青の姫と海の女神

桧山 紗綺

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眠る人魚

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 我ながら人魚とはよく言ったものだ。
  寝台で眠る人は見れば見るほど神秘的な容姿をしていた。
  真っ白だった頬にも赤味が差し、彼女の美しさを際立たせている。
 (銀色の髪…か)
  この国や周辺の国では見たことのない色だ。
  着ていた衣装も変わっていたし、遠くの国から来たのだろうか。
 (それにしても…)
  どのような素性なのだろう。
  白く、滑らかな肌。
  腰まで伸びた艶やかな髪。
  細い指先はとても労働を主とする者には思えない。
  衣装にも上質の絹が使われていた。
  一般市民ではないだろうが、さりとて貴族のような俗っぽさもない。
  どこか浮世離れした雰囲気だった。
  こうして明るい場所で見ると、少女のような年にも見える。
  どうして一人で倒れていたのか、行き倒れる素性ではなさそうなだけに気になっていた。
  医者には診せたが、彼女はまだ目を覚まさない。命に別状はない、と言っていたが…。
 「珍しいですね」
  医者を見送って戻ってきた執事のフレイが言う。
 「何がだい?」
  女性の容姿についてではないだろうな、と思いながら問いを返す。
 「あなたが女性を屋敷に連れて来たことが、ですよ」
  分かっているでしょう、と言うように目を細めて僕を見た。
 「倒れている女性をほうっておけないのは普通のことじゃないのかな?」
  困ったような顔を作りながら答える。
  はぐらかすような答えに、フレイは冷ややかな視線で言葉を続けた。
 「あなたが、わざわざ屋敷に、女性を連れ帰って来るなんて珍しいですね」
  刺のある言い方がかえっておかしくて口元が笑う。
 「何が言いたいのかな?」
 「町の診療所や教会の施療院に預けることも出来たはずですが、そうせずにここに連れて来た理由を聞いているんです」
  曖昧な態度で誤魔化すことを許さない視線でフレイは僕を見る。
 「…あなたはそういった面倒を好まないと思っていました」
  責めているのではなく、心配なんだろう。
  確かにフレイの言うとおりだ。
  屋敷に連れて来る必要などなく、治療をさせたいならどこかに預ければいいのだ。
  この王都で屋敷を構えられる程度の貴族である僕が自ら看病をする必要など、わざわざ探さなければ存在しない。
  自分がどんな相手でも手を差し伸べるほど慈愛に満ちた人間でないことも自覚している。
  相手が女性であれば余計な憶測を呼び、面倒なことになるだろう。
  フレイの言うとおり、名前を出せば預かってくれる所なんていくらでもある。
  けれど、どうしてかそんな気は起きなかった。
 「フレイ」
  身振りで寝台を見るように促す。
  フレイも黙ってそれに従った。
 「彼女を見て、どう思う?」
  数秒寝台を見た後、意味が分からないと言うようにこちらを見た。
 「美しいと思わないか」
  呆れの混じった瞳で睨みつけてくるので笑って否定する。
 「そういう意味じゃないさ」
  確かに美しいが、別に容姿の美しさに惹かれて連れてきたわけじゃない。
  フレイが普段しない心配をするほどに彼女は美しいと思う。
  観賞するためにそばに置いておきたいという人間もいるだろう。
  が、僕が言いたいのはそういうことじゃない。
  もう一度、寝台を見るように言って言葉を続ける。
  気づいていないわけではないだろう、この美しさの持つ意味を。
 「ずいぶん良い毛並をしているだろう?」
  猫に例えるような表現にフレイが眉を顰める。
  実際彼女が着ていた衣装は上質の絹を使っていた。
  絹だけならある程度資産を持つ家なら娘に与えるのは珍しくない。
  だが彼女が着ていたのはそこらの娘が着られるような布地ではない、最高級品だ。
  それこそ王族や貴族、それも一部の大貴族しか着ないような素材。それだけでも彼女の身元を表すには十分だろう。
  加えてこの美しさ。白い肌、細い指、髪一筋に至るまで美しく整った容姿はよほど大事にされてきたのだと知れる。
 「確かにそれなりの身分でしょうね。 それだけを見れば」
  衣装は用意できると言いたいのだろう。けれど容姿だけは一朝一夕で仕込めるものではない。
  それに、そこは大した問題ではない。僕にとって大事なのは別のことだ。
 「彼女の素性がどうであれ、これだけの容姿なら役に立つ」
 「…」
  人魚を拾ったと言ったときは呆れた顔をしていたフレイだったが、現実的な話をすると顔つきが変わった。
  彼女がどこの誰だろうが話題を攫えるだけの器量があれば、僕の役には立つ。
  毎度行われる意味のない夜会にはうんざりなんだ。
  同じような話を繰り返すだけの人間に相槌を打ち、退屈させない程度に話題を振る。
  時折役立つ話も聞けるから無駄ではないんだが。
 「これだけの美しさがあればどこに出しても注目の的になる」
  黙って座っているだけでも口の軽い男などは彼女に話しかけずにはいられないだろう。
 「素性なんて適当に何とでも言えるし、退屈な仕事に華が増えて少しは気もまぎれる」
  中身も伴えばさらにいいがと心で付け足す。
  フレイは他に理由があるのではないかと懐疑的な目で見ていたが、何も言わずに口を閉じた。
  見た目だけでも有効に使えるが身分も付けばなおのこと。
 『保護』するのは無駄にはならない。
  それを言い訳にしてイリアスは自分の屋敷に連れて来た。
  利用価値があるといったのはただの方便だ。
  彼女を連れて行けば夜会の話題を攫えるとしても、それをするつもりもない。自分でさえ時に面倒になる仕事に他人を巻き込もうとは考えていない。
  気になった。海で彼女を見た時に助けたいと思った、それだけだった。
  それは利害よりも先に思ったことで、それが自分でも不思議だ。
  フレイがしつこく聞いてきた理由もわかる。
  普段の自分なら絶対にしない行動だ。
  日頃女性と親しくすることも多いが、それは僕にとって、仕事の一貫でしかない。
  家にまで女性を踏み込ませるのは嫌いだった。
  それを知っているから僕の行動を奇妙に感じたんだろう。
  僕自身もそう思っている。
  いったい、彼女の何がそう思わせたのだろうか。
  白銀の人魚にはどんな物語が眠っているのか。
  見つめていると女性は小さく身じろいで、ゆっくりと目を開けた。
 「…!」
  見えた色の鮮やかさに言葉を失う。
  隣でも息を飲む音が聞こえる。
  現れたのは紫水晶を溶かした海のような神秘的な色合い。
  瞳の中に紫、蒼、碧が混ざり合い、複雑な色味を作り出している。
  光の入る角度によって色の変わる瞳はある種の宝石のようだったが、決して宝石にはない濡れた質感。
  何かに目を奪われたのはいつ以来か。
  それは繊細な容姿と相まって、本当に人の世とは遠く離れたところから流れて来たようにさえ思えた。
  驚きに声が出せずにいると彼女はぼんやりと虚空を見つめたまま呟いた。
 「ここは…」
  低くも高くもない涼やかな声。媚びるような甘さの含まれない声は心地よく響いた。
 「気がついたかい?」
  声をかけると、紫碧の瞳がこちらを向いた。
  しかし視線は僕に定まることなく、空中を彷徨っている。
 「ここは僕の屋敷だ。海辺に倒れていた君を見つけて、ここまで運んだんだ」
  彼女の不可思議な視線も気にはなったが、とりあえず説明を優先することにした。
  最初に発した言葉がこの辺りのものではなかったので、公用語で話してみる。
 「気分はどうだい?
  かなり長い時間海に浸かっていたみたいで、見つけた時は身体が冷えきっていたんだ。
  どこか具合の悪いところはあるかな?」
  僕の問いに彼女は小さく首を振って答えた。
 「いいえ、どこも…」
  答えた言葉は公用語。この世界には四つの大陸があるがそれぞれの大陸の中では国は違っても言葉はそれなりに通じる。つまり普通に生きていく分には公用語を習う必要はない。
  わざわざ公用語を覚えるのは外交を担当する者か、学者、あるいは自分に付加価値を付けたい貴族くらいだ。いずれにしても一般家庭で得られる能力ではない。
  イリアスは自分の予想が正しかったことを確認する。
  わずかな沈黙の後、小さな声が聞こえた。
 「…。 私、助かったんですね…」
  一瞬だけ安堵の表情に寂しさが混じる。
  それは錯覚かと思うほど短い時間だったが、僕の目は確かにそれを見た。
 「あの…」
  半身を起こした彼女が、頭を下げる。
 「ありがとうございます。
  あなたが助けてくださったんですね」
  ありがとうございます、ともう一度深く頭を下げる。
  そんな何気ない仕草さえも美しく、隣にいるフレイなどは言葉もないようだった。
 「私はセシリアと申します。
  神殿ではウル司教の侍史を努めております」
  神殿…?
  あまり聞かない単語が出てきたが彼女の紹介に答えて僕も名乗ることにした。
 「僕はイリアス、王家に仕える騎士の一門だ。そして彼は執事のフレイ」
  手振りも交えて紹介をするが、彼女の瞳はまたしても僕らの上を通り過ぎていく。
  違和感が疑念に変わる。
  そして彼女から決定的な一言が発せられた。
 「随分暗いようですが、今は夜のどのあたりなのでしょうか?」
  室内にはカーテンを透った軟らかい光が満ちている。
  早春の日が作り出す影は薄く、暗闇など室内のどこにもない。
  目配せをするとフレイが急いで部屋を出ていく。
  医者が戻るまで、下手な事は言わないほうがいいだろうか?
  言葉に詰まる僕に彼女の紫碧が不安の色を増す。
  彼女を安心させたかったが、上手い言葉なんて何一つ出てこなかった。
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