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何だとは何だ
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「あの、エメリーン様? 一体何を?」
マーサが不思議そうに見つめているのは、インク壺と羽ペンを横に寄せた書斎机の上――いや、正確にはその机の上に揃えて置かれたエメリーンの手だ。指の付け根から第二関節、第一関節、そして指先と、順番に曲げて尺取り虫が歩いているような動きを両手で続けているエメリーンが、一体何をしているのか。確かにマーサには疑問でしかないだろう。
――やっぱり動きがぎこちない。まあ、この身体でこんなふうに意識的に指を動かしたことなんてないものね。
今度は親指から小指までを順番に曲げたり伸ばしたり、反対に小指から親指までを順番に曲げたり伸ばしたりを繰り返しているエメリーンに、マーサが首を傾げて真似をしようとするがそのスピードはとても緩慢だ。
「あれ、これ難しいですね」
きゅっと唇を噛みしめて一所懸命なマーサの姿に、エメリーンは思わず笑ってしまった。
「そうね、難しいわよね」
指先の軽い訓練だが、指先の器用さが求められる仕事には必要なものだ。鍵開けとか、スリとかだけではなく、刺繍や裁縫なども指先が器用であれば容易なものとなる。エメリーンは、刺繍と裁縫は少しできるがそれだけだ。
――この身体には筋肉が足りないな。あと柔軟性も。でも……。
まだ指を曲げたり伸ばしたりを繰り返しているマーサをチラリと見たエメリーンは、諦めて手を下ろした。
――続きはマーサがいない時間にしようかしらね。マーサが怪我したら困るもの。
はしたないと怒られるのも、真似しようと無理をして怪我をされるのも、エメリーンの望むところではない。ふうと一息吐いて手を止めたエメリーンは、先ほど気が付いたことをマーサに聞いてみることにした。
「ねえ、マーサ。もしかして、食事を部屋で摂っていたのも、みんなへの挨拶は不要で静かにしているようにっていうのも、ルイ様との接触を避けるためだったのかしら」
あの邂逅の後、執事長や侍女頭たちはそそくさとルイを連れて行った。そのルイに付き従う侍女や兵士たちの目は、明らかにエメリーンを警戒している様子だったのだ。
真剣な表情で両手の中指までを曲げた状態で、マーサが顔を上げた。
「それもあるかと思いますが、実は……旦那様からのご指示があったようです」
「はああ?」
エメリーンが思わず険しい声を出したことに、マーサが目を見張った。それは今までずっと大人しくしていたエメリーンが、見せたことがない表情だったからだろう。
「……奥様?」
――ああ……。
マーサが珍しく動揺しているのに気が付いて、エメリーンは頬に手を当ててため息を吐いた。
「ごめんなさい、マーサ。私、少し疲れているみたい」
「あ、ああ、そうでしたか。気が付かずに失礼いたしました」
少しホッとしたようなマーサに、エメリーンがもう一度「ごめんなさい」と伝えると、お茶を用意してくるとマーサが部屋を出て行った。
――失敗したわ。マーサをにらむようなこと、以前の私だったら絶対にしないものね。
マーサが部屋から離れていく気配を確認してから、エメリーンは絨毯の上にバタリと倒れこんだ。ふかっ、とした心地よい感触にエメリーンの頬が緩む。
――ああ、これぞ金持ちの家の絨毯って感じ。いや、金持ちって言い方、ものすごく貧乏くさい。いや、辺境伯夫人が貧乏なわけないけど、私の心根が貧乏すぎるってだけで……。
ごろりと転がって高い天井を見上げると、エメリーンの口からくくっと笑い声が漏れてきた。
「あーあ、どいつもこいつもだわ……」
エメリーンが思い出していたのは、マーサのことではない。結婚式当日に初めて会った、辺境伯ヒューバート・ダイナリアのことだ。そもそも結婚相手と当日まで会っていないことがおかしいのだが、エメリーンがヒューバートと会ったそのときも相当おかしかった。
「何だ、こっちか」
ウエディングドレスを着付けられて、髪型を整え、メイクをされて、緊張の真っ只中にいたエメリーンのベールをペラッと捲ったヒューバートは、ただ一言そう言ったのだ。
今のエメリーンだったら、即座に「何だとは何だ」と言い返していただろう。だが当時のエメリーンは、何を言われたのか理解できず、ベールの下でうつむいた。
結婚式前にヒューバートが妻となるエメリーンに掛けた唯一の言葉が、「何だ、こっちか」であったことを、エメリーンは忘れないでおこうと思う。今のエメリーンにとっては取るに足らないことで、すぐに忘れてしまいそうなほどどうでもいいことではあるが、何かの時にきっと使えるだろうと思ったのだ。
――旦那様め。一生に一度のタイミングで犯した失態を、生涯後悔させてくれよう。
まるで悪の組織の首領のようなことを考えて、エメリーンは誰もいない部屋でにやりと笑った。
――あ、でもやっぱり生涯とかはいいや。生涯関わるのは面倒くさそうだし。なるべく関わらないで過ごしたい。
それに「こっちか」ということは、ヒューバートは義姉のエリナーが妻になると思っていたということかもしれない、とエメリーンは想像する。父とヒューバートとの話がどういうものだったのか、エメリーンには知りようがなく、もしそうであれば「何だ、こっちか」では済まない気もするのだが、ヒューバートにしてみればどっちでも良かったのかもしれないなと、エメリーンは肩を竦めた。
ヒューバートとの婚姻について、話を聞いた義母かエリナーのどちらかがごねて、相手が代わったということも十分あり得るだろう。そうだとすれば、あの最後の晩餐で義母がこれ以上なく優しそうだった理由も納得だ。
しかしヒューバートも父も義母もエリナーも、エメリーンのことを一体何だと思っているのかと、この家族運のなさにはエメリーンも笑うしかない。
マーサが不思議そうに見つめているのは、インク壺と羽ペンを横に寄せた書斎机の上――いや、正確にはその机の上に揃えて置かれたエメリーンの手だ。指の付け根から第二関節、第一関節、そして指先と、順番に曲げて尺取り虫が歩いているような動きを両手で続けているエメリーンが、一体何をしているのか。確かにマーサには疑問でしかないだろう。
――やっぱり動きがぎこちない。まあ、この身体でこんなふうに意識的に指を動かしたことなんてないものね。
今度は親指から小指までを順番に曲げたり伸ばしたり、反対に小指から親指までを順番に曲げたり伸ばしたりを繰り返しているエメリーンに、マーサが首を傾げて真似をしようとするがそのスピードはとても緩慢だ。
「あれ、これ難しいですね」
きゅっと唇を噛みしめて一所懸命なマーサの姿に、エメリーンは思わず笑ってしまった。
「そうね、難しいわよね」
指先の軽い訓練だが、指先の器用さが求められる仕事には必要なものだ。鍵開けとか、スリとかだけではなく、刺繍や裁縫なども指先が器用であれば容易なものとなる。エメリーンは、刺繍と裁縫は少しできるがそれだけだ。
――この身体には筋肉が足りないな。あと柔軟性も。でも……。
まだ指を曲げたり伸ばしたりを繰り返しているマーサをチラリと見たエメリーンは、諦めて手を下ろした。
――続きはマーサがいない時間にしようかしらね。マーサが怪我したら困るもの。
はしたないと怒られるのも、真似しようと無理をして怪我をされるのも、エメリーンの望むところではない。ふうと一息吐いて手を止めたエメリーンは、先ほど気が付いたことをマーサに聞いてみることにした。
「ねえ、マーサ。もしかして、食事を部屋で摂っていたのも、みんなへの挨拶は不要で静かにしているようにっていうのも、ルイ様との接触を避けるためだったのかしら」
あの邂逅の後、執事長や侍女頭たちはそそくさとルイを連れて行った。そのルイに付き従う侍女や兵士たちの目は、明らかにエメリーンを警戒している様子だったのだ。
真剣な表情で両手の中指までを曲げた状態で、マーサが顔を上げた。
「それもあるかと思いますが、実は……旦那様からのご指示があったようです」
「はああ?」
エメリーンが思わず険しい声を出したことに、マーサが目を見張った。それは今までずっと大人しくしていたエメリーンが、見せたことがない表情だったからだろう。
「……奥様?」
――ああ……。
マーサが珍しく動揺しているのに気が付いて、エメリーンは頬に手を当ててため息を吐いた。
「ごめんなさい、マーサ。私、少し疲れているみたい」
「あ、ああ、そうでしたか。気が付かずに失礼いたしました」
少しホッとしたようなマーサに、エメリーンがもう一度「ごめんなさい」と伝えると、お茶を用意してくるとマーサが部屋を出て行った。
――失敗したわ。マーサをにらむようなこと、以前の私だったら絶対にしないものね。
マーサが部屋から離れていく気配を確認してから、エメリーンは絨毯の上にバタリと倒れこんだ。ふかっ、とした心地よい感触にエメリーンの頬が緩む。
――ああ、これぞ金持ちの家の絨毯って感じ。いや、金持ちって言い方、ものすごく貧乏くさい。いや、辺境伯夫人が貧乏なわけないけど、私の心根が貧乏すぎるってだけで……。
ごろりと転がって高い天井を見上げると、エメリーンの口からくくっと笑い声が漏れてきた。
「あーあ、どいつもこいつもだわ……」
エメリーンが思い出していたのは、マーサのことではない。結婚式当日に初めて会った、辺境伯ヒューバート・ダイナリアのことだ。そもそも結婚相手と当日まで会っていないことがおかしいのだが、エメリーンがヒューバートと会ったそのときも相当おかしかった。
「何だ、こっちか」
ウエディングドレスを着付けられて、髪型を整え、メイクをされて、緊張の真っ只中にいたエメリーンのベールをペラッと捲ったヒューバートは、ただ一言そう言ったのだ。
今のエメリーンだったら、即座に「何だとは何だ」と言い返していただろう。だが当時のエメリーンは、何を言われたのか理解できず、ベールの下でうつむいた。
結婚式前にヒューバートが妻となるエメリーンに掛けた唯一の言葉が、「何だ、こっちか」であったことを、エメリーンは忘れないでおこうと思う。今のエメリーンにとっては取るに足らないことで、すぐに忘れてしまいそうなほどどうでもいいことではあるが、何かの時にきっと使えるだろうと思ったのだ。
――旦那様め。一生に一度のタイミングで犯した失態を、生涯後悔させてくれよう。
まるで悪の組織の首領のようなことを考えて、エメリーンは誰もいない部屋でにやりと笑った。
――あ、でもやっぱり生涯とかはいいや。生涯関わるのは面倒くさそうだし。なるべく関わらないで過ごしたい。
それに「こっちか」ということは、ヒューバートは義姉のエリナーが妻になると思っていたということかもしれない、とエメリーンは想像する。父とヒューバートとの話がどういうものだったのか、エメリーンには知りようがなく、もしそうであれば「何だ、こっちか」では済まない気もするのだが、ヒューバートにしてみればどっちでも良かったのかもしれないなと、エメリーンは肩を竦めた。
ヒューバートとの婚姻について、話を聞いた義母かエリナーのどちらかがごねて、相手が代わったということも十分あり得るだろう。そうだとすれば、あの最後の晩餐で義母がこれ以上なく優しそうだった理由も納得だ。
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