、玄武にはなんの影響もない。形こそ違うが何らかの結界を張っているのだ。
汪豹の口を使い、玄武が怒号する。「お前は浮幽士としては完全ではない。霊術も使えず、父を攻撃できぬ貴様がどう戦う! 大人しく従え! 貴様のために言っているのだ!」
「馬鹿を言え! 死人になど従うものか!」
霊路が松明に届く刹那に、力を送る。火の元素が活性化し、温度を上げ、たちまち巨大な火の玉になり、玄武を飲みこむ。デュナンは快哉を上げたが、李玄はくそと言った。霊力をこめた火炎だから、内部の様子がわかるのだ。玄武にはなんの影響もない。
玄武は松明を大きく回しながら火炎を巻き取り、頭上に固める。太陽とみまごうような大火球である。玄武は回転を加えて投げつけた。李玄は息を飲んだ。とても、結界符では耐えられない。
「デュナン、あれを斬れ!」
デュナンが夢中で剣を振りかぶる。李玄はその剣に霊力をあつめる。真っ向から切り下げると、霊気の剣風が太陽を二つに斬り裂いた。半円の火の玉が李玄を避けるようにして左右に落ちた。結界はたちまち溶けて、胸の護符は塵になった。霊衣がバサリとはためいて、あちこちを焦がしていく。火炎は水をまき散らすようにして地面にぶつかり、炎の湖面を伸ばしていく。デュナンは頭をかばいながら炎を飛び越えすさった。李玄が残りの護符を胸に貼ると、途端に後頭部に衝撃が走る。霊気の玉をぶつけられたらしい。あやうく頭をかち割られるところだ。
李玄は夢中で下体を練り上げた、韋駄天の法をつかって逃走にかかる。
「貴様、鉄斎に何事か施されたな!」
声が上から降ってくる。デュナンが振り向くと、玄武が空中を飛ぶようにして走っている。
「あやつめ、空を飛びおった!」
「ちがう、霊力で空気を固めてるんだ!」術を放つのが見えた。「左に飛べ!」
デュナンは軽く跳ねたつもりだったが、韋駄天の法を扱い損ねて、左方の壁に激突する。李玄はこれまでこんな術をあつかったことがないのだから、デュナンも難儀なことだった。
寸前まで彼らのいた場所を霊気が見えない鎌のように薙ぎ払い、地面を断ち割っていく。簡易結界などまるで歯が立たない威力で李玄は青くなる。
「だめだ、師匠と互角に戦った奴と霊術合戦じゃかなわない」
李玄は辺りに霊路を伸ばして、鉄パイプをからめとった。これを槍のように投げつけながら、玄武の視界からどうにか逃れる。李玄は天地に身を眩ます法を用いた。
「今の内に隠れよう」
デュナンが慎重に走りだした。李玄は心の中で首をひねる。
「おかしいぞ、あいつが玄武なら、なぜこうも司馬一族の術を使えるんだ」
いくら汪豹の記憶や知識があるとて、使っているのは玄武自身のはずだ。皇兄の玄武が戦いに慣れているとも思えない。
デュナンが、巨大な機械の群れに隠れこむと、彼は必死に策を練った。どうやったらあいつを鉄斎の部屋に誘いこめたものか。自分まで入っては鳳仙が封印術を使えない。かといってこのまま戦い続けるわけにもいかない。下手をしたら鳳仙が見つかってしまうかもしれないのだ。
李玄が最後に確認したとき、玄武の霊玉はあきらかにしぼんでいた。あいつの霊力も無限ではないのだ。が、こちらの霊力も残り少ない。
李玄は蒸気を見つけると、霊気の球をつくって、中に蒸気を吸い集めた。あやうく火傷をしかかる。掌に浮かべてみる、ひどく高圧なのが自分でもわかる。思いの外うまくいった。球体の内部で真っ白な蒸気が渦を巻いている。霊気の壁を通しても火傷をしそうだった。霊術合戦は発想の勝負だと師匠に教わったが、まさしくそうかもしれない。
「俺は父上に怪我をさせられない。本気で攻撃するなんて無理だ。それに、あいつにはこんなもの通じっこない」
「何を弱気な……」
「あいつの攻撃をわざと受けよう。やられたふりをするんだ」
「そんなことをすれば鉄斎殿の二の舞だ」と難色する。「禁縛術をかけられてしまう。そうなったら戦えませんぞ」
「俺たちは師匠とはちがう。危険だが……」
李玄は簡単に説明した。それはデュナンにとって危険な方法だったが、デュナンは覚悟をきめてうなずいた。立ち上がり、周囲の様子を確かめる。めくらに逃げたようだが、李玄の誘導で二人は結界術の深くまで戻ってきていたようである。
「あと少しなんだ、やろう。命までは取られないはずだ」と自分に言い聞かせる。「あいつもこの世界じゃ、霊力を集めるのに苦労するはずだ」
きっと李玄の霊力も欲しがるはずである。
決意を固めるためにその場に剣を置いて物陰を出た。心臓が早鐘をうっている。胸の中で三倍までふくらんでいる。李玄は四魂を落ち着けようと、強く息を吸い、大きく吐いた。
工場の真ん中をはしる通路は、緑に彩色してあり、中央がわずかに盛り上がっている。李玄とデュナンはその通路を歩きはじめた。李玄はわざと手持ちの武器が見えるようにした。
「玄武! 決着をつけよう! これで最後だ!」
すると、玄武もまた物陰から無造作に身をさらした。李玄の霊力が残り少ないことに気づいているのだ。左手の霊玉は再び大きくなっている。あの中には朱仙おじの霊力も詰まっているのかもしれない。そう思うと、李玄は父でもある玄武をはっきりと憎んだ。
「あきらめがついたか」
「あきらめるもんか。だけど、この先には行かせない」李玄は全身に金剛力の法をしかけた。「お前は朱仙おじと羌櫂殿を殺した。師匠まで殺させないぞ」
蒸気をこめた霊丸を投げる。機械でも出せないような剛球だが、玄武はたやすくこれをかわし、霊丸は地面にめりこんでしまった。蒸気が穴から轟々と噴き出す。攻撃を外したようにも見えたが、狙い通りだ。玄武が李玄の懐をとる。霊力で高めたすさまじい体さばきだった。剣の達人デュナンもこれには対応できない。玄武は李玄の肩をつかみ上げると、上体を引き起こして、腹部に手刀を叩きこむ。
「叔父と同じ傷にしてやったぞ。ありがたく思え」
玄武の霊手が、腹を引き裂き、右の背まで突き抜けた。李玄は唸り声もたてられず、玄武の腕にもたれかかる。
「四魂を乱すなと師に教わらなかったか、出来損ないめ。死を早めたのはお前の方だ!」
玄武の腕から、何かが送りこまれてくる。禁縛術だった。玄武はなじるように舌打ちをする。
「このていどしか霊力が残っておらんのか。貴様を仲間にするのはあきらめたぞ」
玄武が腕を抜くと、緑の床に血雫が走る。李玄は内臓を引きずり出されるような痛みにのたうちまわった。玄武は苛立たしげに彼の頭髪をつかみ上げ、
「その年でこの程度しか霊術がつかえんとは情けのないやつだ。貴様の親父も落胆しているぞ」
こめかみをコンクリートに叩きつける。李玄はあまりの衝撃に意識を失いかけたが、どうにかこらえて気絶したふりをした。
玄武は弟子を片づけると、鉄斎の霊力を探し当てる。
「あの部屋か。積年の決着をつけてくれるぞ」
玄武は李玄の体をまたぐと、壁際の一室に向かった。李玄は薄目をあけて、その姿を見送る。内臓が激しく損傷して、口元からは血が溢れていた。李玄は血にまみれた舌を口の中に戻し、デュナン、頼む、と呟いた。
15
デュナンは玄武に見つからぬよう、李玄の体を抜け出した。その体には禁縛術が大穴をあけている。まるで真っ黒な刻印だ。幽体の彼はたちまち霊力を吸い取られていく、薄まってしまった。デュナンは腹に焼き付いた法陣を引きはがそうとするが、皮が伸びるように幽体が伸びるばかり。李玄は待ってろと声にならぬ声を発し、腹部にあいた大穴をおさえながらヨタヨタと立ち上がる。
デュナン、こっちにこい
声に出したつもりだったが、それは喉の奥でかすかになる風の音に過ぎなかった。李玄は悲鳴を上げてもがくデュナンに近づき、掌を霊力で固めると、法陣に指をかけた。そのとき、デュナンが暴れ、彼の体も左にふられた。片足で着地をすると、新たな激痛が総身を貫いた。
「でゅ、デュナン……」今度は声が出た。「待ってろ、デュナン」
ほとんど真下に倒れ込むようにして(事実そのとおりだったが)、法陣を引っぺがした。右肩から路面に崩れ落ちる。法陣もまた霊霧を上げながら床に貼りつき、奇怪な焼け焦げを残して消えた。
――司馬殿
デュナンが李玄の顔をのぞきこむ。
「デュナン……すまない。お前を消滅させるところだった」
舌がうまく回らない。思ったより、手ひどくやられた。霊力で傷をふがなければ死んでしまうかもしれない。李玄は激痛のあまり震えながら、いやだめだ、とかんがえる。霊力を温存しないと。まだあいつをやっつけたわけじゃない。
「デュナン、手を貸してくれ」
デュナンを取り憑かせることはもうできなかった。それだけで霊力を消耗するし、デュナン自体が危険な状態だ。
二人はともにフラフラと立ち上がると、かすむ目で鳳仙の隠れている方角を見つめた。ここがどの辺りか、もう冷静な判断ができなかった。李玄は足を引きずりながら歩き始めた。
16
「李玄!」
鳳仙が小声で叫ぶ。結界の中で印を組み、これも青白い顔をして彼を待っていたのだ。唯一の味方は血みどろである。こめかみに血を流し、下体も真っ赤になっている。李玄はこらえきれずに腹を屈し、獣のようにうめいた。鳳仙が立ち上がろうとしたので、首を振って止める。すると、血が口端からよだれのように垂れて、雫となって地面に落ちた。
「あいつは部屋に入った。封じてくれ」
「李玄駄目だ、霊力がもう……」
鳳仙が珍しく弱気な顔をして、小さな頭を左右に振った。そんな表情を初めて見る。本当にもう限界なのだ。自分は玄武との戦いに時間をかけすぎてしまった。玄武は消耗するごとに、霊力をかきあつめようとしたはずだ。
「俺の霊力も、霊力を使え。結界術を……」
李玄は足を引きずりながら、結界の中に入った。
「ひどい傷ではないか。それでは無理だ」
「無理じゃない。あいつを封じる機会はもうないんだ」
李玄は血みどろの手を鳳仙の印にそえる。鉄斎の策は結界を何層にもわけて張り巡らすことで、玄武の油断をさそうというものだった。その多重結界も一つにまとめれば、強力なものになるはずだ。
鳳仙は霊視を用いて、結界内の様子をさぐる。部屋の中では、玄武が鉄斎の様子を不審に思い、蹴り転がしてその生死を確かめようとしているところだった。李玄と鳳仙が真言を重ねて唱えると、鉄斎は死体ながらに腕を上げて、屈みこんだ玄武に組み付いた。二人はその鉄斎目がけて、結界を狭めていく。
まるで霊気の大渦だ。全てのものが、結界の中心めがけて引きずり込まれる。玄武のいる部屋は見えない力に圧縮されていった。鉄筋の構内が激しく振動して、機械や鉄板が横倒しになる。建物ごと結界に引きずられている。北側の壁が大きくひしゃげ、天井も大きく斜傾した。鉄骨やトタンが二人めがけて降ってくる。鉄の通路がすぐ脇に落ちた。鳳仙が目を閉じたまま、
「だめだ、建物がもたない」
「かまわない、封印するんだ」
二人は細胞に残った霊力までしぼりあつめた。大渦が最後の一巻きをすると、製鉄所は音を立てて崩れ落ちた。李玄と鳳仙もまた鉄骨の海に飲みこまれ、意識をなくしていったのだった。
17
司馬殿……司馬殿――
誰かが自分を呼んでいる。李玄は痛みのなかで目を覚ます。もう腹部は麻痺して鈍痛しか感じない。どうやらこれでおしまいらしい。
彼は師匠を成仏させたあとも、死というものがよくわかっていなかった。霊魂になるのか、それともデュナンのようにこの世に残るんだろうかと思った。できれば、あの世に生きたい、この世はもうたくさんだ。あの世に行って故人になった人たちに――母や鉄斎に会いたかった。けれど、デュナンは李玄の名を呼び続けている。
重い目蓋を開くと、引き裂かれた屋根の向こうに青空が見えた。彼の虚ろな瞳には激しすぎる光である。李玄は物に埋もれて立てない。ただ、デュナン以外の誰かが自分を見おろしているのが見えた。視力はどんどん弱まっていき、すぐにその姿も見えなくなったが。
李玄が意識をなくすと、デュナンは彼を守るようにしてその霊体との合間に立った。異国人のデュナンには男の正体はつかめなかった。
――契約霊がいたか。
男は幽体の顔をゆがめて冷笑している。
――小僧に伝えろ。今回はあなどったが、次はこうはいかぬ
――お主は何者だ。玄武ではないのか
男は答えなかった。デュナンに背を向けると、たちまち姿を消してしまった。
18
次に目を覚ましたとき腹部の痛みは本当に消えていた。完全にふさがったわけではいないが、ずいぶんとましになっていた。鳳仙が彼のことをのぞきこんでいる。なんだか心配そうな顔をしていたから、彼は妙にうれしくなった。鳳仙が生きていたことがうれしいし、心配されるのは面映ゆかった。
そう言えば、この娘はずいぶんと瞳が美しい……。
意識がようやくしゃっきりとした。李玄は慌てて起き上がり、
「玄武はどうなった? 父上はどこだ!」
「無理をするな」
と鳳仙は彼をいさめる。手には霊玉が握られている。玄武の使っていたものをどうにか探してきたようだった。
「そいつで治してくれたのか」
李玄は鳳仙の機転に感謝しながら、デュナンに目を向けた。デュナンが彼を起こしたのだから、彼はあいつのを見たはずである。しかし、デュナンは観念するように首を左右に振った。考えたら、自分だって玄武は見たことがない。
「そうか……」
と彼も肩を落とす。なんだ、と鳳仙が問うた。
「意識をなくす前、俺は誰かを見た気がした。霊魂だったみたいだ。父上があそこにいるのなら、抜け出したのは、きっと玄武だ」
「では、結界内に残っているのは」
そこまで言って、鳳仙は唇をきつく結んだ。聡明な娘だから、議論よりも確認の方が先と考えたようだった。
19
二人は瓦礫をはがして、結界の中心までたどりついた。汪豹は大人がやっと入るぐらいの小さな鉄の箱に閉じこめられていた。鳳仙が結界を解くと、鉄の壁がガラクタのように崩れ落ちる。汪豹の上体がぐらりと傾く。その背中には鉄斎がもたれかかっている。まるで、子が親を背負うかのようだ。李玄と鳳仙は二人の師匠の体をひきはがし、それぞれを床に横たえた。
全ての結界が崩壊したためか、外界の音が二人のもとにも届いてきた。聞いたことのないような高く不快な音がする。
ああ。李玄の口から溜息がもれた。汪豹の腹部は無残にひきさかれていたからだ。
「父上……」
汪豹はすでに目を開けている。鳳仙が霊玉を取り出したのをみると、よせ、と弱々しい声で言った。
「霊力を吸い取られるだけだ」
胸をかくような仕草をする。李玄が胸元を開くと、禁縛術が押印のように口を開けている。これでは回復術をかけられない。
汪豹が咳きこみ、すると人血が噴水のように飛散した。李玄が頭を持ち上げると、後から後から血がこぼれる。けれど、そうせねば汪豹はしゃべれぬようだった。李玄は、ああなんでだ、と泣きたい気持ちで思った。なんで、父上なんだ。殺すなら、役立たずの俺にすればいい。父上は里にだって、必要なんだ。
けれど、もう遅かった。鉄斎の死も全て無駄になったのだ。
「すまなかった……すまなかった」
と汪豹は二人の弟子に謝る。鳳仙は涙を浮かべて頭を振る。手と霊玉に涙が落ちて痕をつけた。
「鉄斎殿は亡くなったのだな」
と溜息をつくように言う。実際には鉄斎は彼の脇に横たわっていたが、もう目が見えぬようだった。汪豹が片腕を上げた。見えぬ何かをつか蒙としているようだった。
「朱仙を、羌櫂の体をのっとるつもりだ。追って、追ってしとめねば……」
李玄と鳳仙は顔を見合わせた。あの二人は生きていたのか。しかし、玄武ならそうしていてもおかしくない。汪豹の体がだめになったとき、逃げこめる肉体ならいくつあってもいいはずだ。だけど、あいつは契約霊ではないんだろうか。
「師匠、もうよいのです」
鳳仙はやさしく汪豹の手を握る。汪豹はわずかな間目を閉じて、また開けた。瞬息、意識をなくしたようだった。
「李玄――李玄は大きくなったのか……」
私はここにいます、と李玄は言った。汪豹は声のする方に首を傾けようとした。李玄は父の広い背中に腕を通してこれを助けた。父を抱くのは初めてのことだった。
汪豹と李玄は久方ぶりに目を合わせている。互いに涙をこぼし、何かを通い合わせていた。霊路でもなんでもない、親子の親愛の情がある。李玄はこの人の息子なんだと強く思った。汪豹は彼を愛してくれたから。そのことを目で語っていてくれたのである。
「お前の成長が楽しみだった。お前の……」
汪豹はしゃべりはじめたが、もう口を開けることもできぬようだった。声がひどく小さくなる。眼から何かが失われていく。汪豹の魂は肉体を離れようとしている。手紙をありがとう、と汪豹は言った。それは、もう聞き取れぬほど小さな声だった。
「父上、死なないで下さい。父上」
と李玄は父をゆさぶる。鳳仙が肩をつかんだ。李玄が顔を上げると、汪豹の耳に口を近づけ囁いた。
「汪豹師父、我々が相手をした者は何者です。あなたは玄武兄を殺したのですか?」
李玄はひゅっと息を飲んだ。
しばし間が空いた。二人は汪豹が死んでしまったものと思った。しかし――
「ほうけん……」
と汪豹はつぶやいた。それが最後の息だった。腕に重みがかかったかと思うと、汪豹の頭は急に後ろに下がってしまった。鳳仙がその頭を支えた。
「父上!」
李玄は汪豹の胸に顔をうずめた。全身をよじりはじめた。もうこらえきれなかった。
気がつくと、鳳仙が彼の髪を撫でていた。
「すまなかった。私はどうしても聞かねばならなかった……」
李玄は夢中で父の亡骸に語りかけた。父がいなくてどんなにさみしかったか、どれだけ愛していたのか、これまで離れていた年月分の思いを語りたかった。
それは、いくら語ってもつきることはなく、また伝えきれることではなかったのだが。
20
二人は長い間そこにいたようだった。けれど、時間はそう経っていなかった。瓦礫の向こうでは別界の人々がうごめく声がしたが、まだ近くにはいないようだった。
ほうけん、と最後に口にしたのが、なんなのかはわからなかった。二人は本界に戻る術をなくし、秘密を握る何者かも逃してしまった。
李玄は汪豹を抱えると、ことさら背を伸ばしてあるきはじめた。妙に大人びた表情だった。鳳仙は鉄斎を背負っている。そして、李玄と鳳仙は二人の亡骸を連れて、その場所から姿を消した。それは二人の長くも辛い旅の、最初のはじまりにすぎなかった。
□ 第 一 部 完
鉄斎の鼓動はどんどん小さくなっていく。李玄はその胸に手を置いて死に行く体を見守っていた。うまく行くとは思えなかった。鉄斎はそもそも浮幽士ではないし、この術を完成させた浮幽士は、その秘奥を誰にも伝えぬまま死んでいるのである。彼はつまり失伝した禁術を、理屈のみで組み上げようとしている。一族中でもきっての落ちこぼれであった自分がか?
李玄は弱気になる心を叱りつける。鉄斎の脈をとり、完全に死んだことを確かめる。師の逝去を前に取り乱すことを恐れている。震える前腕を叱咤しながら、魂が天に召されぬよう教えられた通りに封印術を施していく。
こんな方法でうまくいくのか? もっと複雑な方法が必要なのではないか、と自分でも疑問を持つ。もっとも禁忌とされた術を自らに施すとは、師匠だとて想像していなかったはずだ。
舌打ちをしたい気持ちをこらえながら、霊力の経路の主要な部分に霊符を貼りつけていく。左手の数珠を一つずつまわし(これは霊術というより魔除けに近かったが)脂汗を拭う。大きく吐息をついた。体に魂が残っているのなら、鉄斎の霊魂を捕まえることが出来たはずである。
李玄は契約術にとりかかった。デュナンにも聞き取れぬ声で一族に伝わる真言(言霊の霊力を引き出し法)を唱え、額に胸元、腹部から、指でつまみだすような動作をくわえて霊力の糸を伸ばしていく。霊線が鉄斎につながると、遺体がほのかに輝きはじめた。まるでにじみ出すようにして、霊魂が浮かび上がる。白い靄のようなものがまとわりつき、他の霊体に比べるとしっとりして見えた。どちらかといえば、生き霊に近かった。死人になりきっていないのではないか。
「師匠」
と唾を飲む。果たしてこの鉄斎は曲霊なのか?
李玄は傍らのデュナンを見た。デュナンもまた複雑な顔をして横に首を振る。二人とも祈るような気持ちだった。
霊魂と弟子が固唾をのんで見守る中、鉄斎は静かに目を開いた。整然と変わらぬ目をして、李玄を見た。
「鳳仙を呼べ。これより結界式を行う」
12
――李玄、よく感得するのだ。体でなにが起こっているか、霊力をどう扱っているのかを。会得して忘れるな
はい、と李玄は言った。彼も必死だった。文字通り、師匠はこの修行に命をかけたのである。八十年を越える修行の日々で身に付けた霊術の力が、李玄の霊体に及んでいく。彼は悲鳴をのみこむ。体中に霊力の通る経路が開き始めたからだ。
全身に霊路が張り巡らされ、霊力は何倍にも増したかのようだった。李玄も霊線、霊丹を配置する、という言葉こそ知っていたが、こんなにも明確な物だとは思わなかった。雑然としていた霊力が、ついに機能をはじめた。鉄斎は外界の霊力を自在に取りこんでいく。それを丹田に練り上げ、外界に解き放ち、結界術を施していく。
すごいこれが師匠の霊術か
李玄は瞠目しながらも、夢中で鉄斎の動きを追っていった。それはある意味で容易なことだ。鉄斎は彼の脳を用いて生み出しているからだ。
李玄の脳神経は激しく活性化し、霊術のための回路がつぎつぎと形成されていく。こんな真似をつづけたら、精神に異常をきたすか、脳溢血を起こすかのどちらかだろう。画然たる進化とともに、脳細胞を痛めつけられていたのも事実だった。鉄斎は上丹に霊力を掻き集めては、傷ついた脳を修復していった。その霊術は途方もない。全ての作業を同時におこなっているのである。
鉄斎が封印の場所に選んだのは、用具部屋のような小さな一室である。そこに自身の遺体をおいておとりとするつもりだった。肉体には魂こそ宿らなかったが、禁縛術は残っている。死後硬直の始まった死体に結跏趺坐をくませると部屋の中央に安置した。
魂の痛哭に苦しみながらも、多重結界術を施す。その遺体から霊道を地下に伸ばしていった。部屋の外では、死角となる位置で、鳳仙が小さな結界を張っている。鉄斎は彼女まで霊道をつなげていく。
「鉄斎殿! ご無理をなされぬよう!」
鳳仙がこらえきれずに叫んだ。そもそも曲霊となった鉄斎を封じる方法を二人は知らないのだ。
強引な契約術を用いたつけは、着実に出始めていた。李玄は魂を結びつけているから、四魂が乱れむしばまれていく様子が手に取るようにわかるのだ。
――司馬殿、もう限界だ、とデュナンも言った。
思えばあのとき、鉄斎が脇に立ち上がったときから、李玄は師匠の異常に気づいていた。鉄斎が感じていたのは、絶望的な孤独と不安である。直霊(天とつながる魂)と切り離され、師匠の四魂はバラバラになりかけている。李玄はいにしえの霊術使いたちがどのようにして曲霊となったか、わかるようだった。あのとき鉄斎の目は虚ろで寄る辺を無くしたように見えたのだ。
鉄斎は霊道を強化しながら鳳仙の元に向かう。
「ここから霊力を注ぎ込むのですね」
と鳳仙が言った。すでに彼女からは霊力が流れ出している。禁縛術を通して、汪豹に吸い取られているはずだ。李玄はいつもの彼にはない空白の漂う表情で彼女を見おろしている。呼吸は乱れ、彼女を見ているようで見ていない。最後の力でどうにか自分を保っているようだった。
「霊力を注げば、玄武はわしが生きていると思うはずだ。決して動いてはならぬ。最後の封印術は任せたぞ」
鳳仙は三つ指をついて頭を下げた。顔の隠れる寸前、涙が頬を伝うのを見た。
「鉄斎師父、最後のご教授ありがとうございました」
李玄の顔から鉄斎がのき、若々しい表情が現れる。「師匠、もう十分です」と一息に言った。
「玄武をここまでおびき寄せるのだ」と鉄斎が口を借りる。「お主の霊術はまだ完璧ではない。無理はするな」
李玄には師の気持ちがいやと言うほど伝わった。自分たちを残して行きたくないのだ。鉄斎から見れば、二人とも年端のいかぬ子供にすぎないのである。
霊魂が体を抜けだした。不完全な幽体術で、もはや正体をなくしかけていた。
「鉄斎師父……」
鳳仙が目に涙をうかべながらあらぬ方を探している。李玄はその手をそっと握って鉄斎の立つ位置を指し示してやった。
「契約術を解きます」
――手筈通りやるのだぞ
李玄は言葉に詰まりながらもうなずいた。鉄斎は死んだ今も自分たちのことを気にかけている。
「ご心配なきよう」
李玄は霊衣の裾をはらうと、身を整えて手印(印のこと)を組んだ。真言とともに二人をつなぐ幽力線が浮かび上がる。李玄は互いの絆を切っていく。糸が減るたびに鉄斎の存在は遠くなった。鉄斎の乱れた四魂が遠のいていき、李玄の負担も減っていった。それは鉄斎の支えが減ったということでもあった。
李玄の渾身は突然の強風にぐらついた。彼は真言をやめて目を開く。鉄斎が急に苦しみ始めたのだ。嵐が突然現出したかのようだった。天井には台風のような雲がわいて風雨とともに渦を巻いている。鳳仙が膝を立て、
「李玄、間に合わなかった! このままでは曲霊に変わってしまう!」
「結界を出るな! デュナン、来てくれ!」
鳳仙は結界の中にいるから外界の影響も受けていなかった。真四角の結界に雨が当たり弾けるのが見える。李玄は前屈みになって風に抗し、腕で雨を弾きながら雲の正体を確かめようとする。
実のところ、二人は曲霊がどのようなものか知らない。大人たちは過去の事件を決して子供には決して語らなかったからだ。
「司馬殿、なんだあれは?」
雲の中に裂け目が見える。巨大な目がまぶたを開けたかのようだった。中身はなく、どす黒い瘴気が雲を浸食するように漂い出している。李玄は玄武の術を思いだした。玄武は空間をわかる術を使いこなしていたはずだ。
「あれは、玄武の術ではござらん。法陣ではない」
デュナンが言下に否定する。だが、李玄は霊門の向こうに人を見る。暗くて細部はわからないが、赤い目玉と長い鬣の子供をみたのだ。
鉄斎が雲を見上げ、つぶやくのが聞こえる。――まがつひ
「曲霊だって?」と李玄。
「あれがそうなのか? 鉄斎殿が変わるのではないのか?」
鳳仙が結界の中から手を伸ばし、李玄の腰にしがみつく。師匠の五体は音をたてて光芒を放ち、ひび割れを起こしていた。獣のごとき、牙に獣毛を生やし、人外に身を落とし始めている。
――このままじゃあ、師匠の四魂が裂ける
合掌印を組むと、霊力を練り上げる。
「師匠、こらえてください! 曲霊などに負けないでくれ!」
デュナンが風の縫い目をさくように体幹をくねらせる。李玄は体をデュナンに任せると、霊術に集中していく。これまでになかったほど意識の源泉まで深く沈み込んでいった。霊体には、鉄斎の操った霊線術と霊丹術が色濃く残っている。それらは霊力を、物質化あるいは身体化したものだった。鉄斎の築いた回路が、脳に残っているのが自分でもわかる。
いけるぞ、自信をもつんだ。
李玄は鉄斎の記憶を辿るようにして、霊力を練り上げ、体外に霊路を伸ばし、空間の裂け目そのものと結びつけていく。
「立ち去れ! 師匠は天に還るんだ! お前のところになんか行かない!」
独鈷印を組み力を解き放つ。曲霊が霊路をつかみ上げた。霊路をつたい、曲霊の悪気が落ちてくる。李玄は邪悪な魂にふれて悶絶しかかる。どうにか耐えられたのはデュナンのおかげだった。デュナンの御魂が、崩れゆく四魂を支えてくれたからだ。
二人は体を立て直すと、曲霊に向かって猛然と霊力を送りこむ。霊路がかがやき、霊門の陰で、曲霊が苦悶するのが見えた。李玄は霊路を広げると、先端を巨大な霊手に変えて曲霊の頭を抑えつける。霊門の奥へと押し戻していった。瘴気が彼の魂を再びおびやかしたが、霊力をふりしぼると、門の上下を抑えて目玉を閉じていく。裂け目からわき出た雲は、霊門に吸い込まれていった。風はやみ、雨は最後の小降りを残して消えた。
構内は竜巻の通った後のような惨憺たる有様だった。李玄は呆然と曲霊の消えた箇所を見つめた。霊門は消えて、工場のランプが顔をあらわし、三人の人と霊魂を照らしている。
「師匠!」
李玄は我にかえって、鳳仙の腕を振りほどくと、鉄斎の元にしゃがみこんだ。師の霊魂が幾重にもひび割れて、蒸気のようなものを発している。それに曲霊の放った瘴気だった。どす黒い気体が幽体のあちこちに貼りついて、鉄斎を苦しめている。曲霊はまだ去ったわけではないのだ。四魂が反魂すれば(邪悪化してしまうこと)鉄斎もまた曲霊に身を落とすのかもしれない。
霊力を与えるしかない、と李玄は思った。伸ばした霊路をたぐり寄せると、鉄斎の幽体に繋げていった。
――よせ、李玄。玄武と戦うために、霊力を残しておけ。なんのために修行をつけたのだ
鉄斎はこんこんと説得した。李玄も首を左右に振った。
「俺は師匠を放っておけない。だって、なんの恩返しもしてないじゃないか」
このまま死なれたくないと思った。
――李玄
「天に還って下さい。師匠が曲霊になるところなんて見たくない」
李玄は残りの霊力を使い果たしても構わないと思った。水が乾いた大地に染みこむようだ。彼の霊力は鉄斎の穢れを祓い、裂け目をつぎつぎとふさいでいく。李玄は自分でも知らぬ間に、魂鎮め(タマシズメ)を行っているのである。曲霊の存在は遠のいて、金色の煙は次第にやんでいった。幽体にまとわりついていた瘴気も、周囲に四散していく。李玄は霊力をとめて、日輪印をといた。
直霊が戻ったのだろうか? 鉄斎の魂は金色の光の中にあった。その霊魂は陽光を放つように温かみをましている。ああ、師匠が消えてしまう。ぽつりと目尻を涙が落ちた。その魂は、里よりも遠い故郷に帰ろうとしている。デュナンと鳳仙が手を合わせて辞儀をしていた。
霊魂の鉄斎には彼らの気持ちがじかに伝わる。光の中で彼は微笑む。世を去るときに、死を悼み涙を流してくれる者が側にいることは素晴らしいことだった。鉄斎もまたこの二人の弟子をどんなに愛していたか気づくことができたからである。
李玄は濡れた地面に手をついた。鉄斎が光りに溶けていきながら語りかけてきた。
――どんな苦難もお主達なら乗り越えられる。四魂を磨き、立派な霊術使いになれ。司馬の者はみな見守っているぞ
李玄はその場にひれ伏してしまった。
これまでのさまざまなことが一度に蘇った。里一番の術者の弟子になったと威張ったこと。七つの頃から、共に寝起きをして、同じ物を食い、同じ物を見てきたこと。厳しい修行をして叱られたことや、褒められたこととか、他愛もない話を聞いて貰ったことが、ありがたいと彼は思った。師匠は自分に時間をくれて自分をつくってくれたから。本当はその全ての気持ちを伝えたかったのだが、もう時間はなく、鉄斎の二つの魂は、直霊に導かれて天へと還っていく。
「師匠、これまでありがとうございました! 師匠!」
そして、二人は鉄斎の最後の遺言を聞いた。それは二人の切なる願いでもあった。魂が天へと召される最後に、鉄斎は、生き残れと告げたのだから。
13
鉄斎が消えると、結界の内側は、まるで地下の洞穴のごとく静まりかえってしまった。「最後の鉄斎殿のお言葉、私にも聞こえた」
どういうことだろう、と鳳仙は訊いた。
「それだけ、師匠は強く思ってくれたんだろう」
李玄は雨を拭う振りをしている。鳳仙は吐息をついた。
「鉄斎殿は行ってしまわれたのだな」
もうこれでこの世界に残る司馬一族は自分たちだけになってしまった。
李玄が振り向くと、鳳仙がさすがに肩を落としていた。彼は胸をしめつける甘酢い感情を不思議に思う。李玄は勝手に死ねない、と思った。師匠の言うとおりだったのだ。鳳仙を一人にしたくなかった。李玄は自分を納得させるようにうなずいた。不安で孤独かもしれないが、なんとなく力がわいてきた。
「俺とデュナンであいつを誘い出す。そこからは決してでないでくれ」
「お主一人で大丈夫なのか。もう霊力をずいぶん使ってしまったぞ」
「それはお前も同じだろう。そこにいるだけで霊力が減っていくはずだ」
鳳仙は答えなかった。
「お前の存在を玄武は知らない。きっとあいつの裏をかける」
「しかし……」
「師匠にも言われたろう。何があってもそこから出るな」
鳳仙が彼を睨む。わずかに悲しむような顔でもあった。この娘とて一人ではどうにもできぬのだ。
「師匠が残してくれた最後の術だ。成し遂げよう」と彼は言った。
鳳仙は顔を伏せている。以前の李玄を知るだけに不安なのだろう。が、顔を上げたときには、そんな色を微塵も見せなかった。彼女はただ静かに頷いたのだった。
「わかった。これを持って行け。結界術を封じた護符だ。貼りつければそこに結界が生まれる」
三枚の黄色い護符には赤い文字で呪文が描かれている。その方面には疎い彼には文字を読むことは出来なかった。
「お主に任せたぞ」
と鳳仙は言った。
14
自分が死に向かって歩いていることを知っている。心を乱すな、四魂を保つんだと李玄は自らに言い聞かせる。これまでにないほど霊力術を開眼できた。けれど、肝心の霊力がもうほとんど残っていない。多重結界と、曲霊封じに使ってしまった。
相手は鉄斎と互角に戦う化け物である。司馬の霊術と皇家の秘術をともに使える。自分がちっぽけに思えた。つい、体が強張りそうになる。
恐れちゃだめだ、生き残る努力を最大限するんだと言い聞かす。なぜか自然に涙がこぼれる。それは怖かったからというよりも、鉄斎と鳳仙が自分を思ってくれたからだった。立ち止まり、二人のために泣いたらだめだと乱暴に涙を拭う。
体には、鉄斎の残してくれた霊路霊丹の数々が、隅々にまで張り巡らされていた。だが、脳が恐ろしく疲れているのも事実だ。今日一日でこれまでにないほど酷使してきたのだから当然だろう。筋肉ならとっくに断裂していてもおかしくない。うまく温存しなければ、と自分を戒めた。疲労が濃すぎては冷静な判断を見失うかもしれない。死ぬことよりも、しくじる方が怖かった。
結界を出ると、音が復活し、匂いも濃くなる。油と鉄の香りが鼻孔をさしたのである。緊張に奥歯を噛みしめながら玄武の気配を探った。
「霊力の回復を待たれた方がよいのではござらぬか」
「だめだ、師匠の残してくれた結界も時間が経てば弱まってしまう」
彼らは鉄斎が生きているように装っているが、玄武はいつこのからくりに気づくかしれない。それに霊術の問題がある。高度な感覚がなくなる前に勝負を付けたかった。
彼は懐に結界符をねじこむ。わずかだが信念を持つようになっていた。以前なら、この体質を克服することが不可能なように思っていた。天才とうたわれた汪豹も相当の努力で克服したと聞いている。それだけに彼には父を尊敬する気持ちが強かった。鉄斎は、そんな自らに対する憤懣を打ち砕くかのように、霊力を完全に支配してみせた。使っているのは全く同じ肉体のはずだ。自分にも霊術が使えるのだ。
あいつは自分が霊術を使えるのを知らない。第一撃は油断を付けるはずである。
李玄は鉄斎から霊符を預かっていた。火術をこめた火符である。彼はそれを路面に貼りつけると、わずかに離れて真言を唱える。霊符を裂いて炎が噴き上がる。
「デュナン入ってくれ」
――よろしいので?
「ああ、奴は父上の体を使っているから、お前のことも見えるかもしれない」
デュナンが取り憑いた直後だった。
「貴様一人か小僧」
頭上から、汪豹の声が降ってきた。李玄は結界符を取り出し、デュナンは腰の剣を抜き出した。デュナンが素早く回転しながら、攻撃にそなえる。李玄は片手二指刀印を組んだ。
来るのが早すぎる。やつはどこだ?
「鉄斎はどうした。貴様一人ではあるまい」
玄武の声はぐるぐると回っているかのようだ。これでは出所がつかめない。李玄は目眩を堪えて怒鳴った。
「玄武! 姿を現せ!」
そのすきに霊力をソナーのように伸ばす。デュナンは右足を中心にしてじわじわと体を回していく。
「貴様一人でどう戦うつもりだ。抵抗して何になる」
「黙れ!」
「浮幽士の貴様は貴重だ。大人しく俺のいうことを聞くのだ」
「お前は父上を罠に嵌めたではないか」
「だからなんだ。貴様に何ができる」
「しれたこと、お前の手から父上を取り戻すんだ」
玄武の哄笑がした。「お前が父の何を知る? 鉄斎の何を? 司馬一族のことを何も知るまい。頑迷な長老共は全てを隠匿し、貴様らにはしらせようとしない」
「お前は誰なんだ……」
李玄は一瞬唖然となった。玄武のいいようはおかしい。あれではまるで――
――司馬殿!
デュナンが警告の声を上げる。玄武は彼の隙を見逃さなかったのだ。李玄は夢中で結界符を叩きつけた。霊符はコンクリートの上で微動しながら透明の結界を伸ばし、彼の体を足元から包みこむ。とっさに顔を上げると、四つの火球が彗星のように降ってきた。思わず腕を上げて顔をかばう。火球は見えない壁にぶつかり、平らにひしゃげて飛散していく。火の粉が結界の上を転がり、その音すらも耳に聞こえた。
「結界符か! 笑止な! 小僧、そこで固まるつもりか!」
黙れ――李玄は護符を体に叩きつける。結界が胸を中心に広がり、全身を包んだ。デュナンが意図を察して走ると、結界は李玄とともに移動する。
「これならどうだ!」快哉を上げたときだ。
「面白い奴だ」
耳元で声があがり、二人は夢中で飛び退る。李玄は胃の腑が裏返るような恐怖を覚える。玄武の顔が息が触れるほど近くにあったからだ。
こいつ、ほんとに一瞬で移動するぞ!
足元にはデュナンが見たという法陣が広がっている。しばらくぶりにみる父の姿だった。剣のかわりに松明を持っている。もう片方には、霊玉が七色にきらめく。父の顔はひどく青白い、その残酷な笑みを松明の赤々とした炎が照らし、不気味な陰影をつくっていた。
李玄は夢中で霊路を地に這わしていく。見つかるな。あいつの油断をつくんだ。
――奴はなぜ松明を?
――五大元素の種だよ。あれを霊力で増幅させるんだ
つまり霊術者といえど、無からは何も生み出せないのである。
上空で工場のランプがつぎつぎに弾け、ガラスと粉塵がふってきた。結界の上にパラパラと積もる。が、玄武にはなんの影響もない。形こそ違うが何らかの結界を張っているのだ。
汪豹の口を使い、玄武が怒号する。「お前は浮幽士としては完全ではない。霊術も使えず、父を攻撃できぬ貴様がどう戦う! 大人しく従え! 貴様のために言っているのだ!」
「馬鹿を言え! 死人になど従うものか!」
霊路が松明に届く刹那に、力を送る。火の元素が活性化し、温度を上げ、たちまち巨大な火の玉になり、玄武を飲みこむ。デュナンは快哉を上げたが、李玄はくそと言った。霊力をこめた火炎だから、内部の様子がわかるのだ。玄武にはなんの影響もない。
玄武は松明を大きく回しながら火炎を巻き取り、頭上に固める。太陽とみまごうような大火球である。玄武は回転を加えて投げつけた。李玄は息を飲んだ。とても、結界符では耐えられない。
「デュナン、あれを斬れ!」
デュナンが夢中で剣を振りかぶる。李玄はその剣に霊力をあつめる。真っ向から切り下げると、霊気の剣風が太陽を二つに斬り裂いた。半円の火の玉が李玄を避けるようにして左右に落ちた。結界はたちまち溶けて、胸の護符は塵になった。霊衣がバサリとはためいて、あちこちを焦がしていく。火炎は水をまき散らすようにして地面にぶつかり、炎の湖面を伸ばしていく。デュナンは頭をかばいながら炎を飛び越えすさった。李玄が残りの護符を胸に貼ると、途端に後頭部に衝撃が走る。霊気の玉をぶつけられたらしい。あやうく頭をかち割られるところだ。
李玄は夢中で下体を練り上げた、韋駄天の法をつかって逃走にかかる。
「貴様、鉄斎に何事か施されたな!」
声が上から降ってくる。デュナンが振り向くと、玄武が空中を飛ぶようにして走っている。
「あやつめ、空を飛びおった!」
「ちがう、霊力で空気を固めてるんだ!」術を放つのが見えた。「左に飛べ!」
デュナンは軽く跳ねたつもりだったが、韋駄天の法を扱い損ねて、左方の壁に激突する。李玄はこれまでこんな術をあつかったことがないのだから、デュナンも難儀なことだった。
寸前まで彼らのいた場所を霊気が見えない鎌のように薙ぎ払い、地面を断ち割っていく。簡易結界などまるで歯が立たない威力で李玄は青くなる。
「だめだ、師匠と互角に戦った奴と霊術合戦じゃかなわない」
李玄は辺りに霊路を伸ばして、鉄パイプをからめとった。これを槍のように投げつけながら、玄武の視界からどうにか逃れる。李玄は天地に身を眩ます法を用いた。
「今の内に隠れよう」
デュナンが慎重に走りだした。李玄は心の中で首をひねる。
「おかしいぞ、あいつが玄武なら、なぜこうも司馬一族の術を使えるんだ」
いくら汪豹の記憶や知識があるとて、使っているのは玄武自身のはずだ。皇兄の玄武が戦いに慣れているとも思えない。
デュナンが、巨大な機械の群れに隠れこむと、彼は必死に策を練った。どうやったらあいつを鉄斎の部屋に誘いこめたものか。自分まで入っては鳳仙が封印術を使えない。かといってこのまま戦い続けるわけにもいかない。下手をしたら鳳仙が見つかってしまうかもしれないのだ。
李玄が最後に確認したとき、玄武の霊玉はあきらかにしぼんでいた。あいつの霊力も無限ではないのだ。が、こちらの霊力も残り少ない。
李玄は蒸気を見つけると、霊気の球をつくって、中に蒸気を吸い集めた。あやうく火傷をしかかる。掌に浮かべてみる、ひどく高圧なのが自分でもわかる。思いの外うまくいった。球体の内部で真っ白な蒸気が渦を巻いている。霊気の壁を通しても火傷をしそうだった。霊術合戦は発想の勝負だと師匠に教わったが、まさしくそうかもしれない。
「俺は父上に怪我をさせられない。本気で攻撃するなんて無理だ。それに、あいつにはこんなもの通じっこない」
「何を弱気な……」
「あいつの攻撃をわざと受けよう。やられたふりをするんだ」
「そんなことをすれば鉄斎殿の二の舞だ」と難色する。「禁縛術をかけられてしまう。そうなったら戦えませんぞ」
「俺たちは師匠とはちがう。危険だが……」
李玄は簡単に説明した。それはデュナンにとって危険な方法だったが、デュナンは覚悟をきめてうなずいた。立ち上がり、周囲の様子を確かめる。めくらに逃げたようだが、李玄の誘導で二人は結界術の深くまで戻ってきていたようである。
「あと少しなんだ、やろう。命までは取られないはずだ」と自分に言い聞かせる。「あいつもこの世界じゃ、霊力を集めるのに苦労するはずだ」
きっと李玄の霊力も欲しがるはずである。
決意を固めるためにその場に剣を置いて物陰を出た。心臓が早鐘をうっている。胸の中で三倍までふくらんでいる。李玄は四魂を落ち着けようと、強く息を吸い、大きく吐いた。
工場の真ん中をはしる通路は、緑に彩色してあり、中央がわずかに盛り上がっている。李玄とデュナンはその通路を歩きはじめた。李玄はわざと手持ちの武器が見えるようにした。
「玄武! 決着をつけよう! これで最後だ!」
すると、玄武もまた物陰から無造作に身をさらした。李玄の霊力が残り少ないことに気づいているのだ。左手の霊玉は再び大きくなっている。あの中には朱仙おじの霊力も詰まっているのかもしれない。そう思うと、李玄は父でもある玄武をはっきりと憎んだ。
「あきらめがついたか」
「あきらめるもんか。だけど、この先には行かせない」李玄は全身に金剛力の法をしかけた。「お前は朱仙おじと羌櫂殿を殺した。師匠まで殺させないぞ」
蒸気をこめた霊丸を投げる。機械でも出せないような剛球だが、玄武はたやすくこれをかわし、霊丸は地面にめりこんでしまった。蒸気が穴から轟々と噴き出す。攻撃を外したようにも見えたが、狙い通りだ。玄武が李玄の懐をとる。霊力で高めたすさまじい体さばきだった。剣の達人デュナンもこれには対応できない。玄武は李玄の肩をつかみ上げると、上体を引き起こして、腹部に手刀を叩きこむ。
「叔父と同じ傷にしてやったぞ。ありがたく思え」
玄武の霊手が、腹を引き裂き、右の背まで突き抜けた。李玄は唸り声もたてられず、玄武の腕にもたれかかる。
「四魂を乱すなと師に教わらなかったか、出来損ないめ。死を早めたのはお前の方だ!」
玄武の腕から、何かが送りこまれてくる。禁縛術だった。玄武はなじるように舌打ちをする。
「このていどしか霊力が残っておらんのか。貴様を仲間にするのはあきらめたぞ」
玄武が腕を抜くと、緑の床に血雫が走る。李玄は内臓を引きずり出されるような痛みにのたうちまわった。玄武は苛立たしげに彼の頭髪をつかみ上げ、
「その年でこの程度しか霊術がつかえんとは情けのないやつだ。貴様の親父も落胆しているぞ」
こめかみをコンクリートに叩きつける。李玄はあまりの衝撃に意識を失いかけたが、どうにかこらえて気絶したふりをした。
玄武は弟子を片づけると、鉄斎の霊力を探し当てる。
「あの部屋か。積年の決着をつけてくれるぞ」
玄武は李玄の体をまたぐと、壁際の一室に向かった。李玄は薄目をあけて、その姿を見送る。内臓が激しく損傷して、口元からは血が溢れていた。李玄は血にまみれた舌を口の中に戻し、デュナン、頼む、と呟いた。
15
デュナンは玄武に見つからぬよう、李玄の体を抜け出した。その体には禁縛術が大穴をあけている。まるで真っ黒な刻印だ。幽体の彼はたちまち霊力を吸い取られていく、薄まってしまった。デュナンは腹に焼き付いた法陣を引きはがそうとするが、皮が伸びるように幽体が伸びるばかり。李玄は待ってろと声にならぬ声を発し、腹部にあいた大穴をおさえながらヨタヨタと立ち上がる。
デュナン、こっちにこい
声に出したつもりだったが、それは喉の奥でかすかになる風の音に過ぎなかった。李玄は悲鳴を上げてもがくデュナンに近づき、掌を霊力で固めると、法陣に指をかけた。そのとき、デュナンが暴れ、彼の体も左にふられた。片足で着地をすると、新たな激痛が総身を貫いた。
「でゅ、デュナン……」今度は声が出た。「待ってろ、デュナン」
ほとんど真下に倒れ込むようにして(事実そのとおりだったが)、法陣を引っぺがした。右肩から路面に崩れ落ちる。法陣もまた霊霧を上げながら床に貼りつき、奇怪な焼け焦げを残して消えた。
――司馬殿
デュナンが李玄の顔をのぞきこむ。
「デュナン……すまない。お前を消滅させるところだった」
舌がうまく回らない。思ったより、手ひどくやられた。霊力で傷をふがなければ死んでしまうかもしれない。李玄は激痛のあまり震えながら、いやだめだ、とかんがえる。霊力を温存しないと。まだあいつをやっつけたわけじゃない。
「デュナン、手を貸してくれ」
デュナンを取り憑かせることはもうできなかった。それだけで霊力を消耗するし、デュナン自体が危険な状態だ。
二人はともにフラフラと立ち上がると、かすむ目で鳳仙の隠れている方角を見つめた。ここがどの辺りか、もう冷静な判断ができなかった。李玄は足を引きずりながら歩き始めた。
16
「李玄!」
鳳仙が小声で叫ぶ。結界の中で印を組み、これも青白い顔をして彼を待っていたのだ。唯一の味方は血みどろである。こめかみに血を流し、下体も真っ赤になっている。李玄はこらえきれずに腹を屈し、獣のようにうめいた。鳳仙が立ち上がろうとしたので、首を振って止める。すると、血が口端からよだれのように垂れて、雫となって地面に落ちた。
「あいつは部屋に入った。封じてくれ」
「李玄駄目だ、霊力がもう……」
鳳仙が珍しく弱気な顔をして、小さな頭を左右に振った。そんな表情を初めて見る。本当にもう限界なのだ。自分は玄武との戦いに時間をかけすぎてしまった。玄武は消耗するごとに、霊力をかきあつめようとしたはずだ。
「俺の霊力も、霊力を使え。結界術を……」
李玄は足を引きずりながら、結界の中に入った。
「ひどい傷ではないか。それでは無理だ」
「無理じゃない。あいつを封じる機会はもうないんだ」
李玄は血みどろの手を鳳仙の印にそえる。鉄斎の策は結界を何層にもわけて張り巡らすことで、玄武の油断をさそうというものだった。その多重結界も一つにまとめれば、強力なものになるはずだ。
鳳仙は霊視を用いて、結界内の様子をさぐる。部屋の中では、玄武が鉄斎の様子を不審に思い、蹴り転がしてその生死を確かめようとしているところだった。李玄と鳳仙が真言を重ねて唱えると、鉄斎は死体ながらに腕を上げて、屈みこんだ玄武に組み付いた。二人はその鉄斎目がけて、結界を狭めていく。
まるで霊気の大渦だ。全てのものが、結界の中心めがけて引きずり込まれる。玄武のいる部屋は見えない力に圧縮されていった。鉄筋の構内が激しく振動して、機械や鉄板が横倒しになる。建物ごと結界に引きずられている。北側の壁が大きくひしゃげ、天井も大きく斜傾した。鉄骨やトタンが二人めがけて降ってくる。鉄の通路がすぐ脇に落ちた。鳳仙が目を閉じたまま、
「だめだ、建物がもたない」
「かまわない、封印するんだ」
二人は細胞に残った霊力までしぼりあつめた。大渦が最後の一巻きをすると、製鉄所は音を立てて崩れ落ちた。李玄と鳳仙もまた鉄骨の海に飲みこまれ、意識をなくしていったのだった。
17
司馬殿……司馬殿――
誰かが自分を呼んでいる。李玄は痛みのなかで目を覚ます。もう腹部は麻痺して鈍痛しか感じない。どうやらこれでおしまいらしい。
彼は師匠を成仏させたあとも、死というものがよくわかっていなかった。霊魂になるのか、それともデュナンのようにこの世に残るんだろうかと思った。できれば、あの世に生きたい、この世はもうたくさんだ。あの世に行って故人になった人たちに――母や鉄斎に会いたかった。けれど、デュナンは李玄の名を呼び続けている。
重い目蓋を開くと、引き裂かれた屋根の向こうに青空が見えた。彼の虚ろな瞳には激しすぎる光である。李玄は物に埋もれて立てない。ただ、デュナン以外の誰かが自分を見おろしているのが見えた。視力はどんどん弱まっていき、すぐにその姿も見えなくなったが。
李玄が意識をなくすと、デュナンは彼を守るようにしてその霊体との合間に立った。異国人のデュナンには男の正体はつかめなかった。
――契約霊がいたか。
男は幽体の顔をゆがめて冷笑している。
――小僧に伝えろ。今回はあなどったが、次はこうはいかぬ
――お主は何者だ。玄武ではないのか
男は答えなかった。デュナンに背を向けると、たちまち姿を消してしまった。
18
次に目を覚ましたとき腹部の痛みは本当に消えていた。完全にふさがったわけではいないが、ずいぶんとましになっていた。鳳仙が彼のことをのぞきこんでいる。なんだか心配そうな顔をしていたから、彼は妙にうれしくなった。鳳仙が生きていたことがうれしいし、心配されるのは面映ゆかった。
そう言えば、この娘はずいぶんと瞳が美しい……。
意識がようやくしゃっきりとした。李玄は慌てて起き上がり、
「玄武はどうなった? 父上はどこだ!」
「無理をするな」
と鳳仙は彼をいさめる。手には霊玉が握られている。玄武の使っていたものをどうにか探してきたようだった。
「そいつで治してくれたのか」
李玄は鳳仙の機転に感謝しながら、デュナンに目を向けた。デュナンが彼を起こしたのだから、彼はあいつのを見たはずである。しかし、デュナンは観念するように首を左右に振った。考えたら、自分だって玄武は見たことがない。
「そうか……」
と彼も肩を落とす。なんだ、と鳳仙が問うた。
「意識をなくす前、俺は誰かを見た気がした。霊魂だったみたいだ。父上があそこにいるのなら、抜け出したのは、きっと玄武だ」
「では、結界内に残っているのは」
そこまで言って、鳳仙は唇をきつく結んだ。聡明な娘だから、議論よりも確認の方が先と考えたようだった。
19
二人は瓦礫をはがして、結界の中心までたどりついた。汪豹は大人がやっと入るぐらいの小さな鉄の箱に閉じこめられていた。鳳仙が結界を解くと、鉄の壁がガラクタのように崩れ落ちる。汪豹の上体がぐらりと傾く。その背中には鉄斎がもたれかかっている。まるで、子が親を背負うかのようだ。李玄と鳳仙は二人の師匠の体をひきはがし、それぞれを床に横たえた。
全ての結界が崩壊したためか、外界の音が二人のもとにも届いてきた。聞いたことのないような高く不快な音がする。
ああ。李玄の口から溜息がもれた。汪豹の腹部は無残にひきさかれていたからだ。
「父上……」
汪豹はすでに目を開けている。鳳仙が霊玉を取り出したのをみると、よせ、と弱々しい声で言った。
「霊力を吸い取られるだけだ」
胸をかくような仕草をする。李玄が胸元を開くと、禁縛術が押印のように口を開けている。これでは回復術をかけられない。
汪豹が咳きこみ、すると人血が噴水のように飛散した。李玄が頭を持ち上げると、後から後から血がこぼれる。けれど、そうせねば汪豹はしゃべれぬようだった。李玄は、ああなんでだ、と泣きたい気持ちで思った。なんで、父上なんだ。殺すなら、役立たずの俺にすればいい。父上は里にだって、必要なんだ。
けれど、もう遅かった。鉄斎の死も全て無駄になったのだ。
「すまなかった……すまなかった」
と汪豹は二人の弟子に謝る。鳳仙は涙を浮かべて頭を振る。手と霊玉に涙が落ちて痕をつけた。
「鉄斎殿は亡くなったのだな」
と溜息をつくように言う。実際には鉄斎は彼の脇に横たわっていたが、もう目が見えぬようだった。汪豹が片腕を上げた。見えぬ何かをつか蒙としているようだった。
「朱仙を、羌櫂の体をのっとるつもりだ。追って、追ってしとめねば……」
李玄と鳳仙は顔を見合わせた。あの二人は生きていたのか。しかし、玄武ならそうしていてもおかしくない。汪豹の体がだめになったとき、逃げこめる肉体ならいくつあってもいいはずだ。だけど、あいつは契約霊ではないんだろうか。
「師匠、もうよいのです」
鳳仙はやさしく汪豹の手を握る。汪豹はわずかな間目を閉じて、また開けた。瞬息、意識をなくしたようだった。
「李玄――李玄は大きくなったのか……」
私はここにいます、と李玄は言った。汪豹は声のする方に首を傾けようとした。李玄は父の広い背中に腕を通してこれを助けた。父を抱くのは初めてのことだった。
汪豹と李玄は久方ぶりに目を合わせている。互いに涙をこぼし、何かを通い合わせていた。霊路でもなんでもない、親子の親愛の情がある。李玄はこの人の息子なんだと強く思った。汪豹は彼を愛してくれたから。そのことを目で語っていてくれたのである。
「お前の成長が楽しみだった。お前の……」
汪豹はしゃべりはじめたが、もう口を開けることもできぬようだった。声がひどく小さくなる。眼から何かが失われていく。汪豹の魂は肉体を離れようとしている。手紙をありがとう、と汪豹は言った。それは、もう聞き取れぬほど小さな声だった。
「父上、死なないで下さい。父上」
と李玄は父をゆさぶる。鳳仙が肩をつかんだ。李玄が顔を上げると、汪豹の耳に口を近づけ囁いた。
「汪豹師父、我々が相手をした者は何者です。あなたは玄武兄を殺したのですか?」
李玄はひゅっと息を飲んだ。
しばし間が空いた。二人は汪豹が死んでしまったものと思った。しかし――
「ほうけん……」
と汪豹はつぶやいた。それが最後の息だった。腕に重みがかかったかと思うと、汪豹の頭は急に後ろに下がってしまった。鳳仙がその頭を支えた。
「父上!」
李玄は汪豹の胸に顔をうずめた。全身をよじりはじめた。もうこらえきれなかった。
気がつくと、鳳仙が彼の髪を撫でていた。
「すまなかった。私はどうしても聞かねばならなかった……」
李玄は夢中で父の亡骸に語りかけた。父がいなくてどんなにさみしかったか、どれだけ愛していたのか、これまで離れていた年月分の思いを語りたかった。
それは、いくら語ってもつきることはなく、また伝えきれることではなかったのだが。
20
二人は長い間そこにいたようだった。けれど、時間はそう経っていなかった。瓦礫の向こうでは別界の人々がうごめく声がしたが、まだ近くにはいないようだった。
ほうけん、と最後に口にしたのが、なんなのかはわからなかった。二人は本界に戻る術をなくし、秘密を握る何者かも逃してしまった。
李玄は汪豹を抱えると、ことさら背を伸ばしてあるきはじめた。妙に大人びた表情だった。鳳仙は鉄斎を背負っている。そして、李玄と鳳仙は二人の亡骸を連れて、その場所から姿を消した。それは二人の長くも辛い旅の、最初のはじまりにすぎなかった。
□ 第 一 部 完
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