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62)母と思い出の海
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「海……。いえ、本物を見た事はありません。母が好きだった海を、いつか見てみたいとは思っているのですが」
「日和は母親を覚えているのか?」
「はい。覚えていると言っても顔は朧げですが……。恐らく私が土谷田様に買われる前。母はよく私を背におぶって、子守唄代わりに海の歌を歌ってくれておりまして」
それは私の中にごく僅かに残る、懐かしい母の記憶だった。
私を寝かしつける際、潮の香りがする海沿いの道を歩きながら、母は背で微睡む私に言ったのだ。
「日和。あなたは本当にいい子ね。大好きよ。私の宝物」
それは私が間違いなく、母に愛されていた記憶。
愛玩奴隷として売られた身ではあるけれど、私は母に愛されて生まれてきた。
その後どんな事情があってあのお屋敷に売られたのかは分からないけれど、少なくとも私は母に望まれてこの世に生を受けたはずだ。
売られたときだって、きっとやむを得ない事情があったのではないかと今は思える。
勿論、幼かった頃の私は母を想い、耐え難いほど寂しさを感じた夜もあった。
けれど、その後新たに屋敷に買われてきた子供達の世話を焼き、日々の仕事に追われるうち、いつの間にか寂しさは紛れていた。
もう母の顔を朧げにしか思い出せなくなってしまったけれど、幼い仲間たちを寝かしつける際に子守唄として歌っていたあの海の歌だけは、私の記憶に残り続けている。
「そうか。それなら今から海を見に行こうか」
「えっ、よろしいのですか? どこか行きたい場所がおありだったのでは?」
「いや、一時的に居場所をくらませたらそれでいいんだ」
そうお答えになった水湊様は、少しだけ穏やかな視線を私へと向ける。
「それに日和とは一度ゆっくり話してみたいと思っていた。仕事に忙殺されてなかなか時間が取れなかったが、ちょうどいい機会だ。もう少しだけ、私のドライブに付き合ってもらえるか?」
「はい、勿論です。私も水湊様とお話出来て嬉しいです」
「無論。時間外手当はきちんと出す」
「……っ」
水湊様のお誘いに喜びかけた私の気持ちは、その言葉に少し萎んだ。
時間外手当……。それは私達にとってこのドライブが『あくまでも仕事』という扱いになる、ということだ。
お金はもちろん大切だ。けれど……。
「…………」
少し考えた私は、水湊様へ向かって首を横に振った。
「手当なんて要りません」
驚いた表情の水湊様は、じっと私を見る。私はなるべく重い空気にならないよう、務めて明るく答えた。
「ご厚意で私を海に連れて行ってくださるのに、お給料なんていただけません。それに私もずっと、水湊様とゆっくりお話してみたいと思っておりましたから」
私が微笑みを浮かべてそう答えると、水湊様は大きく目を見開いた。
私に本物の海を見せてくださると言ってくださった水湊様。
それは、休みの日に私に勉強を教えてくださる詩月様や、街へ連れ出しては世の中の仕組みについて教えてくださる律火様とどう違うのか。
気軽に誘ってくださる律火様や詩月様に比べ、水湊様は少し不器用なのかもしれない。
そんな彼を少しだけ微笑ましいと思ってしまったのは私だけの秘密だ。
「――――考えておく。しかし夜明け前はやはり冷えるな。そろそろ車に戻るぞ」
ふいっと視線を逸らした水湊様はぽつんとそう仰って、私を伴って車に戻る。
その後再び口を開くことはなく、水湊様は車を発進された。
冬の夜明けは遅く、夜明けまではまだ時間がありそうだ。ハンドルを握りながら、水湊様はポツリと口を開く。
「屋敷での生活にはもう慣れたか?」
「はい、お陰様で。屋敷の皆さんにもとても良くして頂いています。最近は詩月様にもその……寝所へお呼び頂けるようになって……」
「抱いて貰えるようになった……?」
「あっ、いえ。それはまだ……」
私が困ったように表情を緩めると、水湊様もふっと口元を緩められた。
「詩月は警戒心が強いが、気に入った者へ対しては面倒見がよく優しい。詩月に気に入られるのは並大抵ではないが、無防備になる寝所に呼ぶほどに気にいられたのなら大したものだよ」
「いえ、そんな……。あの、実は……」
本当は律火様のお口添えで何とか呼んで頂いたのですが……。
そう言いかけたけれど、あんな宿題を頂いたのだからきっと二度目もある。次こそは、きっと。
そう思い直して、私は「いえ、ありがとうございます」と水湊様に素直に返事を返した。
「長年就いていた仕事とはいえ、日和は本当に好きでもない人間……まして同性である男に抱かれるのは、嫌ではないのか?」
「日和は母親を覚えているのか?」
「はい。覚えていると言っても顔は朧げですが……。恐らく私が土谷田様に買われる前。母はよく私を背におぶって、子守唄代わりに海の歌を歌ってくれておりまして」
それは私の中にごく僅かに残る、懐かしい母の記憶だった。
私を寝かしつける際、潮の香りがする海沿いの道を歩きながら、母は背で微睡む私に言ったのだ。
「日和。あなたは本当にいい子ね。大好きよ。私の宝物」
それは私が間違いなく、母に愛されていた記憶。
愛玩奴隷として売られた身ではあるけれど、私は母に愛されて生まれてきた。
その後どんな事情があってあのお屋敷に売られたのかは分からないけれど、少なくとも私は母に望まれてこの世に生を受けたはずだ。
売られたときだって、きっとやむを得ない事情があったのではないかと今は思える。
勿論、幼かった頃の私は母を想い、耐え難いほど寂しさを感じた夜もあった。
けれど、その後新たに屋敷に買われてきた子供達の世話を焼き、日々の仕事に追われるうち、いつの間にか寂しさは紛れていた。
もう母の顔を朧げにしか思い出せなくなってしまったけれど、幼い仲間たちを寝かしつける際に子守唄として歌っていたあの海の歌だけは、私の記憶に残り続けている。
「そうか。それなら今から海を見に行こうか」
「えっ、よろしいのですか? どこか行きたい場所がおありだったのでは?」
「いや、一時的に居場所をくらませたらそれでいいんだ」
そうお答えになった水湊様は、少しだけ穏やかな視線を私へと向ける。
「それに日和とは一度ゆっくり話してみたいと思っていた。仕事に忙殺されてなかなか時間が取れなかったが、ちょうどいい機会だ。もう少しだけ、私のドライブに付き合ってもらえるか?」
「はい、勿論です。私も水湊様とお話出来て嬉しいです」
「無論。時間外手当はきちんと出す」
「……っ」
水湊様のお誘いに喜びかけた私の気持ちは、その言葉に少し萎んだ。
時間外手当……。それは私達にとってこのドライブが『あくまでも仕事』という扱いになる、ということだ。
お金はもちろん大切だ。けれど……。
「…………」
少し考えた私は、水湊様へ向かって首を横に振った。
「手当なんて要りません」
驚いた表情の水湊様は、じっと私を見る。私はなるべく重い空気にならないよう、務めて明るく答えた。
「ご厚意で私を海に連れて行ってくださるのに、お給料なんていただけません。それに私もずっと、水湊様とゆっくりお話してみたいと思っておりましたから」
私が微笑みを浮かべてそう答えると、水湊様は大きく目を見開いた。
私に本物の海を見せてくださると言ってくださった水湊様。
それは、休みの日に私に勉強を教えてくださる詩月様や、街へ連れ出しては世の中の仕組みについて教えてくださる律火様とどう違うのか。
気軽に誘ってくださる律火様や詩月様に比べ、水湊様は少し不器用なのかもしれない。
そんな彼を少しだけ微笑ましいと思ってしまったのは私だけの秘密だ。
「――――考えておく。しかし夜明け前はやはり冷えるな。そろそろ車に戻るぞ」
ふいっと視線を逸らした水湊様はぽつんとそう仰って、私を伴って車に戻る。
その後再び口を開くことはなく、水湊様は車を発進された。
冬の夜明けは遅く、夜明けまではまだ時間がありそうだ。ハンドルを握りながら、水湊様はポツリと口を開く。
「屋敷での生活にはもう慣れたか?」
「はい、お陰様で。屋敷の皆さんにもとても良くして頂いています。最近は詩月様にもその……寝所へお呼び頂けるようになって……」
「抱いて貰えるようになった……?」
「あっ、いえ。それはまだ……」
私が困ったように表情を緩めると、水湊様もふっと口元を緩められた。
「詩月は警戒心が強いが、気に入った者へ対しては面倒見がよく優しい。詩月に気に入られるのは並大抵ではないが、無防備になる寝所に呼ぶほどに気にいられたのなら大したものだよ」
「いえ、そんな……。あの、実は……」
本当は律火様のお口添えで何とか呼んで頂いたのですが……。
そう言いかけたけれど、あんな宿題を頂いたのだからきっと二度目もある。次こそは、きっと。
そう思い直して、私は「いえ、ありがとうございます」と水湊様に素直に返事を返した。
「長年就いていた仕事とはいえ、日和は本当に好きでもない人間……まして同性である男に抱かれるのは、嫌ではないのか?」
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