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からし

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黒書院

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江戸城落城の直前、幕府の記録に存在しない“黒書院”と呼ばれる部屋が、密かに取り壊されたという話がある。そこに仕えていたのは、幕府に仕える記録官ではなく、「記録してはならぬもの」を封じる者たちだった。

弘化四年、将軍の命により黒書院の管理を命じられた若き御家人、矢部清太郎は、その異様な空気に最初から違和感を覚えていた。

「ここには、存在してはいけない記録がある」

そう説明された清太郎の任務は、毎夜、古文書の点検と整理をするというものだった。ただし、決して開いてはならぬ文書が存在し、それには黒い封が施されていた。

最初の数日は何事もなく過ぎた。だが、三日目の夜、奥の棚から“何かが這う音”が聞こえてきた。ネズミかと思い、提灯を持って近づくと、古い和綴じの帳面が床に落ちていた。

封が破れていた。

「……誰が?」

誰も入るはずがない。清太郎は恐る恐るその帳面を開いた。そこには墨でこう書かれていた。

「三百年前の秋、ここに記された者がすべて姿を消した」

続く行は赤黒い墨で汚れており、読み取れない。

その夜から、清太郎は夢を見るようになった。見知らぬ男たちが血まみれで何かを叫んでいる夢。炎に包まれる江戸の町。そして、彼らが指を差す先に、自分がいた。

「……お前だ。記したのは、お前だ……!」

夢の中の声が、現実の耳元で囁いてくるようだった。

四日目の夜、黒書院の奥にある襖がひとりでに開いた。普段は鍵がかかっており、誰も入ることを禁じられていた場所。中には、乱雑に積まれた帳面が山のように置かれていた。

その帳面のすべてに、名前が書かれていた。

過去に黒書院に仕えた者たちの名前だった。

全員、「死亡」あるいは「行方不明」と記されていた。

その最下段に、新しい筆で書かれた一枚があった。

矢部清太郎——近日中消滅。

清太郎は恐怖に駆られ、帳面を燃やそうとした。しかし火は一切燃え広がらなかった。墨で書かれた文字が、まるで血のように煙を吐きながら、炎を飲み込んでいく。

彼は翌朝、姿を消した。

部屋には何の争った痕跡もなく、ただ、最後に彼が読んだ帳面だけが、静かに開かれていた。

それから十年後、幕府が倒れ、江戸城は明治政府の手に渡った。その際、城内の一部の建物が焼却されることになったが、「黒書院」という名の場所だけは、正式な図面には存在していなかったという。

だが、解体作業に携わった職人の一人が、こんなことを呟いていたという。

「妙だったな……最後の棟だけ、誰も近づきたがらねえんだよ。扉の前に立つと、頭の中に名前が響くんだ。知らない誰かの、死んだはずの名が……」

そしてその職人も、後日失踪した。

黒書院の跡地は、今は都内某所の公園となっている。古びた説明板には、何も書かれていないが、雨の日になると、錆びた表面に、にじむように浮かび上がる文字があるという。

「ここには記録されなかった死者たちが眠っている。
彼らを呼ぶな。名を、読むな。」
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