VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

2.森を出る

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 空が白んできた。
 三度目の月が薄れ、満月から三夜経ったので、日中は狼の姿に変化できなくなる。けれどまだ止まるわけにはいかない。
 だって見たことのある木がある。知ってる匂いがする。
 狩りルウの仕事を教わっているとき、野営しながら夜を七つ越えるほどの間、森を走り回ったことがあった。楽しかったし、その時のことはよく覚えているんだけど……まだそのとき覚えた匂いがするんだ。
 ルウは郷で最も鼻や耳が利き、足が速くて持久力もある。獣の僅かな痕跡を見つけて狩り、遠くにある恵みを嗅ぎ分けて食物を取ってくるのだ。僅かでも痕跡があれば追ってくる。
 優れたルウなら満月じゃなくても、三昼夜休まず走り続けることだってできるって聞いた。だから森で食物を求めることも川で水を飲むこともしていない。
 まだダメだ、ここじゃ捕まる。連れ戻されてオメガだと言われる。あのアルファと番えと、それがつとめだと────
 なるべく足を地につけないようにしながら木を伝い、川を越える。怒りから無限に湧いてくるエネルギーを貪り喰らうように進みつつ、ダラダラと流れる汗が目に入ったのをグイッと拭う。

「ふざけるな」

 番以外と子作りするなんて、絶対にダメだ。
 子狼おれたちはみんな見ていた。
 唯一の番じゃない相手と子作りしたら、歪んで醜くなる。
 失われた番を恋しがりながら他の雄と子作りした雌たちは、みんな歪んで心まで醜くなって老化が早い。あんな風にはなりたくない。だから俺たちは唯一だけを求める。
 人狼は名前を持たない。子狼のうちは目の色と毛の色で呼ばれるし、成獣なら階位で、雌は番の階位で呼ばれる。だから匂いで固体を判別するのに、歪んだ雌は匂いが薄いというかおかしい。
 本来は幼狼おさなごの間、二才までは父狼と母狼とそれぞれの棲まいで暮らすものだって聞いた。けど俺たちはみんな、自分を産んだ雌を知らないんだ。俺がオメガの仔だと分かったのだって、雌たちとかが噂してたからで、オメガが教えてくれたわけじゃない。
 本能で親の匂いも分かるはずなんだけど、雌たちの匂いがおかしくて、俺たちには嗅ぎ分けられない。オメガの匂いも薄かった。
 俺たちはみんな集会所で、兄弟みたいに育ってる。自分を産んだ雌ではなく、子作りできないまま老いた雌や、イプシロンなど残っていた雄たち育てられたんだ。
 今の郷は番を探す旅に出てるやつが多くて、成獣おとながあんまりいない。なんとなく、番のいる方向が分かる時があるんだって。憧れるよね。
 俺と同じ年ごろは雄と雌が半々いるけど、少し上の連中、成人の議を越えた年ごろだと十匹のうち八匹くらいが雄だから、ほとんどが郷の中に番はいなくて、番を捜す旅に出る奴は後を絶たない。俺もあと少しで十八せいじんだから郷を出たいと頼むつもりだった。
 だって、郷には俺の唯一がいない。
 逆にひどく怖い奴がいる。
 序列二番目、アルファの次に強いベータ。アルファとオメガの子。俺と同じオメガから産まれた同腹。一応兄になるんだろうけど、あいつは怖い。
 子狼の頃、いきなりあいつに抱き上げられて、全身の毛が逆立ち、心臓がひどくドキドキしてものすごく汗が出て、俺は泣きわめいた。
 本能があいつを敵だと認めたんだ。
 それからなるべく近づかないようにしてた。
 匂いがしなくてもゾクッとして振り返ると、遠くからこっちを見ていて、ひどく怖い顔してたからすごくイヤな感じで。
 あいつも俺が嫌いなんだ。同じ腹から生まれた俺が目障りなんだ。
 顔とかは、ほとんど見てないからよく分からない。知ってるのは毛の色と目の色。それと匂いや気配が、同世代の誰より強いというか濃い。それだけじゃなく、デカくて逞しくて、走るの早いしケンカも強い。

 七つ前の冬。
 あいつは成人の議を越えて、ベータに選ばれ、すぐにベータ筆頭になった。アルファの次に強い雄と認められたんだ。
 成獣になると匂いや気配が変わる。俺はそれを覚えて、やっぱり避けていた。
 今がチャンスだと思ったのは、郷にいるベータがあいつと三席だけだからだ。
 アルファがいたなら、成人前の若狼が郷を出ることなど絶対に許さない。けどベータ次席を連れて他の群れとの会合に出かけてる今なら。
 ベータ筆頭あいつは俺を嫌っているから絶対に追ってこない。三席は成人の議を越えたばかりで、あいつなら俺でも逃げられる。だから今だと思ったんだ。
 俺は、アルファにバカなことを言われてから仕事に出るなんてできなくて、集会場の自分の寝床に潜り込んでたから、逃げたことに気付かれるまでしばらくかかるはず。アルファは郷の人狼をすべて把握してるというけど、郷から離れてる今なら分からないだろう。戻る前に群れの範囲から抜ければ、さらに一夜も走れば、きっと逃げ切れる。
 そう信じて足を止めずに進み続け、ようやく森を出たとき、四度目の月が出ていた。遠回りしたから時間かかったけど、街道に出れば群れのテリトリーから抜ける。でもまだ油断できない。ルウの足の速さなら、どこから出たか分かったら一夜分なんてすぐ追いつかれてしまう。
 郷を出たことは無いけれど、語り部シグマや『商人』に周囲のことは教わっていた。『商人』は郷に色んなものを持ってきてくれて、いろんな話をしてくれる。俺は商人の話を聞くのが好きだったし、ひと族のことも他の人狼より少し詳しい。
 ここら辺はひと族が少ないんだ。
 もしひと族が郷からこのあたりまで来るなら、一旦森を出て迂回しなければならなくて、馬車を使うとだいたい夜を七つ超えるくらいかかるらしい。一番近い里から他のひと里には馬車で三夜、ひと族が歩いたなら七夜くらいかかる。もちろん人狼ならもっと早い。
 けど俺は成人前だし、いくら満月でも四つ夜を越える間、道なき道を走り続けるなんて誰も想像しないだろう。だからわざと痕跡を残し、郷から近いひと里へ向かっているように見せておいて、木に登って梢近いところを伝い、痕跡と匂いを消しながらこっちへ向かった。
 ひと族が移動するときは、街道を使う。馬車でも通れるように平らに均されている道だと学んだけど、実際歩いてみたら思ったほど平らじゃなく、窪みとかあるし石ころがゴロゴロ転がってる。ときおり森と言えない程度木の生えた場所があるけど、ずっと見通せるような草原も多い。
 ひと里らしきものはまだ見えない。ひと族は夜、外に出ないというから、ひと形のまま急いで走っても大丈夫だろう。街道は森の中よりは歩きやすいけど、見通しが良いというか、遠くからでもすぐ見つかりそうで心地悪い。
 周りに森が無いと、なんとなく心細い感じがする。
 追う人狼の気配は感じない。ホッとした。
 少し安心したからかな、疲労がどっときて、足を交互に前へ出すのもやっとになってきた。いくら人狼でも飲まず食わず眠らずの四夜はきつい。
 とにかく、ひどく喉が渇いて腹が減った。危険な気配はしないし、追っ手もいない。ひと族は夜の間は出歩かない。今なら、少しの間足を止めるくらい、大丈夫だろう。うん、たぶん。
 ちょうど街道から少し離れたところに木がまとまって生えてるところがあり、その手前くらいから水の匂いがしてる。きっと川があるんだ。
 なんとか足を進め、街道沿いに流れる小川があったので、屈み込んで水を飲む。
 ひどく旨い。ごくごく飲んでるうちに、ものすごく眠くなった。起き上がって歩くなんて無理。

「……もう、大丈夫だよな。少しくらい」

 久し振りに出した声が掠れてた、……てことだけは、なんとか覚えてる。
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