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第二章
第十話 他の人
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住まいを怜の会社の近くにしたのは大失敗だった。忙しい彼のためにそうしたのだけど、買い物や散歩の途中で見かけてしまうのだ。彼は仕事中。相変わらずイキイキしていて素敵だなと思う。それだけならいい。
失敗だったと思うのは、彼はなぜかいつも女性と一緒にいるからだ。きれいで装いも素敵な女性が、彼の隣で親密そうにするのをたびたび見てしまう。手を繋いだり、腕を組んだり、肩にもたれたり。どんなに親しくても仕事でおつきあいをしている異性にすることじゃないと思うのだけど、彼の世界では普通なのかしら。
(ちゃんと振り払ってよ)
女心に疎い彼に、私の思いは届かない。
怜は話をする時のしぐさが人懐っこくて、自然と一緒にいる人の心を鷲づかみにしてしまう。体の傾け方、相手の携帯を見る時、いたずらっぽく目をのぞき込んでくる感じ。私もキュンとしたし、特別大事にされている気分にもなった。でもそれは思い上がりもいいところ。他の人に同じようにしているのを見たら、悲しくなるだけだった。
浮気だってしてるかも。帰りが遅い、会社に泊まる日が増えた、服を持ち出している、そして私に触らない。考えれば考えるほど辻褄が合う。最近は藤崎さんも不気味におとなしい。ボロが出ないように無駄な会話をしないようにしているのかも、なんて疑ってしまうくらいだった。
(駆け寄って、頬でも引っ叩けるキャラなら良かったのに)
それができれば割り切れるだろう。だけど、残念ながら私はそういうことをするキャラではない。家に着く頃に女の人といたことを思い出してしまって涙があふれ、怜が家にいないのをいいことに声を出してワンワン泣く。
「うるさくてごめんね」
シエナに謝る。プレイマットで遊ばせておいても、側に寄って来て膝の上に登ってこようとする。だから抱き上げて腕で包み込んだ。私が泣くと、シエナもつられて泣く。いいことではないのに止められなくて、気が済むまでふたりで泣いた。
■■■■■
とは言え、せっかくの産休を泣いてだけ過ごすのはもったいない。こんなに長い休みをこの先また取れるとは限らない。もし怜が離れて行って、ひとりで生きていくことになったら?悲しいけれど、考えなくてはならないこと。シエナがいるのだからメソメソしてはいられない。時間がある今、図太く図々しく下地を作っておこうと考えていた。
たぶん、ひとりで幼い子供を育てながらの会社勤めは難しい。時間を取られすぎるし、自由が効かない。親の家の助けを借りられるとしても、子供をほったらかしにしたら自分が辛いと思う。まさか父の会社に入れてもらう訳にはいかないし……。
いつかは会社に属さずに自分でやっていけたらと思ってきた。そのために何が必要か。起業したり親の跡を継いだ友人や紹介してもらった会計士さんに会って、いろいろと話を聞く。普段から保険のことを相談していたファイナンシャルプランナーさんにも、ライフステージの変化に伴う調整と今後を相談した。そんな些細なことだけでも、私には圧倒的に会計や税の知識が足りないことがわかる。
(怜はこういうことまでやってるんだよね)
改めてすごい。ファイナンス方面はパートナーの上村さんが仕切っていると言うけど、それでもまったくわからなかったら社長は務まらないだろう。私より何十倍もクリエイター気質なのに、彼はビジネスマンとしての能力も併せ持っている。悔しいけれど何も敵わない。もちろん一番に怜に相談したかったけど、今はそれすら隠しておきたい気分だった。
仕事の他には、テニスを再開した。
怜との仲が微妙になってしまって体力があり余っているのと、母たちがシエナの面倒を買って出てくれるから。定期的な息抜きに賛成と言いつつ、単純に孫に会いたいんだと思う。おかげさまで、歳をとっても上達できることがわかった。体は筋肉が増えて引き締まり、以前よりヘルシーに見える。以前はシエナを抱っこしながらの行動が大変だったのに、テニスを再開してからはなんともなくなった。
テニスが終わったら、シエナを迎えに行く前にスーパーで買い物を済ませる。服もスウェットだから動くのが楽。身軽な時はかさばる物と重い物、検討を要する物を特に狙う。レジを済ませて駐車場に出る時、買い物袋は両手に四つ。どうがんばっても、この量が限界。それでも大きな達成感を得られるのがおもしろかった。前とは違って、今の私の自由は限られている。
でも、残念なことに、こんな時にもまた見てしまうのだ。
スーパーの隣のフタバコーヒーでテラス席に座る怜と女性。こないだ見た人だった。明るい茶色にカラーしたロングヘアに、合コンでモテそうなフワフワの服。メイクは韓国っぽい濃いタイプだけど、若い子ならばかわいくいい感じにまとまるものだ。
(仕事の人だよね?)
怜は話すとおもしろい。相手の女性はすごく楽しそうだ。でも嫉妬する気にはならなかった。
(しょうがない)
髪もメイクもネイルも完璧で、かわいいヒールを履いて、コロコロ笑えばかわいいに決まってる。女の私から見てもかわいらしい人だった。なのに私ときたら……。髪はボサボサでほぼノーメイク。頻繁にケアするのが難しいから、最近ネイルはさぼってる。だからなのか、テニスには独身の時も同じ格好で行っていたのに、今はなぜだか自分がとても惨めに思えた。
(はぁ~)
特大のため息をついて向き直る。でも残念がっている時間はいられない。私にはかわいいシエナが待っているんだから!それでいい。それで十分。心を前向きに保って、鍵を出すために荷物を道に置く。トランクを開けて、さて荷物を入れようと腰をかがめたら、目の前に手が差し出された。
「お手伝いします」
胸に赤ちゃんを抱いたスーツ姿の男性が立っていた。弾けるような笑顔をした赤ちゃんはプリプリに太った女の子。シエナとは違って黒々とした髪がだいぶ伸びている。彼女につられて私も笑顔になった。
「わぁ、何カ月ですか?」
「もうすぐ七カ月です」
「うちの子もほとんど同じです」
「おしり拭きが見えたから、同じくらいのお子さんがいるんだろうなと思いました」
次の定期配送までもたなそうだから買ったおしり拭き。荷物の一番上に突っ込むなんて恥ずかしい……。
「これから迎えに行くところなんです。娘さん、お父さんと一緒でごきげんですね」
赤ちゃんの顔をのぞき込むと、こっちを見て声を出して笑った。癒されるなー。
「機嫌だけはいつもよくて助かってます」
「ですよね~」
お父さんも私と同じくらいか少し下か。落ち着いていて、感じの良い笑顔をした人だ。お子さんもお父さんも公園や児童館で見たことないけど、近所の人ではないのかな?気づけば、自分のカバンを車の脇に放置して、私の荷物を持ってくれていた。
「赤ちゃんがいるのにいいですよ。自分で入れられますから」
「いえいえ。女性がひとりじゃ大変です」
荷物を入れるためにお父さんの体がかがんだり伸びたりするのがおもしろいのか、揺れるたびに赤ちゃんが声をあげる。
「子供ができたら買い物が増えてしまって」
「わかります。僕もこれまでとは買う物がまったく変わりました」
「自分のおやつを買うのが面倒になったのは良かったです」
「あはは。僕もビールとつまみを買わなくなったな~」
同じ歳の親同士。共通の苦労や幸せを言い合えると楽しい。
「翠」
突然、名前を呼ばれて手が止まる。振り返ると、さっきのフタバコーヒーの方からこちらに向かって歩いてくる怜が見えた。
「妻をお手伝いいただいて、ありがとうございます」
こういう振る舞いをする男の人は多い。横から入ってきて、縄張りを主張し、周りに圧をかける。男は狩りをする生き物だから仕方ないのかもしれないけど、不思議だった。それに今、彼にはふさわしくない振る舞いだ。だって普段は触りもしないのだから。
「いえいえ、荷物が多いと大変ですから。では、私はこれで」
「どうもありがとうございました」
荷物を持って去ろうとする男性にお礼を言って、プリプリの赤ちゃんに手を振った。赤ちゃんもバイバイができる。あまりの愛らしさに顔がほころんだ。なんてかわいいんだろう。早くシエナに会いたい。
怜は運転席に向かって歩いていた。
「仕事中でしょ?」
「ん」
「私、これからシエナを迎えに行かなくちゃだから戻っていいよ」
「今日はもう帰れる」
嘘ばっかり。まだ三時だし、あなた手ぶらじゃない。
仕方なく助手席に乗り込んだ。フタバコーヒーを見ると、あの女の人はもういない。私よりずっと若くて小柄な人。
「さっきの人いなくなっちゃったよ」
「打ち合わせしてただけだから別にいいよ」
緊張した。そういえば、怜とふたりだけで車に乗るのは久しぶりだ。最近はそれほど話してないし、シエナを介さない会話なんてもっとない。怜も話しかけてくる感じがなくて、息が詰まりそうだった。
(昔、こういうのあったな)
怜が怒っちゃった後、迎えに来てくれたんだった。あの時にやっと自分の気持ちを素直に言えたんだった。気になっていることを今、全部言ってみようか。何でも話そうと決めたんだから、聞くべきだ。わかってはいても口にできなくて、窓の外を眺めて寝たふりをすることにした。
バンバンバンバンバン。
物を叩く音で目が覚めた。窓の外を見ると、シエナが窓ガラスを叩いてる。
「あーあーあーあーあーあーあー!」
「あー、シエナちゃん。ママ寝てるのに」
母がシエナを抱いていた。母の腕を乗り越えようとキックを繰り返しているので、車から降りてシエナを引き取る。私に飛びついてきて、必死にさみしさを訴えられた。目を涙でいっぱいにしてふてくされた顔をしていても、やっぱりかわいい。
「おばあちゃんとお留守番してくれてありがとう」
あやしながら頬にキスをしたらおとなしくなった。少し怒りが和らいだのかな。いや違う。チャイたちが私の脚にまとわりついていることに、シエナは気づいたのだ。彼女が一番贔屓にしているのは、チャイの子供のシナモン。腰を下ろして触れるようにしてあげた。
「ぐずった?」
「ううん。とってもいい子にしてた。ママの顔を見たら恋しくなるのは仕方ないわよ」
赤ちゃんの頭の中は80%ママのことだと聞いたことがある。すごくうれしい。なのに今の私の頭には、シエナ以外のことばかり。ごめんなさい。シナモンに触ろうと暴れるシエナをギュッと抱きしめた。
怜は肩にマザーズバッグかけて、腕には大きな発泡スチロールを箱を抱えて家から出てきた。
「お義母さんにカニもらったよ」
(なんでカニ……。シエナがいたら、ゆっくり食べられない)
母は結構抜けたところがある。
「ありがと」
「ふたりで仲良く食べてね。シエナちゃんも早く食べられるように大きくなるのよ~」
母が思う存分シエナのほっぺをプニプニするのを待って、チャイルドシートに座らせる。怜は、ほらやっぱり!仕事を残したまま打ち合わせに出ていたらしく、パソコンを家に持ってきてもらうよう電話で会社の誰かにお願いをしていた。
(無理しなくていいのに)
私はシエナの横に座った。シエナがいるだけで、さっきと違って息苦しさをほとんど感じない。私、ひどいなー。
「あーあーまーま」
ごきげんな女の子の小さな手が私の顔をいじり倒す。痛いのだけど、やめなさいとは言えない。
「シエナはかわいいねー」
母たちにバイバイを見せて実家を出ると、私はシエナに顔を擦り寄せていい匂いをいっぱいに吸い込んだ。
(怜がいると、駐車場からの荷物運びが楽だな)
確かに所帯じみている。こんなだから、見向きもされなくなってしまうんだ。
また悲しくなって、シエナの手を取った。「やぁー」という小さな声を聞いて少し幸せに。私の心はそんな風に不安定だった。
失敗だったと思うのは、彼はなぜかいつも女性と一緒にいるからだ。きれいで装いも素敵な女性が、彼の隣で親密そうにするのをたびたび見てしまう。手を繋いだり、腕を組んだり、肩にもたれたり。どんなに親しくても仕事でおつきあいをしている異性にすることじゃないと思うのだけど、彼の世界では普通なのかしら。
(ちゃんと振り払ってよ)
女心に疎い彼に、私の思いは届かない。
怜は話をする時のしぐさが人懐っこくて、自然と一緒にいる人の心を鷲づかみにしてしまう。体の傾け方、相手の携帯を見る時、いたずらっぽく目をのぞき込んでくる感じ。私もキュンとしたし、特別大事にされている気分にもなった。でもそれは思い上がりもいいところ。他の人に同じようにしているのを見たら、悲しくなるだけだった。
浮気だってしてるかも。帰りが遅い、会社に泊まる日が増えた、服を持ち出している、そして私に触らない。考えれば考えるほど辻褄が合う。最近は藤崎さんも不気味におとなしい。ボロが出ないように無駄な会話をしないようにしているのかも、なんて疑ってしまうくらいだった。
(駆け寄って、頬でも引っ叩けるキャラなら良かったのに)
それができれば割り切れるだろう。だけど、残念ながら私はそういうことをするキャラではない。家に着く頃に女の人といたことを思い出してしまって涙があふれ、怜が家にいないのをいいことに声を出してワンワン泣く。
「うるさくてごめんね」
シエナに謝る。プレイマットで遊ばせておいても、側に寄って来て膝の上に登ってこようとする。だから抱き上げて腕で包み込んだ。私が泣くと、シエナもつられて泣く。いいことではないのに止められなくて、気が済むまでふたりで泣いた。
■■■■■
とは言え、せっかくの産休を泣いてだけ過ごすのはもったいない。こんなに長い休みをこの先また取れるとは限らない。もし怜が離れて行って、ひとりで生きていくことになったら?悲しいけれど、考えなくてはならないこと。シエナがいるのだからメソメソしてはいられない。時間がある今、図太く図々しく下地を作っておこうと考えていた。
たぶん、ひとりで幼い子供を育てながらの会社勤めは難しい。時間を取られすぎるし、自由が効かない。親の家の助けを借りられるとしても、子供をほったらかしにしたら自分が辛いと思う。まさか父の会社に入れてもらう訳にはいかないし……。
いつかは会社に属さずに自分でやっていけたらと思ってきた。そのために何が必要か。起業したり親の跡を継いだ友人や紹介してもらった会計士さんに会って、いろいろと話を聞く。普段から保険のことを相談していたファイナンシャルプランナーさんにも、ライフステージの変化に伴う調整と今後を相談した。そんな些細なことだけでも、私には圧倒的に会計や税の知識が足りないことがわかる。
(怜はこういうことまでやってるんだよね)
改めてすごい。ファイナンス方面はパートナーの上村さんが仕切っていると言うけど、それでもまったくわからなかったら社長は務まらないだろう。私より何十倍もクリエイター気質なのに、彼はビジネスマンとしての能力も併せ持っている。悔しいけれど何も敵わない。もちろん一番に怜に相談したかったけど、今はそれすら隠しておきたい気分だった。
仕事の他には、テニスを再開した。
怜との仲が微妙になってしまって体力があり余っているのと、母たちがシエナの面倒を買って出てくれるから。定期的な息抜きに賛成と言いつつ、単純に孫に会いたいんだと思う。おかげさまで、歳をとっても上達できることがわかった。体は筋肉が増えて引き締まり、以前よりヘルシーに見える。以前はシエナを抱っこしながらの行動が大変だったのに、テニスを再開してからはなんともなくなった。
テニスが終わったら、シエナを迎えに行く前にスーパーで買い物を済ませる。服もスウェットだから動くのが楽。身軽な時はかさばる物と重い物、検討を要する物を特に狙う。レジを済ませて駐車場に出る時、買い物袋は両手に四つ。どうがんばっても、この量が限界。それでも大きな達成感を得られるのがおもしろかった。前とは違って、今の私の自由は限られている。
でも、残念なことに、こんな時にもまた見てしまうのだ。
スーパーの隣のフタバコーヒーでテラス席に座る怜と女性。こないだ見た人だった。明るい茶色にカラーしたロングヘアに、合コンでモテそうなフワフワの服。メイクは韓国っぽい濃いタイプだけど、若い子ならばかわいくいい感じにまとまるものだ。
(仕事の人だよね?)
怜は話すとおもしろい。相手の女性はすごく楽しそうだ。でも嫉妬する気にはならなかった。
(しょうがない)
髪もメイクもネイルも完璧で、かわいいヒールを履いて、コロコロ笑えばかわいいに決まってる。女の私から見てもかわいらしい人だった。なのに私ときたら……。髪はボサボサでほぼノーメイク。頻繁にケアするのが難しいから、最近ネイルはさぼってる。だからなのか、テニスには独身の時も同じ格好で行っていたのに、今はなぜだか自分がとても惨めに思えた。
(はぁ~)
特大のため息をついて向き直る。でも残念がっている時間はいられない。私にはかわいいシエナが待っているんだから!それでいい。それで十分。心を前向きに保って、鍵を出すために荷物を道に置く。トランクを開けて、さて荷物を入れようと腰をかがめたら、目の前に手が差し出された。
「お手伝いします」
胸に赤ちゃんを抱いたスーツ姿の男性が立っていた。弾けるような笑顔をした赤ちゃんはプリプリに太った女の子。シエナとは違って黒々とした髪がだいぶ伸びている。彼女につられて私も笑顔になった。
「わぁ、何カ月ですか?」
「もうすぐ七カ月です」
「うちの子もほとんど同じです」
「おしり拭きが見えたから、同じくらいのお子さんがいるんだろうなと思いました」
次の定期配送までもたなそうだから買ったおしり拭き。荷物の一番上に突っ込むなんて恥ずかしい……。
「これから迎えに行くところなんです。娘さん、お父さんと一緒でごきげんですね」
赤ちゃんの顔をのぞき込むと、こっちを見て声を出して笑った。癒されるなー。
「機嫌だけはいつもよくて助かってます」
「ですよね~」
お父さんも私と同じくらいか少し下か。落ち着いていて、感じの良い笑顔をした人だ。お子さんもお父さんも公園や児童館で見たことないけど、近所の人ではないのかな?気づけば、自分のカバンを車の脇に放置して、私の荷物を持ってくれていた。
「赤ちゃんがいるのにいいですよ。自分で入れられますから」
「いえいえ。女性がひとりじゃ大変です」
荷物を入れるためにお父さんの体がかがんだり伸びたりするのがおもしろいのか、揺れるたびに赤ちゃんが声をあげる。
「子供ができたら買い物が増えてしまって」
「わかります。僕もこれまでとは買う物がまったく変わりました」
「自分のおやつを買うのが面倒になったのは良かったです」
「あはは。僕もビールとつまみを買わなくなったな~」
同じ歳の親同士。共通の苦労や幸せを言い合えると楽しい。
「翠」
突然、名前を呼ばれて手が止まる。振り返ると、さっきのフタバコーヒーの方からこちらに向かって歩いてくる怜が見えた。
「妻をお手伝いいただいて、ありがとうございます」
こういう振る舞いをする男の人は多い。横から入ってきて、縄張りを主張し、周りに圧をかける。男は狩りをする生き物だから仕方ないのかもしれないけど、不思議だった。それに今、彼にはふさわしくない振る舞いだ。だって普段は触りもしないのだから。
「いえいえ、荷物が多いと大変ですから。では、私はこれで」
「どうもありがとうございました」
荷物を持って去ろうとする男性にお礼を言って、プリプリの赤ちゃんに手を振った。赤ちゃんもバイバイができる。あまりの愛らしさに顔がほころんだ。なんてかわいいんだろう。早くシエナに会いたい。
怜は運転席に向かって歩いていた。
「仕事中でしょ?」
「ん」
「私、これからシエナを迎えに行かなくちゃだから戻っていいよ」
「今日はもう帰れる」
嘘ばっかり。まだ三時だし、あなた手ぶらじゃない。
仕方なく助手席に乗り込んだ。フタバコーヒーを見ると、あの女の人はもういない。私よりずっと若くて小柄な人。
「さっきの人いなくなっちゃったよ」
「打ち合わせしてただけだから別にいいよ」
緊張した。そういえば、怜とふたりだけで車に乗るのは久しぶりだ。最近はそれほど話してないし、シエナを介さない会話なんてもっとない。怜も話しかけてくる感じがなくて、息が詰まりそうだった。
(昔、こういうのあったな)
怜が怒っちゃった後、迎えに来てくれたんだった。あの時にやっと自分の気持ちを素直に言えたんだった。気になっていることを今、全部言ってみようか。何でも話そうと決めたんだから、聞くべきだ。わかってはいても口にできなくて、窓の外を眺めて寝たふりをすることにした。
バンバンバンバンバン。
物を叩く音で目が覚めた。窓の外を見ると、シエナが窓ガラスを叩いてる。
「あーあーあーあーあーあーあー!」
「あー、シエナちゃん。ママ寝てるのに」
母がシエナを抱いていた。母の腕を乗り越えようとキックを繰り返しているので、車から降りてシエナを引き取る。私に飛びついてきて、必死にさみしさを訴えられた。目を涙でいっぱいにしてふてくされた顔をしていても、やっぱりかわいい。
「おばあちゃんとお留守番してくれてありがとう」
あやしながら頬にキスをしたらおとなしくなった。少し怒りが和らいだのかな。いや違う。チャイたちが私の脚にまとわりついていることに、シエナは気づいたのだ。彼女が一番贔屓にしているのは、チャイの子供のシナモン。腰を下ろして触れるようにしてあげた。
「ぐずった?」
「ううん。とってもいい子にしてた。ママの顔を見たら恋しくなるのは仕方ないわよ」
赤ちゃんの頭の中は80%ママのことだと聞いたことがある。すごくうれしい。なのに今の私の頭には、シエナ以外のことばかり。ごめんなさい。シナモンに触ろうと暴れるシエナをギュッと抱きしめた。
怜は肩にマザーズバッグかけて、腕には大きな発泡スチロールを箱を抱えて家から出てきた。
「お義母さんにカニもらったよ」
(なんでカニ……。シエナがいたら、ゆっくり食べられない)
母は結構抜けたところがある。
「ありがと」
「ふたりで仲良く食べてね。シエナちゃんも早く食べられるように大きくなるのよ~」
母が思う存分シエナのほっぺをプニプニするのを待って、チャイルドシートに座らせる。怜は、ほらやっぱり!仕事を残したまま打ち合わせに出ていたらしく、パソコンを家に持ってきてもらうよう電話で会社の誰かにお願いをしていた。
(無理しなくていいのに)
私はシエナの横に座った。シエナがいるだけで、さっきと違って息苦しさをほとんど感じない。私、ひどいなー。
「あーあーまーま」
ごきげんな女の子の小さな手が私の顔をいじり倒す。痛いのだけど、やめなさいとは言えない。
「シエナはかわいいねー」
母たちにバイバイを見せて実家を出ると、私はシエナに顔を擦り寄せていい匂いをいっぱいに吸い込んだ。
(怜がいると、駐車場からの荷物運びが楽だな)
確かに所帯じみている。こんなだから、見向きもされなくなってしまうんだ。
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