恋はかならず冷めるから

烏山川るう

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第二章

第九話 新しい日々

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 リビングから「フニャー」とか弱い泣き声が聞こえて、食器を片付ける手を止めた。一生懸命泣いているのだろうけど、必死さを訴えるには弱々し過ぎる。

「はいはい」

 私はリビングに向かって返事をして、泣き声の主に歩み寄った。カーペットに敷いたプレイマットで、目覚めたばかりの乳児が目に涙を溜めている。

「よく寝たね」

 その子は抱き上げられると泣くのを止めて、満足そうにあくびをした。

(かわいいなー)

 タオルで目ヤニを取ってあげながらうっとりする。今さら結婚する意味はないと思う理由だった子供には拍子抜けするくらいあっさりと恵まれた。女の子だった。まだ赤ちゃんなのに顔立ちが怜に似て整っていて、とてもかわいい。見た目のどうこうは置いておいても、日々大きくなってできることが増えて、生き物として成長する様子は毎日見ていてもまったく飽きなかった。想像していたよりずっと、我が子は愛らしくてたまらない。

 産休に入って七カ月目。初めての子育てに戸惑うのはもちろんだけど、こんなに長く仕事をしないのは初めてのこと。でも、不安はほとんど感じてなくて、育児をこなしながら今後の仕事のことも考えながら充実した時間を過ごしている。

「あー、うーあー」
「シエナはお風呂に入りたいのかな?」

 笑って泣いて、手足を動かして、言葉にならない声を出して、いい匂いをさせる。お風呂上がりは格別でずっと抱きしめていたいくらい。でも、そうもしていられないので、再びプレイマットで遊ばせて、キッチンで朝ごはんとお弁当の下準備を済ませた。

 怜は仕事が忙しそうだった。帰宅が真夜中になる日も多く、お風呂と寝るのと着替えに帰って来るくらい。テレビやラジオやイベントへの出演依頼も多いようで、家でよりメディアで見聞きすることの方が多かった。だから、今はいわゆるワンオペ育児。だけど、ずっと家にいられるから特別苦に感じることはない。家事を全部して、いつかはと思っていたことに挑戦したり調べたりしてもまだ時間がある。育児をしていて、心身共に疲れることはなかった。

 ただ、そんなゆったりとしたペースに慣れてしまったからか、シエナを寝かしつけがてら寝おちてしまうことが多かった。起きるのは、帰ってきた怜に抱えられて部屋に戻される時。

「ん……。おかえり」
「ただいま」
「ごめん、寝てた」
「俺も遅くてごめん」
「自分で歩ける」
「いいよ」

 深夜二時くらいだろうか。お風呂上がりらしく、胸も腕も温かくてホッとする。私をソッとベッドに寝かせると、髪を整えてくれた。

「ご飯食べた?」
「うん」
「まだ忙しいの?」
「うん。シエナ任せっきりでごめん」
「大丈夫。また、すぐに出かける?」
「ううん。今日はちゃんと家で寝るよ」

 私が伸ばした手をとってキス。おでこにもキス。隣に入って私に布団をかけ直し「おやすみ」を言うと、寝てしまった。

(やっぱり……)

 途端に涙が溢れてくる。でも、怜がいるから泣けなかった。

 これが今の私たちだ。

 怜は相変わらず優しくて、私たちを大切にしてくれる。だけど、シエナを産んだ後、彼は私に触れなくなった。最初は私の体を気づかってくれているのだと思った。だけど、もう半年。からだに問題がないことは先生からOKが出た時点で伝えた。なのに今でもセックスはもちろん、抱きしめてもくれないし、唇にキスもしてくれなかった。

(私の何が悪いんだろう)

 前はダメと言っても、半寝でも我慢してくれなかったのに。睡眠時間を確保したくて、早めに帰宅して仮眠を取ったくらいなのに。今の自分の何が彼を萎えさせているのかを、私はひとりずっとずっと考えていた。

 出産後も太ってはいない。というよりシエナに全部栄養を奪われてしまうようで痩せていた。授乳中だから、怜の大好きな胸なんて二割り増しで大きい。身だしなみだってダラけていない。

 それなのに、彼はもう私に魅力を感じてくれないみたいだ。

 怜に背中を向けて、涙をこらえる。

 だけど、ずっとは難しい。スースーとリズム良い寝息が聞こえ始めると、私はベッドを出てシエナの部屋に行く。彼女の小さなベッドに並んで横になり、呼吸で小さく動く胸を見ていると辛い気持ちを忘れられた。

(なんて癒されるんだろう)

そして、そのまま朝まで眠るのだった。


■■■■■

「そうなったら市野さんを追い出すんじゃなかったの?誓約書まで書いてくれたって言ってたじゃない」
「そうなんだけど……」

 絵理香を誘って、近所のカフェに来た。子供を連れたお母さんたちが多く集まる所で、店内には子供たちが遊べるスペースもある。絵理香は子供が小さい時によく息抜きに来ていたらしい。泣いても騒いでも気にせずにいられるから、シエナのような乳児がいても安心なのだ。

「いざとなったら、どうでもよくなっちゃって」
「えー、なんで?」
「だって、子供を持てたのは怜のおかげだし、親との間も取りもってもらったし」
「だからって、ため息をついてるってことはそれじゃ嫌なんでしょ?」
「というより、自分がバカだったなと思ってる」

 こうなることはわかっていた。約束は破られる。男はモノにした女への興味を失うものだ。なのに私はほだされてしまった。

「絵理香はどうだった?」
「子供が生まれた時?普通だったな。直樹がすぐに転勤になったから、寂しくてラブラブだった」
「そっか。じゃあ、やっぱり原因は私か。どこが劣化してるか教えて?エステとか行ってみる」
「劣化?#翠_すい__#が?全然!というかまったく太らなかったでしょ?お肌だって、産休前よりツヤツヤじゃない」

 それはたぶん、よく寝てるから。

「家でもメイクして、きちんとした服着てるんだ」
「偉いな。私は手抜いてた時あるよ。ノーメイクとかスウェットとか」
「じゃあさ、産む時はどうだった?」
「分娩室で?直樹はビクビクしてたけど、サポートしようとがんばってたな」
「産むところを見ちゃうと“妻だけED”になるって聞いたけど」
「あー、それ聞くね。でもさ、出産の時、市野さんいなかったじゃない」

 シエナが産まれる時、怜はアメリカにいた。彼はとても悔やんでいたけど、“妻だけED”の話を知っていた私には好都合だった。分娩室には絶対に入ってほしくなかったから。

「うん。それに私、シエナにおっぱいあげるところも見せないようにしてきたんだよ」
「へー、なんで?」
「お母さんと思ってほしくないから」
「ははは。お母さんと思ってほしくないって、そんなの無理でしょ」

 そうなのかな。

 隣を見ると、ベビーシートで寝ていたシエナが目を開けていた。家でないことがわかるのだろうか。不安そうに顔を歪めたので、膝に抱こうとシートから抱き上げた。

「私が抱っこする!」

 絵理香が身を乗り出す。彼女はやたらと抱っこ担当を申し出てくれる。自分の子供がもう大きくなってしまったからかな。

「シエナちゃん~。絵理香ちゃんだよ~。わかるかな~?」

 慣れた手つきに安心できるのか、それとも大好きなアクセサリーが目の前にあるからか、絵理香の腕の中でシエナはいつもご機嫌だった。

「は~、乳児の匂い。すぐに無くなっちゃうんだよね」

 私も大好きな匂い。怜は知っているのかなと思う。自分の子でも男と女ではとらえ方は違うようで、男の方がサッパリしているように感じていた。彼ほど忙しい人なら仕方がないのかもしれないけど。

「今度さ、市野さんに話してみなよ。ウジウジ悩むなんて、翠らしくない」

 絵理香の言うとおりだ。でも、

「怖くてできないの。もう私は無理って言われたら辛いもん」
「そんなことある~?市野さんが?市野さんって翠にベタ惚れだよね」
「もう違うんだよ。所帯じみて見えるのかも」

 夫が単身赴任をしてる絵理香の家、出張が多くて毎日一緒にいる訳じゃない我が家。似たような条件なのに、絵理香の家はラブラブで私たちはほぼ他人になってしまった。

(あ~あ)

 ため息しか出ない。

 結婚するなんて言わなければよかった。

 つきあうのだって嫌だったんだから。

 子供ができたらできたで、がんばってひとりで育てたよ。

 怜は毎日ハイスペックな人とたくさん出会うから、私はいつもこんな気持ちでいないといけない。

 だからスッキリサッパリな関係が良かったのに。

 「絶対裏切ったりしない」なんて、どうして信じたの?

 本当バカ。

 自分のバカ。

 バカバカバカ。

 泣きたかったけど、絵理香の前でも泣けなかった。私は昔からそういう人間だ。

 でも、私の子はみんなに愛されている。父も母も兄もシエナにべったり。義理の父母も頻繁に訪ねてくれて、甘やかしてくれる。それだけで十分だ。

 それに、世間のお母さんには預かってもらえる人がいないために歯医者に行けない方もいるという。私には実の親も絵理香もいるし、預かりサービスの利用もできる。育児で追い詰められてはいない。とても恵まれているのだ。

 だけど、夫婦としての関係が崩壊していた。

 しかも私はみんなをがっかりさせたくなくて、誰にも相談できないでいた。


■■■■■

 私の毎日はだいたい家と近所で終わっていた。絵理香と別れて家に帰ったら、回しておいた洗濯機から洗濯物を取り出して、アイロンをかける。シワが全部取れていくアイロンがけもまた、ストレス解消の方法だ。でも最近は意地悪なことに、怜の服を洗う前に浮気の跡がないかを確認するようになっている。

「それはシエナのお洋服だよ。ママに畳ませて」

 最後はシエナの服だ。手でつかんで舐めようとしていたから、そっとはずして代わりにおもちゃを持たせる。怜のシャツの四分の一もない小さなロンパースがかわいい。

「あーうー」

 シエナはおもちゃをかじるのに一生懸命だ。彼女はいつもご機嫌で、あまり怒らない。よく寝てくれるのも助かる。早くおしゃべりができるようになってくれたらなんて考えてしまう余裕があった。

 大変なのは、誰もいない時のお風呂くらい。自分の髪と体を洗うのは適当で、読んで字のごとくカラスの行水だった。

 今日も怜の帰宅が遅そうだから、シエナをお風呂に入れるついでに自分も一緒に入ることにした。お風呂に入っている間のシエナはいい子だし、一緒に湯船に浸かっている間なんて超ごきげん。いっぱい笑って、はしゃいで楽しい時間を過ごせていた。

 難しいのは、上がる時。先にシエナに服を着せて寝転がせて、私が体を拭く。その数十秒が我慢できないらしく、いきなりギャン泣きをするのだ。一瞬私の姿が見えなくなるのが嫌なのかも。最近はお風呂を出るタイミングがわかるらしく、ドアに向かう気配がしただけで顔が歪む。私はありえないくらいに笑顔を作って、何も怖くないことを表現する。

「は~い。シエナちゃんが上がりますよ~」

 シエナに早く服を着せなくちゃ。と、自分そっちのけでドアを開けた。

「俺がやるよ」

 怜がいた。

 びっくりした。

「あっ、うん。お願い」
「ゆっくり入ってきなよ」
「うん。ありがとう」

 怜はシエナを受け取ると、慣れた手つきで体を拭きだした。シエナは泣いてはいないけど固まっている。怜に抱っこされたり、一緒に遊ぼうとされるとシエナはいつも変に緊張する。大丈夫かな。心配ではあるのだけど、怜に任せるしかない。私はドアを閉めて、冷えてしまった体を再び湯船に沈めた。

(あー、もう)

 ひとりなんだからゆったり脚を伸ばせばいいのに、立てた膝を抱えて自分をギュッとした。

 今、私は裸だった。なのにまったく反応されなかった。

 前だったら、こんなことありえない。ひとりでゆっくりお風呂に入りたい時だって無理やり入って来て邪魔をされたし、朝クローゼットで着替えている時にだって抱きしめられて撫でられた。口では嫌だと言ってもうれしくて、気持ち良くて、私はそれが大好きだった。

 意味がわからないくらい旺盛な性欲はどこに行っちゃったの?

 違う。私がダメなだけだ。

 でも、どうして?

 唇に力が入る。私の何が悪いかなんて問題じゃない。ただ興味がなくなっただけだ。

 シエナをあやす怜の声が聞こえる。私が辛くてもシエナの幸せは壊せない。だから私は我慢する。この後ずっと触ってもらえなくても耐えていくつもりだ。それを彼に悟られてはいけない。

 そう心を決めて、ひとりで声を殺して泣くのだった。
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