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逃げて逃げて百までも
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あの日、ナギの世界は音もなく壊れた。いや、ナギの知らないうちにすべては壊れていたのだ。そしてたった一人残されたナギは、壊れることさえ許されなかった。
——何、これ。
母の遺した日記の中に、答えはすべて詰まっていた。ナギが「誠実で良い人」だと両親に伝えたあの男が、この2年のうちに何をしていたのか。
始まりはあの男の親戚への香典だったようだ。遺された母親の姉が、お金に苦労していることを嘆いてみせたあの男に、母は1万円を包んでそっと渡したと記されている。
この日の母は、情に深い素敵な人を見つけたナギのことを褒め、心から喜んでいた。
——どこが「誠実で良い人」よ……。
あの男の叔父が亡くなったなんて話、ナギは一切聞いていなかった。
瞬きも忘れて日記を読み進めようとするのに、涙が邪魔で読みづらくて仕方がない。
「っ……」
ナギは泣きたくなんてなかった。泣いたってどうにもならないからだ。だがナギの思いをナギ自身の身体が裏切って、涙は流れ続ける。
そこにあったのは、あの男の詐欺の全貌だった。それからあの手この手で次々と母からお金を引き出したあの男は、途中から完全なる恐喝犯に変貌を遂げていた。
「大金を僕に騙し取られたことを、ご主人に知られても良いんですか?」
騙した男が言うことじゃない。だがそんな脅しに、母は心底おびえてしまった。そのときの母はすでに、小さな商店を営んでいた父の、お店のお金にまで手をつけてしまっていたからだ。
——どうして私に言ってくれなかったの……。
どうしてなのか、理由なんて分かりきっている。きっと母は、ナギにだけは知らせないでいてあげたいと思ったのだろう。
そんな母の親心が無念でならない。ナギを愛すればこその判断が、最悪のシナリオを母に選ばせてしまった。
——ああ、なんてこと。
日記の最後に綴られていたのは、母の言葉ではなかった。すべてを知り、母の絶望を見た父が、ナギに遺すために走り書いたもの。
「あの男は、わたしにも金の無心をしに来ていた。わたしも少なくない金額を渡していたのに、母さんからもこんな大金を引き出していたとは、今日の今日まで思いもよらなかったことだ。凪、わたしは母さんと共にいくよ。母さんは寂しがりやだからな。でも、お前は生きなさい。復讐など考えなくていい。あんな男とは関わらずに、生きる道を選んでおくれ。それだけが父さんの、そして母さんの願いだ。凪、強く生きなさい」
冷静な文面とは裏腹に、父の文字は乱れ、インクが滲んでいた。一体父はどれほどの思いでこれを書いたのか。それを思うと、ナギは呼吸もままならないほどに苦しい。
父も母も、ナギと生きる未来を選んではくれなかった。だがそれを恨むことすらナギには許されない。すべてはナギが起こした、ナギの罪だ。
——ああ、苦しい。息ができない。このまま、いっそ私も一緒に……。
「っ!」
カサリと音を立てて日記からこぼれ落ちたのは、2枚の生命保険証書だ。それが父からのメッセージだと受け止めたナギの喉から、ヒュッという下手くそな呼吸音がした。
「……ど、しても、生きろって、そう、言うの?」
——うん、分かった……。でも、だけど、もう少し、もう少しだけ、一緒にいてもいいでしょう?
父と母の眠るバスルーム。強烈な血の臭いに包まれて、ナギがそこにいたのは一体どれほどの日数だったのか。
本当はあのままずっと、誰にも見つからなければよかったのにと思う。「お前は生きなさい」という父と母の願いもすべて分からないほどに狂って、ナギは消えてしまいたかった。
************
病院で正気を取り戻したナギの手にあったのは、母の日記とそこに挟まれていた生命保険証書だ。
堅実な父が、自分に何かあったときのためにと入っていたそれらは、契約から8年もの年月が経っていた。そのため免責事由にも該当せず、皮肉なことにナギには両親があの男に奪われたと思われる金額より、はるかに多い保険金が入ってきた。
ナギが一生遊んで暮らせるほどの金額だ。だがそれに対して、ナギには喜ぶ余裕も悲しむ余裕もあるはずがない。
実家は、片付けだけしてそのまま残すことにした。更地にして売ることを勧めてきた親戚もいたが、父と母と過ごした時間までも手放すような気がして、ナギにはどうしても出来なかったのだ。
電話も解約し、公共料金など必要な転居の手続きを終えたナギが、誰にも連絡せずに引越して1年が経った。
郵便物の転送サービスも切れ、あの男からの連絡が来ることはもうない。そのことにようやく気が付いたナギは、今度は自分からあの男を捜し出すことにした。
そうして探偵から聞いた住所を訪ねたナギは、あの男の幸せな妻に会ったのだ。
あの日、バッグから取り出すことのなかった包丁は、あれからずっとバッグの中にあった。バッグを取り替える日は、財布やポーチと一緒にそれも入れ替える。ナギの物騒な御守りは、常にナギのそばにあった。
——もしももう一度、偶然にあの男と出会うことがあったなら……。
ナギからあの男に会いに行くことはもうない。だとすれば、偶然に男と遭遇する可能性が非常に低いことは分かっていた。新しい住所は、男の家からも職場からも遠く離れていたからだ。
——もしも、なんて日はきっと来ない。だからこそ、もしも……。
それが何年、何十年先であろうと、そのときが来たら、ナギはその御守りを使うことを躊躇わない。そう決めたことで、ナギの心は少しだけ落ち着いた。
父と母の願いなら、ナギには生きるしかない。二人の未来を奪う原因を作ったナギを、ひとかけらも恨む言葉を残さずに逝った二人の願いは、何よりも優先されるべきだ。
自身の心を押し殺しても、それを叶える。そのときが来るまで、ずっと。それがその後ナギを支え続けている、「憎まれっ子世に憚る」計画だった。
——百まで生きてやるんだから。
一見明るい願望の一方で、ナギのバッグの底には心の澱が具現化したかのような凶器がずっと潜んでいた。
だがそれも今や、車ごと崖の下だ。そしてナギがあの男と出会う可能性はゼロになった。
もしもナギが神や仏の存在を信じていたなら、この世界へ来たのは「すべてを忘れて幸せに生きなさい」という思し召しだと思ったかもしれない。
それにしては落ちてきた場所はあまりにも最悪だったが、それでもあの男がいないという1点において、ナギにとって、この世界は最高だった。もう二度とすることはないだろうと思っていた、恋までできたのだ。
——こうなったら、120歳でも目指してみようかしら。それにはまず……。
コンコンとドアを叩く音がして、ナギは新たな決意を胸に立ち上がった。閉ざされていたドアの鍵が、ガチャリと音を立てて開く。
「どうぞ?」
ドアが開いて最初に見えたのは、まだ動揺を隠せない様子のイエーだ。続いて冷たい表情をしたブルが、室内に入ってきた。
——これは、ツイてるかも。
ナギに好意的ではないブルが来たのは好都合だと、ナギはうつむきがちに薄い笑みを浮かべた。
——何、これ。
母の遺した日記の中に、答えはすべて詰まっていた。ナギが「誠実で良い人」だと両親に伝えたあの男が、この2年のうちに何をしていたのか。
始まりはあの男の親戚への香典だったようだ。遺された母親の姉が、お金に苦労していることを嘆いてみせたあの男に、母は1万円を包んでそっと渡したと記されている。
この日の母は、情に深い素敵な人を見つけたナギのことを褒め、心から喜んでいた。
——どこが「誠実で良い人」よ……。
あの男の叔父が亡くなったなんて話、ナギは一切聞いていなかった。
瞬きも忘れて日記を読み進めようとするのに、涙が邪魔で読みづらくて仕方がない。
「っ……」
ナギは泣きたくなんてなかった。泣いたってどうにもならないからだ。だがナギの思いをナギ自身の身体が裏切って、涙は流れ続ける。
そこにあったのは、あの男の詐欺の全貌だった。それからあの手この手で次々と母からお金を引き出したあの男は、途中から完全なる恐喝犯に変貌を遂げていた。
「大金を僕に騙し取られたことを、ご主人に知られても良いんですか?」
騙した男が言うことじゃない。だがそんな脅しに、母は心底おびえてしまった。そのときの母はすでに、小さな商店を営んでいた父の、お店のお金にまで手をつけてしまっていたからだ。
——どうして私に言ってくれなかったの……。
どうしてなのか、理由なんて分かりきっている。きっと母は、ナギにだけは知らせないでいてあげたいと思ったのだろう。
そんな母の親心が無念でならない。ナギを愛すればこその判断が、最悪のシナリオを母に選ばせてしまった。
——ああ、なんてこと。
日記の最後に綴られていたのは、母の言葉ではなかった。すべてを知り、母の絶望を見た父が、ナギに遺すために走り書いたもの。
「あの男は、わたしにも金の無心をしに来ていた。わたしも少なくない金額を渡していたのに、母さんからもこんな大金を引き出していたとは、今日の今日まで思いもよらなかったことだ。凪、わたしは母さんと共にいくよ。母さんは寂しがりやだからな。でも、お前は生きなさい。復讐など考えなくていい。あんな男とは関わらずに、生きる道を選んでおくれ。それだけが父さんの、そして母さんの願いだ。凪、強く生きなさい」
冷静な文面とは裏腹に、父の文字は乱れ、インクが滲んでいた。一体父はどれほどの思いでこれを書いたのか。それを思うと、ナギは呼吸もままならないほどに苦しい。
父も母も、ナギと生きる未来を選んではくれなかった。だがそれを恨むことすらナギには許されない。すべてはナギが起こした、ナギの罪だ。
——ああ、苦しい。息ができない。このまま、いっそ私も一緒に……。
「っ!」
カサリと音を立てて日記からこぼれ落ちたのは、2枚の生命保険証書だ。それが父からのメッセージだと受け止めたナギの喉から、ヒュッという下手くそな呼吸音がした。
「……ど、しても、生きろって、そう、言うの?」
——うん、分かった……。でも、だけど、もう少し、もう少しだけ、一緒にいてもいいでしょう?
父と母の眠るバスルーム。強烈な血の臭いに包まれて、ナギがそこにいたのは一体どれほどの日数だったのか。
本当はあのままずっと、誰にも見つからなければよかったのにと思う。「お前は生きなさい」という父と母の願いもすべて分からないほどに狂って、ナギは消えてしまいたかった。
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病院で正気を取り戻したナギの手にあったのは、母の日記とそこに挟まれていた生命保険証書だ。
堅実な父が、自分に何かあったときのためにと入っていたそれらは、契約から8年もの年月が経っていた。そのため免責事由にも該当せず、皮肉なことにナギには両親があの男に奪われたと思われる金額より、はるかに多い保険金が入ってきた。
ナギが一生遊んで暮らせるほどの金額だ。だがそれに対して、ナギには喜ぶ余裕も悲しむ余裕もあるはずがない。
実家は、片付けだけしてそのまま残すことにした。更地にして売ることを勧めてきた親戚もいたが、父と母と過ごした時間までも手放すような気がして、ナギにはどうしても出来なかったのだ。
電話も解約し、公共料金など必要な転居の手続きを終えたナギが、誰にも連絡せずに引越して1年が経った。
郵便物の転送サービスも切れ、あの男からの連絡が来ることはもうない。そのことにようやく気が付いたナギは、今度は自分からあの男を捜し出すことにした。
そうして探偵から聞いた住所を訪ねたナギは、あの男の幸せな妻に会ったのだ。
あの日、バッグから取り出すことのなかった包丁は、あれからずっとバッグの中にあった。バッグを取り替える日は、財布やポーチと一緒にそれも入れ替える。ナギの物騒な御守りは、常にナギのそばにあった。
——もしももう一度、偶然にあの男と出会うことがあったなら……。
ナギからあの男に会いに行くことはもうない。だとすれば、偶然に男と遭遇する可能性が非常に低いことは分かっていた。新しい住所は、男の家からも職場からも遠く離れていたからだ。
——もしも、なんて日はきっと来ない。だからこそ、もしも……。
それが何年、何十年先であろうと、そのときが来たら、ナギはその御守りを使うことを躊躇わない。そう決めたことで、ナギの心は少しだけ落ち着いた。
父と母の願いなら、ナギには生きるしかない。二人の未来を奪う原因を作ったナギを、ひとかけらも恨む言葉を残さずに逝った二人の願いは、何よりも優先されるべきだ。
自身の心を押し殺しても、それを叶える。そのときが来るまで、ずっと。それがその後ナギを支え続けている、「憎まれっ子世に憚る」計画だった。
——百まで生きてやるんだから。
一見明るい願望の一方で、ナギのバッグの底には心の澱が具現化したかのような凶器がずっと潜んでいた。
だがそれも今や、車ごと崖の下だ。そしてナギがあの男と出会う可能性はゼロになった。
もしもナギが神や仏の存在を信じていたなら、この世界へ来たのは「すべてを忘れて幸せに生きなさい」という思し召しだと思ったかもしれない。
それにしては落ちてきた場所はあまりにも最悪だったが、それでもあの男がいないという1点において、ナギにとって、この世界は最高だった。もう二度とすることはないだろうと思っていた、恋までできたのだ。
——こうなったら、120歳でも目指してみようかしら。それにはまず……。
コンコンとドアを叩く音がして、ナギは新たな決意を胸に立ち上がった。閉ざされていたドアの鍵が、ガチャリと音を立てて開く。
「どうぞ?」
ドアが開いて最初に見えたのは、まだ動揺を隠せない様子のイエーだ。続いて冷たい表情をしたブルが、室内に入ってきた。
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