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第一章 常春と真冬編

9)拉致。【残酷な表現あり】

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「ねぇ、常春。ハグ、して」


 あの日から、俺は常春にちょくちょくハグをねだるようになった。常春から香るお日様の匂いと温かな体温は、もはや俺の日々の精神安定剤だった。
 優しい常春がハグをねだる俺を断る訳もなくて、俺はついついそれに甘えていた。

 常春はいつもお日様みたいに笑っていて、俺を温かくハグして受け入れてくれる。
 常春の側はいつだってとても居心地が良かった。





◇◆◇◆◇◆






 その日は、冷たい雨だった。
 霧のような細かい雨粒は繁華街の雑居ビルをしっとりと濡らした。時折びゅうっと音を立てて壁面を擦る風は、人々を嘲笑うかのように下から雨粒を巻き上げて、色とりどりの傘を煽った。

 その人物が現れたのは、昼のラストオーダーが終わった、ちょうどその頃だった。


「あの……こんにちは。常春、いるかしら?」


 暖簾を仕舞おうと外に出た俺に声をかけたのは、二十代後半位のすらりとした綺麗な女性だった。


「中に居ますけど……お知り合いですか?」


 俺はそう言いながら、暖簾が濡れないように先にしまい、女性を店内に招き入れる。


「常春ー? お客さ……ん……」


 何気なく振り返った俺が困惑したのは、常春がその客の顔を見るなり、俺の見たことのない顔をしたからだ。


明子あきこ……!」


 常春に明子と呼ばれたその女性は、入り口の前で立ち止まったまま、困ったような顔で微笑んだ。


「常春、久しぶり……。お店が終わったら、ちょっと時間……いい?」
「あ、ああ……。悪い、真冬。あと、頼めるか? ちょっと、出てくる」
 

 常春は血の気が引いたような白い顔で、表情がない。
 ラストオーダーが終ったばかりの店内には、まだ僅かに客が残っていて、普段の常春ならば絶対にそれを俺一人に任せるようなことはしない。


「え……。でも…っ」


 困惑した俺の言葉を封じるように俺の手を握った常春は、今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。


「真冬……、悪い。……頼むよ……」
「……っっ。うん」


 その顔は卑怯だ。
 店の真ん中で立ち尽くす俺を残し、常春はエプロンを外して女性と共に店を出ていった。
 店内に残る客のざわめきの中で、俺は戸惑いと困惑の狭間で必死に平静を装っていた。

 常春はその日、俺が夜のバイトで店を出る時間まで、店に戻ることはなかった。





◇◆◇◆◇◆






「まーふゆっ。今日ぼーっとしすぎ」


 俺の背後から現れたのは、珍しく長いさらさらの髪をアップに結い上げた雪平で、気がつけば俺はカウンターの中で同じグラスを十分以上磨き続けていた。


「あ……、ごめん」


 我に返って見回せば、薄暗いバーの店内には既に片付け待ちのテーブルがチラホラとある。俺は慌ててトレーと消毒用のアルコール、ふきんを持ってカウンターから出た。


「別に良いけど。最近調子良さそうだったのに、また眠れないの?」
「あ、いや。なんでもない」


 ……そうだ、なんでもない。常春の知り合いの女性が店に来て、一緒に出かけた……。ただ、それだけだ。


「そう? 僕、もう上がる時間なんだけど、本当に大丈夫? もう少し残ろうか?」
「大丈夫。最近はちゃんと眠れてるし、ちゃんと食べてる。こないだ一週間も休んだばかりなのに、雪平にそんな迷惑かけられないよ」
「……そう? じゃあまた。お疲れ様」


 俺が無理矢理作った笑顔を雪平に向ければ、雪平はため息をついてバックヤードに消えた。





◇◆◇◆◇◆





「うー、寒っ」
 

 俺がバイトを終えて外に出る頃には、昼間の霧雨は土砂降りに変わっていた。強い風がビュウビュウと吹き荒れ、大粒の雨を看板のネオンに叩きつけている。いつもはにぎやかな夜の街も、今夜ばかりは人影が少なかった。
 

「常春……迎えに来るかな……」


 ここ数日、バーのバイトの帰りは常春にメールを入れて、バー近くのコンビニまで迎えに来て貰っていた。けれど、昼間の常春のあの様子では、迎えをねだるのは気まずい。ましてや、この雨と風だ。

 スマートフォンを取り出した俺は迷った末に『今日は一人で帰れる』と常春にメールを入れて、傘をさして夜の街を歩き始めた。

 傘からはみ出た俺のスボンや靴は、ものの数秒でずっしりと雨水を吸い、家路への足取りを妨げるかのように重く俺の足に張り付いた。
 強い風に裏返りそうな傘を必死で押さえ、俺が身を低くしてよろめいた、その時。

 
 ガツン……!!!!


 背後から、なにか硬い物が俺の後頭部を襲った。ぐらりとアスファルトに倒れ込んだ俺の口元に、強い薬品臭のする布があてがわれる。

 薄れゆく意識の中で俺の瞳が最後に捉えたのは、ニヤリと笑みを浮かべたあのクソハズレ男の姿だった。






◇◆◇◆◇◆






 あれから三日三晩、俺は男に監禁され、毎夜のように嬲られ続けた。
 食事も睡眠も水すらもろくに与えられず、性的拷問によって痛みと苦しみばかりを与えられた。

 痛みを与えられれば身体は悲鳴を上げたし、傷をつけられれば血が流れた。苦しみを与えられれば嗚咽や涙が溢れた。

 俺の体は限界まで嬲り抜かれて、さながら連日拷問を受けた捕虜のようだった。

 けれども俺の意識は不思議とクリアで、最後はテレビ越しに自分の姿を見ているような、そんな感覚だった。

 やがて俺は、鞭で叩かれようが、足で蹴られようが、無理矢理挿入されようが、もう声すらあげられないほど衰弱していった。

 あんなに望んでいた死が、とてもすぐ近くまで来ている気がした。


「死に……たい……。早、く……、死に、た……い……」


 そう呟いた瞬間、常春のお日様のような笑顔が脳裏に浮かんで、とっくに壊れたと思っていた俺の涙腺から、ポロポロと涙が溢れた。


「常春……」


 そこまで来てようやく、俺はプツリと弱く細い意識の糸をするりと手放した。






 翌日の深夜、俺は監禁を解かれて、まるでゴミのように、人気の無い路地に捨て置かれた。
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