桐之院家の日誌

斉凛

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●八ペエジ

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 また秋がきた。私がこの家にきて一年になる。
 掃除の手を止めて紅葉もみじの木を見上げた。今はまだ緑の葉と赤い葉が混じり合っている。これから赤い葉が増え、枯れて落ち、枝だけになるだろう。
 少しづつ朽ちていくさまは、静かに死を待つ旦那様のようだ。

 もし……旦那様が亡くなられたら、御坊ちゃまは悲しまれるだろうか?
 それとも長年の苦悩から解き放たれるのだろうか?

「美佐。大丈夫かい?」

 ぼんやり紅葉を見ながら物思いにふけっていて、御坊ちゃまがすぐ側にいる事に気づかなかった。

「あの……旦那様は御坊ちゃまの自由にしていいと、おっしゃったのですから、留学に行かれますし、嬉しくはないのですか?」

 御坊ちゃまは複雑な表情を浮かべてぽつりと零す。

「自由というのは、船に似てる。帰る港があって、船を地上につなぎ止める碇がなければ、難破船になって海の藻くずになってしまう」

 御坊ちゃまはそっと紅葉に手を伸ばす。一番赤く枯れかかった葉に触れ、むしり取った。

「僕の生まれた家は、桐之院家みたいに立派な家じゃなかったけど、幸せだった。その幸せは永遠に続くと信じて疑わなかった。でも……ある日突然、幸せがむしり取られ、世界の泥に突き落とされた」

 御坊ちゃまの手で、ぐしゃりと潰された紅葉は、まるで御坊ちゃまの心のようだ。

「父と思う必要も無いと言われた時、僕はまた泥の中に突き落とされたように感じたんだ。桐之院家の跡取りの地位は僕を世界につなぎ止める碇で、それを失ったまま留学に行ってしまったら、帰る港を失うかもしれない。そんな気がする」

 御坊ちゃまは何も知らない。でも何か問題があると感じている。感じてるだけで、理由もわからず混乱している。

「最近美佐の様子がおかしいけど、何かあったのかい?」

 ……まだ言えない。
 今の不安定な御坊ちゃまに旦那様の話をしたら、勉強に障りがでてしまう。
 御坊ちゃまは卒業前の一番重要な時期。旦那様も大人しくしていれば、まだ一~二年の猶予はあると言っていた。

「申し訳ありませんが、今はまだ言えません。御坊ちゃまは卒業前の大事な時期なので。でも……それが終わったらお話します。だから信じてください」
「嘘はつけない美佐だからね、その言葉を信じるよ。僕のことを第一に考えてくれるのが嬉しい。だから勉強の手は抜かない。できるだけ早く終わらせるから、待っててくれ」

 柔らかく微笑んで信じると言ってくれたのが、泣きそうなくらい嬉しかった。
 この日のことも日誌に書いて、旦那様に見せた。御坊ちゃまの気持ちを知ってもなお、旦那様は揺るぎもせずに、静かに死を待っていた。



 世間は師走で忙しい時期だが、まるで世間から切り離されたようなこの屋敷では、今まで通りの静かな日常が続いた。
 そして年が開け、数日がたち雪が降ったある日。慌てたように御坊ちゃまが帰ってきた。

「美佐。卒論をだしてきた。これで一段落ついた。約束通り話をしてくれないか?」

 ずっと気になっていたのだろう。それでも必死にやるべきことをやって終わらせた。そんな真面目な御坊ちゃまはご立派だと思った。
 ずっと悩んでいたけれど、覚悟を決めて頭をさげる。

「申し訳ありません。実は……旦那様のご命令で、御坊ちゃまに内緒で、ずっと日誌をつけていたんです」

 そう言って日誌を差し出した。直前に旦那様の体調の事も書きくわえた。御坊ちゃまはそれを無言で受け取って、一晩かけてじっくり読み込んだ。

 翌朝、怒られるかと覚悟したが、御坊ちゃまは思いのほかすっきりした顔をしていた。
 窓際に立って、御坊ちゃまは雪が積もった庭を眺める。その視線の先には、桜の木があった。

「日誌というのは、不思議なものだね。自分で言った言葉なのに、文字にして改めて見ると色んな発見があった」

 御坊ちゃまは自分を馬鹿にするみたいに微笑を浮かべた。不安に振り回され、自分で自分の事がわかってなかった。日誌を通し冷静に自分の言葉を見つめ返したら、問題を整理できたと語った。

「僕は父上の子供でいたかったから『どうしたらいいか』と聞いて、その答えをもらえなくて辛かったんだね。父上が恐ろしいと思ってたはずなのに、僕はいつのまにか子供として愛されたいと願っていたんだ」

 恥ずかし気に目を伏せた御坊ちゃまの表情は明るかった。瞳の奥のあの憂いが消えて綺麗に澄んで見える。

「僕は一度世界の泥に突き落とされた。でも父上が沼に落ちた僕を引き上げて、もう一度世界につなぎ止めてくれたんだ。桐之院家の跡取り息子という地位ではなく、父上の子供でいることが、泥の海に沈まないための碇だ」

 疑心暗鬼に囚われ、大切な事を見失ってた。その事にやっと気がついたと御坊ちゃまは言った。

「美佐。今まで日誌をつけてくれて、ありがとう。父上と自分の事がよくわかって……気が楽になった」

 綺麗な微笑みに胸が熱くなる。
 旦那様には御坊ちゃまの声は届かず、御坊ちゃまは旦那様の事情を知らない。日誌を通してやっと、少しだけ両者が理解できるようになったのだ。

「僕は父上の事をもっと知りたい。父上は死にたがっているのだろうが、僕は死んで欲しくない。だから説得する。美佐にも手伝って欲しい」

 御坊ちゃまのまっすぐな想いに、私は小さく頷いた。

 ーー返された日誌に、涙の跡のように滲んだ所があった。御坊ちゃまの苦悩の跡なのだろう。
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