134 / 138
黒書院
しおりを挟む
江戸城落城の直前、幕府の記録に存在しない“黒書院”と呼ばれる部屋が、密かに取り壊されたという話がある。そこに仕えていたのは、幕府に仕える記録官ではなく、「記録してはならぬもの」を封じる者たちだった。
弘化四年、将軍の命により黒書院の管理を命じられた若き御家人、矢部清太郎は、その異様な空気に最初から違和感を覚えていた。
「ここには、存在してはいけない記録がある」
そう説明された清太郎の任務は、毎夜、古文書の点検と整理をするというものだった。ただし、決して開いてはならぬ文書が存在し、それには黒い封が施されていた。
最初の数日は何事もなく過ぎた。だが、三日目の夜、奥の棚から“何かが這う音”が聞こえてきた。ネズミかと思い、提灯を持って近づくと、古い和綴じの帳面が床に落ちていた。
封が破れていた。
「……誰が?」
誰も入るはずがない。清太郎は恐る恐るその帳面を開いた。そこには墨でこう書かれていた。
「三百年前の秋、ここに記された者がすべて姿を消した」
続く行は赤黒い墨で汚れており、読み取れない。
その夜から、清太郎は夢を見るようになった。見知らぬ男たちが血まみれで何かを叫んでいる夢。炎に包まれる江戸の町。そして、彼らが指を差す先に、自分がいた。
「……お前だ。記したのは、お前だ……!」
夢の中の声が、現実の耳元で囁いてくるようだった。
四日目の夜、黒書院の奥にある襖がひとりでに開いた。普段は鍵がかかっており、誰も入ることを禁じられていた場所。中には、乱雑に積まれた帳面が山のように置かれていた。
その帳面のすべてに、名前が書かれていた。
過去に黒書院に仕えた者たちの名前だった。
全員、「死亡」あるいは「行方不明」と記されていた。
その最下段に、新しい筆で書かれた一枚があった。
矢部清太郎——近日中消滅。
清太郎は恐怖に駆られ、帳面を燃やそうとした。しかし火は一切燃え広がらなかった。墨で書かれた文字が、まるで血のように煙を吐きながら、炎を飲み込んでいく。
彼は翌朝、姿を消した。
部屋には何の争った痕跡もなく、ただ、最後に彼が読んだ帳面だけが、静かに開かれていた。
それから十年後、幕府が倒れ、江戸城は明治政府の手に渡った。その際、城内の一部の建物が焼却されることになったが、「黒書院」という名の場所だけは、正式な図面には存在していなかったという。
だが、解体作業に携わった職人の一人が、こんなことを呟いていたという。
「妙だったな……最後の棟だけ、誰も近づきたがらねえんだよ。扉の前に立つと、頭の中に名前が響くんだ。知らない誰かの、死んだはずの名が……」
そしてその職人も、後日失踪した。
黒書院の跡地は、今は都内某所の公園となっている。古びた説明板には、何も書かれていないが、雨の日になると、錆びた表面に、にじむように浮かび上がる文字があるという。
「ここには記録されなかった死者たちが眠っている。
彼らを呼ぶな。名を、読むな。」
弘化四年、将軍の命により黒書院の管理を命じられた若き御家人、矢部清太郎は、その異様な空気に最初から違和感を覚えていた。
「ここには、存在してはいけない記録がある」
そう説明された清太郎の任務は、毎夜、古文書の点検と整理をするというものだった。ただし、決して開いてはならぬ文書が存在し、それには黒い封が施されていた。
最初の数日は何事もなく過ぎた。だが、三日目の夜、奥の棚から“何かが這う音”が聞こえてきた。ネズミかと思い、提灯を持って近づくと、古い和綴じの帳面が床に落ちていた。
封が破れていた。
「……誰が?」
誰も入るはずがない。清太郎は恐る恐るその帳面を開いた。そこには墨でこう書かれていた。
「三百年前の秋、ここに記された者がすべて姿を消した」
続く行は赤黒い墨で汚れており、読み取れない。
その夜から、清太郎は夢を見るようになった。見知らぬ男たちが血まみれで何かを叫んでいる夢。炎に包まれる江戸の町。そして、彼らが指を差す先に、自分がいた。
「……お前だ。記したのは、お前だ……!」
夢の中の声が、現実の耳元で囁いてくるようだった。
四日目の夜、黒書院の奥にある襖がひとりでに開いた。普段は鍵がかかっており、誰も入ることを禁じられていた場所。中には、乱雑に積まれた帳面が山のように置かれていた。
その帳面のすべてに、名前が書かれていた。
過去に黒書院に仕えた者たちの名前だった。
全員、「死亡」あるいは「行方不明」と記されていた。
その最下段に、新しい筆で書かれた一枚があった。
矢部清太郎——近日中消滅。
清太郎は恐怖に駆られ、帳面を燃やそうとした。しかし火は一切燃え広がらなかった。墨で書かれた文字が、まるで血のように煙を吐きながら、炎を飲み込んでいく。
彼は翌朝、姿を消した。
部屋には何の争った痕跡もなく、ただ、最後に彼が読んだ帳面だけが、静かに開かれていた。
それから十年後、幕府が倒れ、江戸城は明治政府の手に渡った。その際、城内の一部の建物が焼却されることになったが、「黒書院」という名の場所だけは、正式な図面には存在していなかったという。
だが、解体作業に携わった職人の一人が、こんなことを呟いていたという。
「妙だったな……最後の棟だけ、誰も近づきたがらねえんだよ。扉の前に立つと、頭の中に名前が響くんだ。知らない誰かの、死んだはずの名が……」
そしてその職人も、後日失踪した。
黒書院の跡地は、今は都内某所の公園となっている。古びた説明板には、何も書かれていないが、雨の日になると、錆びた表面に、にじむように浮かび上がる文字があるという。
「ここには記録されなかった死者たちが眠っている。
彼らを呼ぶな。名を、読むな。」
0
あなたにおすすめの小説
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/27:『ことしのえと』の章を追加。2026/1/3の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/26:『はつゆめ』の章を追加。2026/1/2の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/25:『がんじつのおおあめ』の章を追加。2026/1/1の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
百の話を語り終えたなら
コテット
ホラー
「百の怪談を語り終えると、なにが起こるか——ご存じですか?」
これは、ある町に住む“記録係”が集め続けた百の怪談をめぐる物語。
誰もが語りたがらない話。語った者が姿を消した話。語られていないはずの話。
日常の隙間に、確かに存在した恐怖が静かに記録されていく。
そして百話目の夜、最後の“語り手”の正体が暴かれるとき——
あなたは、もう後戻りできない。
■1話完結の百物語形式
■じわじわ滲む怪異と、ラストで背筋が凍るオチ
■後半から“語られていない怪談”が増えはじめる違和感
最後の一話を読んだとき、
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる