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4,芽室貴音
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今度は嫌なことや面倒事を押し付けられても断れる人になりたいと誓ってはじまった高校生活だったは、ある日のホームルームで簡単に崩れ去った。
黒板に書かれているのは、各委員会とそれに所属する生徒の名前。このクラスの生徒は何かしらの部活に所属する人がほとんどで、帰宅部だった私は早々に狙われることとなった。中でも月に数回放課後に図書の貸し出し係をする図書委員会は、部活に所属する生徒には向かない。不人気すぎて誰の名前も書かれていない図書委員のところで、担任が指名したのは私だった。
「池田。お前、図書委員やらないか?」
その言葉でクラスメイトたちの注目が私に向けられる。皆して『助かった』とばかりに期待に満ちた目を向けてくる。
今にして思えば、放課後に残ることもないような委員会で立候補しておくべきだったのだ。図書委員になってしまえば隠れ場所に行く時間が減ってしまう。
断り文句を探すも見つからない。担任はというと「部活に入っていない生徒は委員会に入った方がいい。受験で有利だぞ」なんて勧めてくるので、より退路が塞がれる。そんな未来の話をされても夏休みが終わったら地球が殺されてしまうのに。そう思っていても言えないのは、クラスメイトや担任に信じてもらえる気がしないから。
「……わかりました。やります」
結局選んだのは逃げることだった。図書委員になれば、クラス中の視線を浴びているこの状態から解放されるだろう。月にたった数日だから少し我慢すればいい、そう自分に言い聞かせた。
そして五月に入りゴールデンウィークの終わった頃。それはやってきた。
初めての貸し出し係ということもあって、しばらくは上級生とペアで当番になるらしい。本は好きだが、本を読む人を眺める作業は好きじゃない。
憂鬱な気分を引きずりながら図書室に入ると、貸し出しカウンターの向こうに男子生徒がいた。
お世辞にも本が好きそうには見えない、茶色の髪。自分で染めたのだろうか。目立つほどの金髪でなければ多少の染髪は許されている学校といえ、真面目そうには見えない姿は図書室で浮いているようだった。
男性に対して特別な苦手意識を持っているわけではないけれど、いわゆる軽そうな男の人というのはあまり好きではなかった。耀くんをいじめていた人たちも髪を明るく染めてピアスを付けたりと派手な格好をしていたから、どうしても構えてしまう。
「図書委員当番の池田です、けど」
私が声をかけると、カウンターの向こうで本を読んでいた男子生徒は顔をあげた。
「あー。一年の子って君なんだね。よろしく」
返ってきたのは想像よりも陽気なもの。読んでいた本を置き、カウンターテーブルを上にあげて、私を呼んだ。
貸し出しカウンターの中に入ると、男子生徒のものだろう鞄が置いてあった。学校指定のスクール鞄と、その横にスポーツバッグ。同じメーカーのスポーツバッグをクラスの男子が持っていた気がする。確かサッカー部、だったような。
「オレ、二年の芽室貴也。よろしくね、池田ちゃん」
池田、までは慣れている呼び方だけど、池田ちゃんと呼ばれるのは滅多にない。女子ならまだしもそれが男子となれば余計に。
「芽室先輩ですね。よろしくお願いします」
「うんうん。いいねー、その先輩って呼ばれ方」
外見からあまり得意ではないと思っていたが、言葉を交わしてもその印象は変わらない。距離感無視とばかりに陽気に話しかけてくる姿は、私には眩しすぎる。いじめとは無縁の楽しい学生生活を送ってそうな人だと思った。いじめられるよりもむしろいじめる側にいそうな――そこまで考えて、ふと思いだす。
芽室先輩を、どこかで見たことがある。
「……もしかして、どこかで会ったことがあります、よね?」
芽室先輩を軟派だと軽蔑していたのが嘘のように、口から出たのは新手のナンパのような言葉。それをぶつけられた芽室先輩は目を丸くして私を見つめた後、こみあげた笑いを吹きだした。
「ははっ、池田ちゃん面白いこと言うね。オレ、ナンパされてるみたい」
それは確かに。と私も心中で認める。でも頭の奥は冷静にあの日のことを思いだそうとしていた。
耀くんがいじめられていたあの昼休み。私はこの人を見た気がするのだ。特徴的な茶髪の髪に、青いネクタイ。茶髪の上級生なんて他にもいるだろうけど、襟足を長く伸ばした髪型はあまり見かけない。
もしあの昼休みにこの人と会っているなら――ふつふつと湧きあがるのは芽室先輩への嫌悪だった。だってこの人は、耀くんがいじめられている現場を目撃しているのに、何もせずに通り過ぎていったのだから。
この嫌悪を認めるために、さらに私は聞く。芽室先輩は笑っていたけれど、私はうまく笑えそうになかった。
「二年の耀く……穂別先輩がいじめられていた時、芽室先輩を見かけた気がします」
すると芽室先輩はあっさり「そうだね」と頷いた。
「オレも、池田ちゃんを見かけたよ。その時は名前を知らなかったけど、一年の子がいるのは珍しいなって思ってた」
「それだけ、ですか?」
あの場に生じていた問題は私がいたことではない。耀くんがいじめられていたということ。それを語らない苛立って冷たく聞くと、芽室先輩は苦笑した。
「それ以外に何かある?」
「あの場にいたのなら穂別先輩が何をされていたのか知っているはずです」
「そりゃ見ていたけどさー。だからってオレにできることないでしょ」
面倒だとばかりに言い放つ芽室先輩に、怒りが爆発する。相手が上級生ということをわかっていても言わずにはいられなかった。
「……最低です」
一瞬、芽室先輩の目が丸くなった。それからじわじわと細まり、視線は私から外れて図書室のどこかへと向けられる。そしてぼそりと小さく呟いた。
「わかってるよ。そんなこと」
わかっているのならどうして動かないのだろう。そんな傷ついたような顔をして、耀くんの方がもっと傷ついていたんじゃないのか。芽室先輩が許せなくて、じっと睨みつけていると再びその唇が動いた。
「池田ちゃんは、あいつと仲がいいの?」
「仲良し……はわかりませんが、知り合いです」
「そっか。じゃあ、あいつがいじめられている理由も聞いた?」
息を、呑む。頭は芽室先輩への軽蔑で占めていたのに、この一言によって端の方からざわざわと波打ちはじめる。私にこの質問をしたということは、芽室先輩は耀くんがいじめられている理由を知っているということだろうか。それとも知らずに、確かめるために私に聞いているのか。あらゆる推測が生じて、不安を煽る。簡単に返答はできそうになかった。
その動揺は私の表情にも表れていたと思う。隠す余裕なんてなかったから。けれど芽室先輩は視線を動かさず、図書室のどこかをぼんやりと見つめたまま。
「まだ、言ってないんだ」
その呟きの意図を読み解けるほど、芽室先輩と親しいわけではない。だから私は、芽室先輩を見上げていることしかできなくて。
私が耀くんに聞けなかったいじめの理由を、彼は知っているのだ。心がざわつく。耀くんが話してくれるまで待たなきゃいけない、勝手に探ってはならない。そう自制しようとしても、好きな人のことを知りたい貪欲さが先走って、手を伸ばそうとする。
「……さあ、お仕事しよう。貸し出し係のお仕事は簡単だからすぐに覚えられるよ」
手を伸ばしかけたところで、ふっと芽室先輩の表情が緩んだ。さっきのやりとりなんて忘れたとでもばかりに、表情は明るいものへと変わっている。私が芽室先輩のことを最低と言った冷ややかな空気すら、貸し出しカウンターの中に微塵も残っていない。
私も溢れそうになった貪欲な感情を飲みこんで頷く。豹変したかのように明るく振る舞う芽室先輩に、これ以上耀くんのことを聞けそうにはなかった。
「このボックスに学年とクラス別にわけた貸し出しカードがあるから。生徒の名前とクラスを確認してからカードを探してね。使い終わったらちゃんと学年とクラス別のボックスに戻して」
「わかりました」
「貸し出し作業以外は本棚を並べ直したり返却本を戻したり、あとカウンター内の掃除かな。ごちゃごちゃしてるでしょ」
芽室先輩の言う通り、貸し出しカウンター内は散らかっていた。図書委員だよりを作っていたらしい下書きの紙がぐしゃぐしゃに折れ曲がってカウンターの下に落ちている。
「……ま。真面目にやってる子は少ないんだけどね」
「芽室先輩も不真面目の方ですか?」
「どうだろ。池田ちゃんにはどう見える?」
「初日なので。芽室先輩の仕事ぶりはわかりません」
くすくすとからかうような笑みを浮かべて、芽室先輩がカウンターに肘をつく。
「なるほど。池田ちゃんは素直な子なんだね、真面目に仕事をしてくれる図書委員になりそう」
「……はあ」
そうしているうちに、本を借りにきたのだろう生徒がカウンターへやってきた。芽室先輩は「見ててね」と言って、手際よく作業を進めていく。図書貸し出しメモを書いてもらってクラスと名前を確認。それからボックスを開けて生徒の図書カードを探して……この作業ならすぐに覚えられそうだ。
生徒の対応が終わった後、私もボックスを開けてみる。一年A組、B組と綺麗にラベルが貼られた中、私の指は二年のところで止まった。耀くんは借りにきているのだろうか。なんとなく気になって二年の耀くんのクラスを並べてみる。
「あれ……二年のクラスなのに、三年生のカードが混ざってる」
「たまにズボラな図書委員がいてさー、適当なところに戻しちゃうんだよね。暇だったら全部確認して正しいところに入れてくれると助かるよ。オレは寝るけど」
芽室先輩はというと暇を持て余して机に突っ伏して寝始めてしまったけれど、私は言われた通りにカードの整理を始める。
ズボラな図書委員というのが何人いるのかはわからないが、想像以上にボックス内は乱雑になっていた。
図書カードは満杯まで書き込まれない限り、学年が変わっても新しいものにならないらしく、耀くんの図書カードは一年のスタンプに二重線が引かれ、その上に二年のスタンプが押されていた。なるほど、こうやって見ていれば読書熱心な上級生はすぐにわかるのかも。
そして一年の図書カードを確認していた時だった。
『一年A組 芽室 貴音』
ふと手に取ったカードに書かれていた。
一年A組と書いてあるから、このボックスに入っていることは何もおかしくないのだが、芽室という苗字は私のクラスにいなかった。進級しているなら学年のスタンプに二重線が引かれて上に新しいものが押されているはずなのに、それもない。この生徒は一年生のまま、なのだ。
そもそも芽室という人ならば――私は机に伏している芽室先輩を見る。彼は私の視線に気づくことなく背を丸めてすうすうと眠りに落ちていた。
芽室先輩が名前を間違えたのか。それとも兄や姉がいるとか。あれこれと考えてみるが答えには辿りつけそうにない。『芽室貴音』は読書熱心な生徒だったのか、一年にしてその読書カードは二枚目となっていた。書く字が丸みを帯びていたから、もしかすると女の子かもしれない。あとで芽室先輩が起きたら聞いてみようと決めて、『芽室貴音』のカードを元の場所に戻す。
芽室先輩が起きたのは図書室の閉鎖時間ぎりぎりだった。時計を確認するなり鞄を持って「オレ、部活行ってくるね」と去っていってしまった。施錠や掃除についてのやり方は教えてもらったが、一通り話していなくなるなんて無責任な先輩だ。芽室先輩はやっぱり苦手かもしれない。
結局、『芽室貴音』について聞くことはできなかった。今日出会った芽室先輩と同じ苗字だったから気になってしまったけれど、このタイミングでなかったら気に留めることなくこの名前を忘れていたのだろう。
黒板に書かれているのは、各委員会とそれに所属する生徒の名前。このクラスの生徒は何かしらの部活に所属する人がほとんどで、帰宅部だった私は早々に狙われることとなった。中でも月に数回放課後に図書の貸し出し係をする図書委員会は、部活に所属する生徒には向かない。不人気すぎて誰の名前も書かれていない図書委員のところで、担任が指名したのは私だった。
「池田。お前、図書委員やらないか?」
その言葉でクラスメイトたちの注目が私に向けられる。皆して『助かった』とばかりに期待に満ちた目を向けてくる。
今にして思えば、放課後に残ることもないような委員会で立候補しておくべきだったのだ。図書委員になってしまえば隠れ場所に行く時間が減ってしまう。
断り文句を探すも見つからない。担任はというと「部活に入っていない生徒は委員会に入った方がいい。受験で有利だぞ」なんて勧めてくるので、より退路が塞がれる。そんな未来の話をされても夏休みが終わったら地球が殺されてしまうのに。そう思っていても言えないのは、クラスメイトや担任に信じてもらえる気がしないから。
「……わかりました。やります」
結局選んだのは逃げることだった。図書委員になれば、クラス中の視線を浴びているこの状態から解放されるだろう。月にたった数日だから少し我慢すればいい、そう自分に言い聞かせた。
そして五月に入りゴールデンウィークの終わった頃。それはやってきた。
初めての貸し出し係ということもあって、しばらくは上級生とペアで当番になるらしい。本は好きだが、本を読む人を眺める作業は好きじゃない。
憂鬱な気分を引きずりながら図書室に入ると、貸し出しカウンターの向こうに男子生徒がいた。
お世辞にも本が好きそうには見えない、茶色の髪。自分で染めたのだろうか。目立つほどの金髪でなければ多少の染髪は許されている学校といえ、真面目そうには見えない姿は図書室で浮いているようだった。
男性に対して特別な苦手意識を持っているわけではないけれど、いわゆる軽そうな男の人というのはあまり好きではなかった。耀くんをいじめていた人たちも髪を明るく染めてピアスを付けたりと派手な格好をしていたから、どうしても構えてしまう。
「図書委員当番の池田です、けど」
私が声をかけると、カウンターの向こうで本を読んでいた男子生徒は顔をあげた。
「あー。一年の子って君なんだね。よろしく」
返ってきたのは想像よりも陽気なもの。読んでいた本を置き、カウンターテーブルを上にあげて、私を呼んだ。
貸し出しカウンターの中に入ると、男子生徒のものだろう鞄が置いてあった。学校指定のスクール鞄と、その横にスポーツバッグ。同じメーカーのスポーツバッグをクラスの男子が持っていた気がする。確かサッカー部、だったような。
「オレ、二年の芽室貴也。よろしくね、池田ちゃん」
池田、までは慣れている呼び方だけど、池田ちゃんと呼ばれるのは滅多にない。女子ならまだしもそれが男子となれば余計に。
「芽室先輩ですね。よろしくお願いします」
「うんうん。いいねー、その先輩って呼ばれ方」
外見からあまり得意ではないと思っていたが、言葉を交わしてもその印象は変わらない。距離感無視とばかりに陽気に話しかけてくる姿は、私には眩しすぎる。いじめとは無縁の楽しい学生生活を送ってそうな人だと思った。いじめられるよりもむしろいじめる側にいそうな――そこまで考えて、ふと思いだす。
芽室先輩を、どこかで見たことがある。
「……もしかして、どこかで会ったことがあります、よね?」
芽室先輩を軟派だと軽蔑していたのが嘘のように、口から出たのは新手のナンパのような言葉。それをぶつけられた芽室先輩は目を丸くして私を見つめた後、こみあげた笑いを吹きだした。
「ははっ、池田ちゃん面白いこと言うね。オレ、ナンパされてるみたい」
それは確かに。と私も心中で認める。でも頭の奥は冷静にあの日のことを思いだそうとしていた。
耀くんがいじめられていたあの昼休み。私はこの人を見た気がするのだ。特徴的な茶髪の髪に、青いネクタイ。茶髪の上級生なんて他にもいるだろうけど、襟足を長く伸ばした髪型はあまり見かけない。
もしあの昼休みにこの人と会っているなら――ふつふつと湧きあがるのは芽室先輩への嫌悪だった。だってこの人は、耀くんがいじめられている現場を目撃しているのに、何もせずに通り過ぎていったのだから。
この嫌悪を認めるために、さらに私は聞く。芽室先輩は笑っていたけれど、私はうまく笑えそうになかった。
「二年の耀く……穂別先輩がいじめられていた時、芽室先輩を見かけた気がします」
すると芽室先輩はあっさり「そうだね」と頷いた。
「オレも、池田ちゃんを見かけたよ。その時は名前を知らなかったけど、一年の子がいるのは珍しいなって思ってた」
「それだけ、ですか?」
あの場に生じていた問題は私がいたことではない。耀くんがいじめられていたということ。それを語らない苛立って冷たく聞くと、芽室先輩は苦笑した。
「それ以外に何かある?」
「あの場にいたのなら穂別先輩が何をされていたのか知っているはずです」
「そりゃ見ていたけどさー。だからってオレにできることないでしょ」
面倒だとばかりに言い放つ芽室先輩に、怒りが爆発する。相手が上級生ということをわかっていても言わずにはいられなかった。
「……最低です」
一瞬、芽室先輩の目が丸くなった。それからじわじわと細まり、視線は私から外れて図書室のどこかへと向けられる。そしてぼそりと小さく呟いた。
「わかってるよ。そんなこと」
わかっているのならどうして動かないのだろう。そんな傷ついたような顔をして、耀くんの方がもっと傷ついていたんじゃないのか。芽室先輩が許せなくて、じっと睨みつけていると再びその唇が動いた。
「池田ちゃんは、あいつと仲がいいの?」
「仲良し……はわかりませんが、知り合いです」
「そっか。じゃあ、あいつがいじめられている理由も聞いた?」
息を、呑む。頭は芽室先輩への軽蔑で占めていたのに、この一言によって端の方からざわざわと波打ちはじめる。私にこの質問をしたということは、芽室先輩は耀くんがいじめられている理由を知っているということだろうか。それとも知らずに、確かめるために私に聞いているのか。あらゆる推測が生じて、不安を煽る。簡単に返答はできそうになかった。
その動揺は私の表情にも表れていたと思う。隠す余裕なんてなかったから。けれど芽室先輩は視線を動かさず、図書室のどこかをぼんやりと見つめたまま。
「まだ、言ってないんだ」
その呟きの意図を読み解けるほど、芽室先輩と親しいわけではない。だから私は、芽室先輩を見上げていることしかできなくて。
私が耀くんに聞けなかったいじめの理由を、彼は知っているのだ。心がざわつく。耀くんが話してくれるまで待たなきゃいけない、勝手に探ってはならない。そう自制しようとしても、好きな人のことを知りたい貪欲さが先走って、手を伸ばそうとする。
「……さあ、お仕事しよう。貸し出し係のお仕事は簡単だからすぐに覚えられるよ」
手を伸ばしかけたところで、ふっと芽室先輩の表情が緩んだ。さっきのやりとりなんて忘れたとでもばかりに、表情は明るいものへと変わっている。私が芽室先輩のことを最低と言った冷ややかな空気すら、貸し出しカウンターの中に微塵も残っていない。
私も溢れそうになった貪欲な感情を飲みこんで頷く。豹変したかのように明るく振る舞う芽室先輩に、これ以上耀くんのことを聞けそうにはなかった。
「このボックスに学年とクラス別にわけた貸し出しカードがあるから。生徒の名前とクラスを確認してからカードを探してね。使い終わったらちゃんと学年とクラス別のボックスに戻して」
「わかりました」
「貸し出し作業以外は本棚を並べ直したり返却本を戻したり、あとカウンター内の掃除かな。ごちゃごちゃしてるでしょ」
芽室先輩の言う通り、貸し出しカウンター内は散らかっていた。図書委員だよりを作っていたらしい下書きの紙がぐしゃぐしゃに折れ曲がってカウンターの下に落ちている。
「……ま。真面目にやってる子は少ないんだけどね」
「芽室先輩も不真面目の方ですか?」
「どうだろ。池田ちゃんにはどう見える?」
「初日なので。芽室先輩の仕事ぶりはわかりません」
くすくすとからかうような笑みを浮かべて、芽室先輩がカウンターに肘をつく。
「なるほど。池田ちゃんは素直な子なんだね、真面目に仕事をしてくれる図書委員になりそう」
「……はあ」
そうしているうちに、本を借りにきたのだろう生徒がカウンターへやってきた。芽室先輩は「見ててね」と言って、手際よく作業を進めていく。図書貸し出しメモを書いてもらってクラスと名前を確認。それからボックスを開けて生徒の図書カードを探して……この作業ならすぐに覚えられそうだ。
生徒の対応が終わった後、私もボックスを開けてみる。一年A組、B組と綺麗にラベルが貼られた中、私の指は二年のところで止まった。耀くんは借りにきているのだろうか。なんとなく気になって二年の耀くんのクラスを並べてみる。
「あれ……二年のクラスなのに、三年生のカードが混ざってる」
「たまにズボラな図書委員がいてさー、適当なところに戻しちゃうんだよね。暇だったら全部確認して正しいところに入れてくれると助かるよ。オレは寝るけど」
芽室先輩はというと暇を持て余して机に突っ伏して寝始めてしまったけれど、私は言われた通りにカードの整理を始める。
ズボラな図書委員というのが何人いるのかはわからないが、想像以上にボックス内は乱雑になっていた。
図書カードは満杯まで書き込まれない限り、学年が変わっても新しいものにならないらしく、耀くんの図書カードは一年のスタンプに二重線が引かれ、その上に二年のスタンプが押されていた。なるほど、こうやって見ていれば読書熱心な上級生はすぐにわかるのかも。
そして一年の図書カードを確認していた時だった。
『一年A組 芽室 貴音』
ふと手に取ったカードに書かれていた。
一年A組と書いてあるから、このボックスに入っていることは何もおかしくないのだが、芽室という苗字は私のクラスにいなかった。進級しているなら学年のスタンプに二重線が引かれて上に新しいものが押されているはずなのに、それもない。この生徒は一年生のまま、なのだ。
そもそも芽室という人ならば――私は机に伏している芽室先輩を見る。彼は私の視線に気づくことなく背を丸めてすうすうと眠りに落ちていた。
芽室先輩が名前を間違えたのか。それとも兄や姉がいるとか。あれこれと考えてみるが答えには辿りつけそうにない。『芽室貴音』は読書熱心な生徒だったのか、一年にしてその読書カードは二枚目となっていた。書く字が丸みを帯びていたから、もしかすると女の子かもしれない。あとで芽室先輩が起きたら聞いてみようと決めて、『芽室貴音』のカードを元の場所に戻す。
芽室先輩が起きたのは図書室の閉鎖時間ぎりぎりだった。時計を確認するなり鞄を持って「オレ、部活行ってくるね」と去っていってしまった。施錠や掃除についてのやり方は教えてもらったが、一通り話していなくなるなんて無責任な先輩だ。芽室先輩はやっぱり苦手かもしれない。
結局、『芽室貴音』について聞くことはできなかった。今日出会った芽室先輩と同じ苗字だったから気になってしまったけれど、このタイミングでなかったら気に留めることなくこの名前を忘れていたのだろう。
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