『少女、始めました。』

葵依幸

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【3】旅行で少女。

3-5

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「“――すみません、この人をご存知では無いですか?”」

 杏子さんの用意してくれたパソコンの画面から、透き通るような声が聞こえてくる。お茶屋さんのおばあさんに一枚の写真を見せる女性、ご主人サマの家に置いてあった写真と同じ人だった。

「――笠井ミサトさんの事って、聞いてる?」

 例の「良い物」を探す間に少しだけ、ご主人サマの奥さんについて教えてくれた。
 大学の先輩だった事、ご主人サマとその友人が撮っていた映画で女優をしていた事、大学を卒業して結婚した事。次々と語られる過去に私はどうすれば良いのか戸惑い、何故か一つ一つの言葉に胸の奥が苦しくなった。

「それでこれがミサトさんとお兄ちゃんと、朽木さんの三人で撮った映画だよ」

 そう言ってパソコンに入れてくれたDVDがいま流れている映像だ。

「“ねぇ、君は何を見つけたの――?”」

 突然崖から身を投げ、自殺してしまった恋人の足取りを残された日記片手に旅する女性。写真の彼女からは想像がつかない程儚げで、繊細な女性を演じていた。物語が進むに連れて徐々に明らかになる彼の気持ち、そして彼の面影を至る所で感じ、彼への愛を深めていく彼女。

 物語の最後は夕焼けの綺麗な丘で締めくくられる。
 オレンジ色の海風が長い髪を弄ぶ中、彼女は遠く地平線の彼方を見つめ、呟く。

 ――こんなに綺麗な景色、独り占めするなんてずるいわ――、と。

 遠く遥か彼方に見える地平線、静かに流れを生む海の模様は絶えずその姿を変えまるで彼女の心の中を映し出しているようにも感じた。
 カモメが飛んで行く、船が消えて行く、空は色を深い青色に変え、世界が暗闇に包まれやがて訪れた静寂の中で波の音を聞いた。

 静かに、ただ静かにそこで誰かの事を待っていた心の響きを聞いていた――。

「…………?」

 気が付くと涙を流していた。

「あれ……、なんで……」

 手で拭っても拭っても溢れ出るそれは留まる事を知らず、映画のスタッフロールが終ってもなかなか止まらず、そんな姿を杏子さんは静かに見守っていてくてた。

「……凄い映画だよね」

 静かに杏子さんが告げる。

「こんな物を作っちゃうなんて、あんな兄貴からは想像出来なくない?」

 口の端をあげて笑ってみせながらも杏子さんの目も少し潤んで見えた。

「……はい」

 映画を通して私の知らないご主人サマに触れた気がした。
 ご主人サマもレンズ越しにこんな世界を見ていたんだろう。
 森の奏でる木々のざわめきや光の溢れる世界を。
 浮かんでは消えて行く人々の表情を、想いを、レンズ越しに覗いていたんだろう。

 フィルムの中の奥さん――、ミサトさんは凄く綺麗な人だった。
 家に置いてある写真よりもずっと綺麗だった。他の誰よりも透き通った物を持っていて、その指先に触れるもの全てが瑞々しく、息衝いて見えるようだった。

 もうこの時から2人は惹かれ合っていたんだろうか……? レンズ越しにその笑顔を見つめ、見つめ返されて苦笑したり、笑ったりしたんだろうか。

 ――笠井、ミサトさん……か。

 いまはもう会う事は叶わない、そんな彼女の事が気になってしょうがなかった。

「ん……?」

 窓ガラスに打ち付ける雨音に目をやるとと、いつの間にか天気が崩れたらしく大粒の雨が窓ガラスに打ち付けて来ていた。

「ありゃりゃ、大丈夫かな――ってマキちゃん!?」

 気が付いた時にはもう飛び出していた。
 靴を履いて玄関に置いてあった傘を2つ掴み、外に出る。仏壇の置かれた客間から聞こえる談笑の声は、玄関の扉を開けると雨音によって打ち消され、思わず唖然として真っ暗になった空を見上げる。

「ッ……」

 それでも足を踏み出し――

「ぁっ……」

 ぴしゃっと、足を止めると出来たばかりの水溜りで泥水が跳ねた。

「……場所、知らないじゃん……」

 打ち付ける雨が勢いを増したように感じる。差した傘に雨粒が当たり、時折吹く風で傘を持つ手が濡れた。目の前を横切る道すらどちらに行けば良いのか分からない。
 呆然と立ち尽くしているとやがてつま先からじんわりと足が濡れ始める。それでもどうする事も出来ず、ただ呆然とアスファルトに打ち付ける水を眺め続けた。

「……っ……」

 待っていたって仕方が無い事ぐらい分かる。今から急いだってどうせびしょ濡れだ。だからこんな所で傘を持って突っ立っていても何の意味も無い――分かってる。
 けど、立ち去る事も出来ず、ただご主人サマの帰りを待っていた。

「……マキちゃん?」

 杏子さんが心配して様子を見に来てくれた。

「風邪引いちゃうから中に入ろう?」

 優しく傘を持つ手を包み込んで中に入れようとしてくれる。でも、

「……すみません……」

 家の中に戻ろうとは思えなかった。
 ただ、雨が降って来て、濡れてるだろうから傘をーー、なんて……バカみたいだ。

 容赦なく打ち付ける雨が傘を濡らし、地面で跳ねた雫は膝まで届く。
 雨音だけが鳴り響く中、自分の気持ちがよくわからないでいた。
 今日、ここに連れてこられて、ご主人サマの事、映画見て……、でもやっぱり私はなんにも知らなくて――。

「っ……」

 映画の中で夕日に染まって微笑み、なびく髪を優しく押さえる姿が浮かぶ。
 あの人なら、ご主人サマの事なんでも分かってたのかな……?

 空いてしまった穴を埋めるのが私の役目なら、私は彼女にならなきゃ行けない。ご主人サマの奥さんに。そうしてその寂しさを埋めてあげなきゃいけない。

「なんてコト言ってたら、また鼻フックされちゃいますかね……?」
 ちょっと……、自信が無かった。

 ご主人サマの力になりたいと思うのは確かだ。でも何をしてあげれるかと言われれば分からない。映画を見て感じている感情はきっと嫉妬だ。あの人は、ご主人サマの奥さまはきっとご主人サマの気持ちを何でもかんでも手に取るように感じ取れていたんだろう。なんとなくそんな風に感じた。カメラの前で微笑む姿は余りにも眩しく――、それが「お芝居だから」とは思えなかった。きっとあの人はレンズ越しにご主人サマの事を見ていたんだと思う。とても、とても大切そうな物を見る目で――。

 打ち付ける雨に傘を持つ手は濡れ、足下の水溜りは嵩を増し続ける。
 水を含んだ靴がなんだか気持ち悪くて、どんどん気持ちも沈んで行く様に感じる。
 ――なにしてんだろ、わたし。

 何もして上げれてない、何もしてあげることができない。この傘を持って行ってあげる事すらいまの私には出来無くて、ここでこうして雨に濡れ続ける事しか――、


「……何してんだ、おまえ?」
「…………ぁ」


 顔を上げると、ご主人サマがそこに居た。
 喪服の上着を腕に掛けて、びっしょり濡れた髪の毛は顔にへばりついてる。

「ぁ……あ……」

 まるでお化けみたいにびしょびしょで、怪訝そうに眉をひそめる。

「ん……?」

 そんな姿はちょっぴり怖かったりするのだけど――、

「……遅いですよぉ、ご主人……一体何処のトイレ行ってやがったんですかぁ……」

 思わずその服の裾を引っ張った。

「……悪いな」
「ホントですよ……!」

 傘を差し出すと黙って受け取ってくれる。本当はそう思ってないですよね、とでも叱ってやりたくなるような気のない返事。そんないつもと変わらない、無愛想な態度にますます悔しくなる。人が心配して、人が勝手に心配して、人がこんなになるまで心配したって言うのにこのご主人サマと来たらッ……私のご主人サマと来たらっホントにッ、ホントにッ……!

「っとに、バカヤローですっ!」
「…………」

 叫んだ声さえも、打ち付ける雨によって掻き消されるばかりだった。
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