春にとける、透明な白。

葵依幸

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(7-1) 彼女のいない病室

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― 7 ―

 それはリクエストされた誕生日プレゼントを買いに駅前に寄ってから病院に向かった日の事だった。

 僕が到着すると先に冬華さんのところに行くと言っていた舞花が廊下に立っていて、母が慌ただしく病室に入っていくところだった。
 中に入ろうとしたら舞花に腕をつかんで引き留められて、カーテン越しに母が冬華さんの容体を確かめているのが見えた。

 専門的な病状を告げる言葉が飛び交っていて、その意味を理解することは出来ないけれど、どういう状況なのかは伝わってくる。そうこうしているうちにストレッチャーが運び込まれてきて、僕らは邪魔だと横に退けられた。運び出されていく冬華さんの顔は、僕からは見えず、ただ隣で震える舞花の様子が掴まれたままになっていた腕から伝わってきて、誰もいなくなった病室が不気味で、気持ち悪くて。ふらふらといつものようにベットの脇の椅子に腰かけ、書きかけの原稿が床に散らばっていたのでそれらを搔き集めてようやく頭が追い付いてくる。

 僕は何をしているんだろうと他人事のように思いながらも視点も考えも上手く定まらない。

「冬華さん……、少し散歩したいっていうから屋上に連れて行って……、戻ってきたら急に息苦しそうにしてっ……、わたしっ……わたしっ……」

 言い訳をするかのように舞花が告げた。

「なんでお前が泣きそうになってんだよ……」
「だってぇっ……」

 分かってる。責任を感じてるんだろう。だけど舞花は悪くない。

「風邪をぶり返したんだよ、きっと。……あの人、時々病院抜け出してるから。どっかで貰ってきたんじゃない?」

 バラバラになっていた原稿を綺麗にそろえる。ただ、ページ数をそろえる気は起きなかった。
 そのままサイドテーブルの上に重ねて置いておく。ただ、しばらく来なかっただけでカウンターの上は盛大に散らかっていて、これだから冬華さんは、世話がかかるんだ。本当に。
 片づけるかどうか悩んで、結局手が止まった。

「…………」
「ごめん……葉流……」
「謝ったところで仕方がないだろ」

 分かってる。舞花に当たったところでどうにかなるわけじゃない。

 落ち着けと自分に言い聞かせる。何をどうすべきか。いま僕らに何かが出来るわけじゃないなら、こんなところにいたって仕方ない。なら今日のところはもう帰ろう。また明日、は土曜日だから、朝からくれば冬華さんの体調だってきっと良くなってる。

 病室をふらふらと出口に向かって歩いていた僕は天井を仰いだ。ああ、もう、ほんとに落ち着けよ自分って、参ったな、ほんと。

「冬華さん、悲劇のヒロインって感じじゃないから。大丈夫。心配する必要ないよ」

 どちらかといえばしぶとく生き残るタイプの人だ、あの人は。
 冬華さんの書いたお話で主人公の女の子は荒廃した世界で何があっても諦めようとしなかったし、独りでも心を折ることなく歩みを止めようとはしなかった。だから冬華さんも、きっと――。

 そうやって同意を求めるけれど舞花は全然そんな顔はしていなくて、でもそれは多分舞花があの人のことを良く知らないだけだし、冬華さんも冬華さんでコイツの前では立派に猫を被っていたんだろう。だって、僕も最初は騙されたんだ。だから、

「なんでだよ……、なんで……」

 だけど、もう、限界だった。覆い隠そうとしていた本心がこぼれ出る。

「もう、……嫌だ……」

 誰かを失うのは。大切な人を見送るのは。
 こんな弱音を吐いたところで何も変わらない。

 分かってる。願ったところで、現実は変えられない。変えようとしているのは必死に今処置に当たっている母たちだ、僕らはただ、ここに立ち尽くして、――ただ現実を受け止めきれずにいて、……出来ることなんて、何一つなくて。
 祈る神がいることが、どれだけ救いになるだろう。

 何もできない状況で、祈ることが出来る事がどれだけの救いになるだろうか。それがただの誤魔化しにしかならないとしても。神様と、祈れば救われるような信仰を、僕は持ち合わせていない。神様に祈ったところで、神様が実在したところで、そいつが、誰かを救ってくれないことは、僕はもう幼い頃に知っていて、祈ることの無意味さを実感していたから。

 だからこそ、睨みつけた。
 そこにいるかもしれない神様を。

 ただ静かに僕らの元へ近づいてきている彗星を。

 絶望的な状況で、救いようのない現実で起きたことを奇跡というのであれば、神様なんていなくていいから、起きろよ奇跡ッ……。

 面会時間が終わるまで病室で待っていた僕らの元にやってきたのは母親で。しばらくは集中治療室だと教えられた。その後ろに冬華さんによく似た女の人が立っていて、ああ、この人がお母さんなんだって、特に何を話したかも覚えていない。泣きつかれてしまった舞花を連れて僕らは自宅に戻って、冬華さんには悪いと思ったけれど、渡されたものの続きだと思われる部分から持ち出した原稿に目を落とした。

 憔悴しきった頭はいつかの夜とは違い、冬華さんの物語を丁寧に掬い取っていって。彼女の物語をいつもよりも色鮮やかに浮かび上がらせた。それまで見えていなかった物語が、彼女の伝えたかった想いが、僕に、流れ込んでくるかのようだった。

「……そっか……」

 そうするうちに一つの仮説というか、事実に気が付いた。

 僕はこの少女を冬華さんだと思って読んでいたし、初めに読んだ時もそういう印象を受けたけど、もしかして本当はそうじゃないのかもしれない。少女は残された人々の記憶を辿り、かつてここにいた人々の人生を、道筋を知っていく。言葉を交わすことの出来ない、一方的な会話。……けれど、彼女はそこから色んなものを受けとっていく。

 そんな物語を読むうちになんとなく、少女は冬華さんじゃないのかもしれないと思うようになっていく。
 彼女が孤独を癒すために、自分自身を投影した現実逃避なのだと思っていたけど本当はそうじゃないのかもしれない。


 ——だけど僕が書くべきなのは感想であって、解説じゃない。


 この物語に対する面白かった点や不思議に感じた場所を拾い上げて、冬華さんがより良い物語を書けるようにすればいいだけだ。だから、しばらく考えた後backキーで消していく。冬華さんだってこんなこと、触れたくないハズだ。だから当たり障りのない、その他の感じたことを掬い取って、打ち込んで。彼女への言葉とした。そうやっている感覚はどんどん麻痺していって、気が付けば夜が明けていた。

 頭の中に気持ち悪い、ぼやけたお化けみたいなものが浮かんでは消える。寝不足の瞼に差し込む日差しはあまりにも眩しすぎて、これが現実なのか夢の中なのか曖昧なままにベットに倒れこんだ。

 まどろみの中、冬華さんのほほ笑む姿がぼんやりと浮かび、早く小説の感想を伝えてあげないといけないのにって、眠気に抗って、……結局僕はそのまま眠りに落ちた。夢の中で、父に会ったような気がしたし会っていないような気もする。つまりはまぁ――いつもと、そう違わない夢だった。

 目が覚めた後、相変わらず回らない頭のままでいつの間にか病室まで足を運んでいた。
 当然のように誰もいない病室で放置された原稿。その続きを読み漁る。そうすることが唯一、冬華さんの存在を感じる方法だったから。

 気が付けば元々夕焼けだった空はすっかりと沈んでいた。徹夜で体内時計がぐちゃぐちゃだ。それに現実を捉えるネジが一つ外れてしまったかのようでもあって、ずっと頭の中に靄がかかっている。

「寝不足って怖いな……」

 流石にどうかしてると立ち上がると腰がバキバキと変な音を立てた。思えばここ十数時間、ほんとに座りっぱなしだ。

 持ち出した原稿と今まで読んでいた原稿をとりあえず一纏めにしてサイドテーブルの上に片づける。後は途中までだけれど打ち出してきた感想のプリント用紙も重ねておいた。冬華さんじゃないけれど目の前で読まれるのは確かにちょっと嫌かもしれない。こっちの病室に戻ってきたらさっさと一人で読んでもらいたいものだ。ついでに渡しそびれた誕生日プレゼントも、置いておく。家を出る前に探して持ってきたお守りも。

「……馬鹿みたいだ」

 こんなものが何かの役に立つだなんて思ってない癖に。

 埃を被ったままになっていた健康祈願のお守り。父さんとお揃いで貰って、父さんを救ってくれなかったお守り。

 歯がゆさが僕を苛立たせた。こうして眺めてみると、独りきりの病室は広すぎるように思える。開きっぱなしになっているカーテンの向こう側には誰もおらず、元々四人部屋であることもあって広すぎる空間は孤独感をより助長させるようだ。耳をすませば廊下の向こう側から人の気配は感じるのだけど、ここでこうしていると、まるでこの世界に一人で取り残されたかのような錯覚さえ覚える。

 そっと、ベットに腰かけてみる。変態じみた行動だとは思うのだけれど、少しでも冬華さんの存在を感じたかったのかもしれない。ただ、ひんやりと冷えてしまった布団からは何も読み解くことはできず。寧ろそこで苦しんでいたであろう姿が苦々しい。

 ここから彼女が見ていた景色はどんな景色だったんだろうか。
 誰もいない病室で、一人、見ていた景色。そこで彼女が何を感じていたのかは所詮想像するしかない。けれど、そこから生み出された物語を僕はもう読んでしまっていて、思いを重ねずにはいられない。重ねたところで、何もしてあげられない。

 感想を書いてきたのだって約束は果たすべきだと思ったまでで、それが冬華さんの身体を治す薬になるわけでもない。なのに、その僅かな繋がりに縋る事しか今の僕には出来ない。
 ふと人の気配を感じて顔を上げるとそれと同時に扉が開く。反射的に期待してしまった自分がなんとも情けない。

「悪かったねぇ、母上様で」

 後ろ手に扉を閉め、束ねた髪を解いたところを見るに、どうやら今日の仕事は終わったらしい。目の下のクマがいつもよりも随分と濃くなっている。いまのいままで冬華さんに付きっ切りだったというわけではないのだろうけど、それでも「お疲れ様」という言葉はあまりにも軽い気がして何も言えなかった。

「容体は?」
「守秘義務。……つっても、ご両親からは葉流君にもよろしくどうぞって言われてっからなー……? 話すべきかどーなのか。母親としては悩むってーかなんてーか」

 父と同じ病気、ということは手術しないかぎりは悪くなることはあっても良くなることはない。なら、こうして主治医が一息つけているというのはそれなりに落ち着くところに落ち着いたのだろう。問題は、何処に収まったか。それに、母さんも。

「平気? 三日帰ってこなかった時より酷い顔してる」
「親の心配出来る子に育ってくれた事を思えば、元気も出てくるよぃ」

 わしゃわしゃと照れ隠し代わりに髪を掻き回される。抵抗する間もなく落ちてくるのはため息だ。「はーっ……」と普段から明るく振舞っている母にしては珍しい弱音と共にそのまま頭ごと抱き寄せられる。

「職場だよ」
「その上、葉流の好きな子のベットの傍」

 軽口を叩きながらも僕を抱き寄せる腕には力が入る。
 どうにもやりきれないことが多いんだろう。

「大変そうだね」
「何をひとごとみたいに」
「他人事だよ」

 当事者とは、口が裂けても言えない。所詮は赤の他人だ。……なのに、馬鹿みたいだ。いちいち動揺して。めんどくさい。

「聞きたい? 冬華ちゃんの事。……あの人の事もあるから、葉流が聞きたくないっていうなら、それでいいと思う」

 父さんの主治医もまた、母だった。その任を降りることだってできたはずなのに、母は最期までその勤めを果たした。そして今も、嫌な立場で戦い続けている。

「病状とか、難しいことはいい。……後、どれぐらいなの。望みはあるの?」

 正直、逃げ出したかった。全部曖昧にして、うやむやなままに投げ出して、いつかこの病室に戻ってくる冬華さんを「久しぶりですね」って迎えたかった。例えそれが叶わない願いだったとしても。そうして覆い隠して、これ以上考えるのをやめたかった。だけどそれじゃ、冬華さんからも逃げることになりそうだと思った。そんなことをするぐらいなら、父さんと同じ病気なのだと告げられた日から先に踏み込まなければよかったのだ。

 僕はもう、向き合うことを決めた。
 冬華さんの傍にいると、伝えたんだ。その気持ちに嘘はない。

「強いね、葉流は。お母さん、嬉しい」

 またわしゃわしゃと掻き回される頭。子ども扱いして、笑う。

「やれることは全部するよ。約束する。お母さんを信じな?」

 それ以上、母は何も言わなかった。僕の背を押し、家に帰るように促す。結局は「もうしばらくしたらまた面会できるようになるから」と付け加えただけで僕が尋ねた答えを、教えてはくれなかった。ただそれが全てで、答えなんだろう。

 望みを捨てるにはまだ早すぎて、けれどもう、望みはないに等しい。
 やはり空に浮かぶ彗星のようだと僕は思う。
 対策がないわけではないけれど、決定打にはならず。また、直前で軌道が逸れる可能性がないとも言い切れない。

 冬華さんは、一人で死にたくなくてあの彗星を呼んだといった。
 それは殆ど冗談みたいな言葉だけど、一人で死にたくないと嘆いたのは本当の心だ。

 大丈夫。一人じゃ逝かせませんよ。きっとみんな一緒におじゃんです。

 世界に恨みがあるわけではないけれど、いまの僕にとっては世界よりも冬華さん一人を救う奇跡が欲しいと願った。例え、あの彗星が僕らの頭上に落ちてくる未来が変えられないのだとしても、冬華さんの未来が、少しでも長くなればそれでいいと。随分後ろ向きな無理心中で、くだらないとすぐに吐き捨てたのだけれど。

「そんな顔したって、世界はまだまだ終わらないよ、葉流君?」

 河川敷をそんなことを考えながら自転車を押して歩いていると冬華さんの声がした。考えるまでもなく幻聴で止まりかけた足をそのまま動かす。

「君の未来はワタシとは違うところにあるんだから」

 関係ないと、僕は答える。
 冬華さんがいない未来なんて、僕は考えたくもないと、告げる。

「それって、私がいないと寂しいってことなのかな?」

 そうですよ。寂しいんです。大事な人ほど僕の前からいなくなってしまう。人はいつかは別れなきゃいけないって当たり前の事なんですけど、だからって少しはペースってものを考えてもらいたい。気持ちの整理が、つかないじゃないですか。

「ありがとね、葉流君」

 耳元で囁くような言葉に耐え切れず振り返り、当たり前のようにそこには誰もいなくて。全部、僕の妄想でしかなくて。だから、こぼれる涙を恥ずかしくてぬぐい隠した。誰かに見られて笑われるより、一人で泣いているときの方が気持ちは随分とみじめだ。

 冷静になってみれば冬華さんを勝手に妄想だなんて、勝手にもほどがある。あの人の気持ちは、あの人にしか分からないハズなのに。

 本物の冬華さんがそこにいたら、きっと思う存分馬鹿にされるんだろうけど、その方が幾分かマシだった。病院まで足を運んで、結局、冬華さんには会えずにこうして引き返してきて。

 僕は、何をしているんだろう。

 虚しさと寂しさが、分かっていたはずの無力さを際立たせる。
 会いたいというのも、僕の身勝手な気持ちで、冬華さんはそれどころじゃないっていうのに――。

 子供だな。と、昔とは変わっていない自分を卑下するしかなかった。他に出来る事が思い浮かばなかった。

 一人、いつもと変わらないハズの帰り道が嫌に長く感じ。相対性理論だなんてうるさいんだよって、最後は無理やり自転車を漕いで気持ちを後ろに置き去りにしようと足を回したけれど、いつの間にか大声を上げながら走っていた僕はすぐに足をつくことになってしまって。

「くそっ……」

 肩で息を整えながら唇をかみしめた。
 冬華さんに会いたい。会って、どうしたいというわけでもないのに。

 明日の見えない空を横目に重い足で何とかペダルを漕いで家に帰った。
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