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第二章
第十一話 明るい気分
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「お疲れ様でした~」
顔を覆っていた不織布が外され、天井が見えた。
(寝落ちるとこだった……)
「マッサージしますね」
リクライニングチェアが起こされて、ケープを外してもらう。二十代前半の女性アシスタントさん。髪をミルクティーのようなベージュに染めて、ふんわりピンクをメインにしたバッチリメイクをしている。若い子らしくてかわいい。
「小早川さん、最近お疲れですか?頭皮が硬くなっていましたよ」
「お風呂での頭皮マッサージをサボってしまってます」
「赤ちゃんがいると大変そうですね。自分は後回しになりそうです」
「そうなんです。だから、すごく気持ちよかったです」
アシスタントさんが頭皮と額、肩とデコルテ付近をマッサージしてくれる。ツボをグリグリ。極楽だわ。
「シャンプー変わりました?マグノリアの香り好きです」
「気づきました~?手触りもよくてスタッフもお気に入りなんですよ~。いつも使っている物をたまに変えるとリフレッシュできるんですよね~」
リフレッシュか。
リフレッシュいいかも。
スタイリストの三上さんが待つ席に座る。私を中学生の頃から担当してくれているから、数カ月に一度の頻度でアップデートされた私の人生を知っている。髪型もほぼロングだったけど、飽きないように少し変化を加えたりしてくれるのがうれしい。
「整える感じでいい?」
今はオーナーなのに、変わらず気さくに誰でもカットする。
「今日は変えたいです」
「変える?」
「うん。最近パッとしないから、違う感じにしたい気がします」
「パッとしてないの?シエナちゃん、大変な時期だからな」
職業柄もあって、三上さんは見た目も装いも若い。サーフィンやアウトドアが大好きで、いつもこざっぱりしたTシャツとパンツを履いている。仕事中に着いてしまう毛を気兼ねなくコロコロで取りたいから、お店ではウールや高級品は着ないそうだ。
今まで散々くだらない話もしてきたけど、予定になかった結婚と出産をしてからはアドバイスをもらうようになった。三上さんは三人の女児を育てた大先輩だ。
「子育てもだけどいろいろ」
「旦那さんとケンカした?」
「ケンカじゃないですけど」
たぶん無意識に暗い顔をしてしまったんだと思う。
「お任せでいい?」
「はい」
「明るい気分になれるようにしないとね」
家のことを思い出すと、また心が重くなる。妊娠して出産してレスになって。同じように苦しむ女性の体験談も読みあさった。世の中にはもっと辛い思いをしている人がたくさんいる。ひとりが辛い人、暴力をふるわれている人、子宝に恵まれない人、妊活に励みすぎて結婚生活が破綻してしまった人。そんな人たちが私を見たら、イライラするだろうと思った。
それなのに、私はひとりで悩んで暗い気分になりっぱなし。やっぱり結婚生活は私には合わないんだとよくわかった。難しくて、もう匙を投げてしまいたい。私はかなり自分勝手な人間だ。
ザクッ。
鏡を見ると、三上さんが髪の束を手に笑っていた。私はムンクの叫びみたいな顔をしていたと思う。鎖骨の下くらいまで伸びていた髪が今、アゴの下で揺れている。
「久しぶりに短くしよう」
「はい」
後悔もためらいもなかった。
(最近、シエナに引っ張られて困ってるからちょうどいい)
それに、怜に「短くしてみて」と言われたことを覚えていた。あの時は他の女性と比較されたからイラっとしたけど、髪が短いことでまた興味をもってもらえるならとてもうれしい。
ザクザクザクザクザクザク。
サラサラで放っておくとただの真っ直ぐヘアなってしまう髪を、三上さんは私が好きなラフな雰囲気に仕上げてくれた。ショートボブなんて久しぶりだ。セットの仕方を教わりながら、右を見たり、左を見たり、あごを引いてみたり。なんとなくいつもより色っぽく見える感じがした。
(これ絶対、怜は好きだ)
(早く見せたい)
ワクワクが止まらなくてニヤケてしまった。
子持ちになって髪を短くするとおばさんと言われがちだけど、それは髪型によるのだとわかった。同じ短めでも、自分に合うものをきちんと選んでもらえば素敵になれる。縛ってごまかせないし、朝も必ず整えないといけないのが面倒だけど、ガラスや鏡に映った自分を見るたびにうれしい気分になる。シエナは気にしないみたいで、私を見ても普段と変わらなかった。
服を買いたい。産休後、一枚も服を買っていない。お腹が入らなくなってからは、パンツの上に怜が着てないシャツやニットを羽織って済ませてしまった。たまにはいいよね。だって、今まで着ていた服はしっくりこない感じがする。自分とシエナと怜にも何か買おう。
首がスースーすると背筋が伸びた。気持ちが自然と前向きになった。最近、ふてくされている感じがあったし、もっと明るくポジティブでいないと余計に嫌われてしまう。
それに、シエナと食料品と日用品以外の買い物をすることはそんなにない。幸い私はシエナを抱っこ紐で胸に抱いてたくさん歩ける。服や小物を合わせて「似合うね~」と声をかけながら見て回るのは楽しかった。赤ちゃん連れだと店員さんが優しくて、「赤ちゃんもお母さんも素敵ですね」なんて言ってくれるのだ。お世辞で十分。素晴らしい気分にさせてもらえた。
(怜も言ってくれればいいのにな)
昔は一緒にいると数分ごとに「かわいい」「きれい」「大好き」と言ってきて、その度に「あまり言うと価値が無くなる」「無くならない」を言い合っていた。そんな彼をうっとおしいと思う時もあったのに、今はさみしい。
きっと私は贅沢すぎるんだ。
■■■■■
夜中に目が覚めると怜がいて、私の髪を撫でていた。その度に髪が頬をくすぐる。
(そうだ。私、髪を切ったんだ)
「ごめん。起こした」
「ううん」
「また行かないとなんだ。着替えとシャワーに来た」
そうなんだ……。おっと、ネガティブはいけない。起き上がって、ガウンを手に取った。
「何か食べる?お弁当を作ろうか?」
「いいよ。翠は寝てて。音がうるさいから、あっちの風呂使う」
「私は平気だよ」
(あー、失敗したかも。髪のことを何も言ってくれない。好みの感じじゃなかったかな。私から「どう」って聞いてみようか?)
そんなことを考えていたら、怜が側に来て、また髪を撫でてくれた。
「髪切ったんだね。似合うよ」
先に言われてしまった……。
「ありがとう」
うれしい。でもちょっと照れくさい。今気づいたけど、寝癖でボサボサのはず。これだからロングの方が楽だ。今さら遅いけど、さりげなく必死に髪を整えた。
でも、気づいてしまった。
怜から花の香りがする。私のでも彼のでもない香水の匂い。一瞬ドキッとしたけれど、心配することはないと思う。だって前にも一度、女性の香水が移っているのを指摘した時はすごく反省していたから。でも、彼は女性との距離が近い人。私の心臓の音はどんどんと速くなっていた。
聞きたい。でも「いい香りがするよ」なんて言ったら嫌味に聞こえるだろう。しかも、こんな夜中にわざわざ言うことじゃない。
(ポジティブ。ポジティブ)
背筋を伸ばして息を吸って、笑顔を作った。
いらないと言われても、「おにぎり作るね」と言えたらいのに。私は自分勝手なくせに、こういう時に自分本位で押し付けがましく行動することができない。
(うざがられるくらい尽くす、女子っぽい振る舞いができたらいいのに)
結局、支度が済んだ怜を作った笑顔で見送ることしかできなかった。
■■■■■
「今日ね、雑誌社の人に声かけられたの。親子スナップで」
「シエナはよくモデルにスカウトされるんだよ」
「猫より犬に興味があるみたい」
教えたいことはたくさんあった。本当はもう少し話す時間もほしい。あまりに忙しそうだから、緊急事態でもない限りのメッセージは送らないないようにしていた。本当はかわいいシエナの一挙手一投足を撮影して、「かわいいね」と親バカなやりとりをしてみたかった。
髪だって、男性が気づいてくれるだけでありがたがるべきなんだろうけど、前はもっと執着してくれた。
「誰に見せた」
「昔の彼氏の好み?」
「てか、すっごいサラサラ」
一度手に入れたものへの興味は薄れるって、こんなにあっさりやってくることなの?
「はぁ」
大きなため息をついてしまった。
近所の芝生の公園に来て、広げたブランケットの上にシエナと転がっている。緑が多くて広々していて、小さい子供が遊びに来たり、犬の散歩をする人も多い。シエナはまだたいしたことができないけれど、子供たちの声や走り回る様子が気になるみたいだった。
「シエナも早く一緒に遊びたいね」
脚を大きく動かしてあげたら、声をあげて喜んだ。
(私たちは大丈夫。怜に時間に余裕ができれば、きっともっといろいろ話せるようになる)
キャッキャッと大きな声ではしゃぐシエナの声に重なって、赤ちゃんの声がした。こういうのよくある。シエナも気になるのか、一生懸命そっちの方向を見ようとしてる。
「あれ?」
「あっ」
「先日はどうもありがとうございました」
立ち上がってお礼を言う。スーパーで荷物運びを手伝ってくれた男性だった。今日はカジュアルな服で、やっぱり胸にあの赤ちゃんを抱いている。その子もシエナをジッと見下ろし、手をバタバタさせていた。
「髪型が違うから気づきませんでした。今日はお子さんも一緒ですね」
「はい。シエナと言います」
髪型のことわかったんだ。気づく男は気づく。
「うちの子は“まゆみこ”と言います」
「まゆみこちゃん、ですか?素敵ですね。どんな字を書くのですか?」
以前覗き見したフサフサヘアの女の子だ。座ってもらって、抱っこ紐からまゆみこちゃんを解放し、シエナの隣に転がせてもらった。子供がお互いを観察し合う様子は興味深い。
「お蚕の繭に未完成の未に子供の子です」
「うわー。かわいいですね」
雅なお名前、きっとどこかのお嬢様だろう。
「母親の家が旧家で、義父母の意向もあっての名前でして、ちょっと大げさですよね。普段はまゆと読んでます」
やっぱりお嬢様。赤ちゃんふたりは寝返りをしたり、顔を寄せ合ったり、お互いを触ったり。シエナは同じくらいの子をぶったり引っ張ったりはしないけど、念のため気にしておかない。赤ちゃん界は何が起こるかわからない。
「あまり赤ちゃん同士で遊ばせたことがないのですが、何もできなくても遊べるものですね」
「赤ちゃんの言葉で何か話してるんでしょうね」
今日は有給休暇だろうか。イクメンがもてはやされるようになったけど、平日にお父さんと遊べる子供はまだまだ少ない。
「そういえば、お住まいはお近くですか?お見かけしたことありませんよね」
「ええ、近所です。恥ずかしいのですが、最近離婚しまして……。家事と育児を始めたばかりなんです」
おっと。本人は笑っているけど、デリケートなことを聞いてしまった。しかもまだ乳児。お父さんだけで育てられるものなのだろうか?
「それは大変ですね」
「幸い社内に託児所があるのでなんとか。生活や病気のことを勉強しています」
見た感じ、健やかに育っているように見える。肌のケアや衣服の清潔さも問題ない。きっと託児所で適切なアドバイスを受けられているのだろう。
「遊び場や赤ちゃん連れで行けるカフェがたくさんありますよ。お父さんもたくさん来てます」
「それはいいですね~」
なんとなくだけど、男の人の方がママ友ができにくそう。友達や顔見知りがたくさんできるように、私が知っている場所や参考にしているサイトを教えてあげた。ひとりで育児に行き詰まったら大変だ。シエナも仲良くできているし、と思い切って「また遊びませんか?」と誘ってLINEを交換した。お父さんのお名前は佐田さん。なんと会計士さんだ。
今度、まだ行ったことがないという児童館に一緒に行こう。
顔を覆っていた不織布が外され、天井が見えた。
(寝落ちるとこだった……)
「マッサージしますね」
リクライニングチェアが起こされて、ケープを外してもらう。二十代前半の女性アシスタントさん。髪をミルクティーのようなベージュに染めて、ふんわりピンクをメインにしたバッチリメイクをしている。若い子らしくてかわいい。
「小早川さん、最近お疲れですか?頭皮が硬くなっていましたよ」
「お風呂での頭皮マッサージをサボってしまってます」
「赤ちゃんがいると大変そうですね。自分は後回しになりそうです」
「そうなんです。だから、すごく気持ちよかったです」
アシスタントさんが頭皮と額、肩とデコルテ付近をマッサージしてくれる。ツボをグリグリ。極楽だわ。
「シャンプー変わりました?マグノリアの香り好きです」
「気づきました~?手触りもよくてスタッフもお気に入りなんですよ~。いつも使っている物をたまに変えるとリフレッシュできるんですよね~」
リフレッシュか。
リフレッシュいいかも。
スタイリストの三上さんが待つ席に座る。私を中学生の頃から担当してくれているから、数カ月に一度の頻度でアップデートされた私の人生を知っている。髪型もほぼロングだったけど、飽きないように少し変化を加えたりしてくれるのがうれしい。
「整える感じでいい?」
今はオーナーなのに、変わらず気さくに誰でもカットする。
「今日は変えたいです」
「変える?」
「うん。最近パッとしないから、違う感じにしたい気がします」
「パッとしてないの?シエナちゃん、大変な時期だからな」
職業柄もあって、三上さんは見た目も装いも若い。サーフィンやアウトドアが大好きで、いつもこざっぱりしたTシャツとパンツを履いている。仕事中に着いてしまう毛を気兼ねなくコロコロで取りたいから、お店ではウールや高級品は着ないそうだ。
今まで散々くだらない話もしてきたけど、予定になかった結婚と出産をしてからはアドバイスをもらうようになった。三上さんは三人の女児を育てた大先輩だ。
「子育てもだけどいろいろ」
「旦那さんとケンカした?」
「ケンカじゃないですけど」
たぶん無意識に暗い顔をしてしまったんだと思う。
「お任せでいい?」
「はい」
「明るい気分になれるようにしないとね」
家のことを思い出すと、また心が重くなる。妊娠して出産してレスになって。同じように苦しむ女性の体験談も読みあさった。世の中にはもっと辛い思いをしている人がたくさんいる。ひとりが辛い人、暴力をふるわれている人、子宝に恵まれない人、妊活に励みすぎて結婚生活が破綻してしまった人。そんな人たちが私を見たら、イライラするだろうと思った。
それなのに、私はひとりで悩んで暗い気分になりっぱなし。やっぱり結婚生活は私には合わないんだとよくわかった。難しくて、もう匙を投げてしまいたい。私はかなり自分勝手な人間だ。
ザクッ。
鏡を見ると、三上さんが髪の束を手に笑っていた。私はムンクの叫びみたいな顔をしていたと思う。鎖骨の下くらいまで伸びていた髪が今、アゴの下で揺れている。
「久しぶりに短くしよう」
「はい」
後悔もためらいもなかった。
(最近、シエナに引っ張られて困ってるからちょうどいい)
それに、怜に「短くしてみて」と言われたことを覚えていた。あの時は他の女性と比較されたからイラっとしたけど、髪が短いことでまた興味をもってもらえるならとてもうれしい。
ザクザクザクザクザクザク。
サラサラで放っておくとただの真っ直ぐヘアなってしまう髪を、三上さんは私が好きなラフな雰囲気に仕上げてくれた。ショートボブなんて久しぶりだ。セットの仕方を教わりながら、右を見たり、左を見たり、あごを引いてみたり。なんとなくいつもより色っぽく見える感じがした。
(これ絶対、怜は好きだ)
(早く見せたい)
ワクワクが止まらなくてニヤケてしまった。
子持ちになって髪を短くするとおばさんと言われがちだけど、それは髪型によるのだとわかった。同じ短めでも、自分に合うものをきちんと選んでもらえば素敵になれる。縛ってごまかせないし、朝も必ず整えないといけないのが面倒だけど、ガラスや鏡に映った自分を見るたびにうれしい気分になる。シエナは気にしないみたいで、私を見ても普段と変わらなかった。
服を買いたい。産休後、一枚も服を買っていない。お腹が入らなくなってからは、パンツの上に怜が着てないシャツやニットを羽織って済ませてしまった。たまにはいいよね。だって、今まで着ていた服はしっくりこない感じがする。自分とシエナと怜にも何か買おう。
首がスースーすると背筋が伸びた。気持ちが自然と前向きになった。最近、ふてくされている感じがあったし、もっと明るくポジティブでいないと余計に嫌われてしまう。
それに、シエナと食料品と日用品以外の買い物をすることはそんなにない。幸い私はシエナを抱っこ紐で胸に抱いてたくさん歩ける。服や小物を合わせて「似合うね~」と声をかけながら見て回るのは楽しかった。赤ちゃん連れだと店員さんが優しくて、「赤ちゃんもお母さんも素敵ですね」なんて言ってくれるのだ。お世辞で十分。素晴らしい気分にさせてもらえた。
(怜も言ってくれればいいのにな)
昔は一緒にいると数分ごとに「かわいい」「きれい」「大好き」と言ってきて、その度に「あまり言うと価値が無くなる」「無くならない」を言い合っていた。そんな彼をうっとおしいと思う時もあったのに、今はさみしい。
きっと私は贅沢すぎるんだ。
■■■■■
夜中に目が覚めると怜がいて、私の髪を撫でていた。その度に髪が頬をくすぐる。
(そうだ。私、髪を切ったんだ)
「ごめん。起こした」
「ううん」
「また行かないとなんだ。着替えとシャワーに来た」
そうなんだ……。おっと、ネガティブはいけない。起き上がって、ガウンを手に取った。
「何か食べる?お弁当を作ろうか?」
「いいよ。翠は寝てて。音がうるさいから、あっちの風呂使う」
「私は平気だよ」
(あー、失敗したかも。髪のことを何も言ってくれない。好みの感じじゃなかったかな。私から「どう」って聞いてみようか?)
そんなことを考えていたら、怜が側に来て、また髪を撫でてくれた。
「髪切ったんだね。似合うよ」
先に言われてしまった……。
「ありがとう」
うれしい。でもちょっと照れくさい。今気づいたけど、寝癖でボサボサのはず。これだからロングの方が楽だ。今さら遅いけど、さりげなく必死に髪を整えた。
でも、気づいてしまった。
怜から花の香りがする。私のでも彼のでもない香水の匂い。一瞬ドキッとしたけれど、心配することはないと思う。だって前にも一度、女性の香水が移っているのを指摘した時はすごく反省していたから。でも、彼は女性との距離が近い人。私の心臓の音はどんどんと速くなっていた。
聞きたい。でも「いい香りがするよ」なんて言ったら嫌味に聞こえるだろう。しかも、こんな夜中にわざわざ言うことじゃない。
(ポジティブ。ポジティブ)
背筋を伸ばして息を吸って、笑顔を作った。
いらないと言われても、「おにぎり作るね」と言えたらいのに。私は自分勝手なくせに、こういう時に自分本位で押し付けがましく行動することができない。
(うざがられるくらい尽くす、女子っぽい振る舞いができたらいいのに)
結局、支度が済んだ怜を作った笑顔で見送ることしかできなかった。
■■■■■
「今日ね、雑誌社の人に声かけられたの。親子スナップで」
「シエナはよくモデルにスカウトされるんだよ」
「猫より犬に興味があるみたい」
教えたいことはたくさんあった。本当はもう少し話す時間もほしい。あまりに忙しそうだから、緊急事態でもない限りのメッセージは送らないないようにしていた。本当はかわいいシエナの一挙手一投足を撮影して、「かわいいね」と親バカなやりとりをしてみたかった。
髪だって、男性が気づいてくれるだけでありがたがるべきなんだろうけど、前はもっと執着してくれた。
「誰に見せた」
「昔の彼氏の好み?」
「てか、すっごいサラサラ」
一度手に入れたものへの興味は薄れるって、こんなにあっさりやってくることなの?
「はぁ」
大きなため息をついてしまった。
近所の芝生の公園に来て、広げたブランケットの上にシエナと転がっている。緑が多くて広々していて、小さい子供が遊びに来たり、犬の散歩をする人も多い。シエナはまだたいしたことができないけれど、子供たちの声や走り回る様子が気になるみたいだった。
「シエナも早く一緒に遊びたいね」
脚を大きく動かしてあげたら、声をあげて喜んだ。
(私たちは大丈夫。怜に時間に余裕ができれば、きっともっといろいろ話せるようになる)
キャッキャッと大きな声ではしゃぐシエナの声に重なって、赤ちゃんの声がした。こういうのよくある。シエナも気になるのか、一生懸命そっちの方向を見ようとしてる。
「あれ?」
「あっ」
「先日はどうもありがとうございました」
立ち上がってお礼を言う。スーパーで荷物運びを手伝ってくれた男性だった。今日はカジュアルな服で、やっぱり胸にあの赤ちゃんを抱いている。その子もシエナをジッと見下ろし、手をバタバタさせていた。
「髪型が違うから気づきませんでした。今日はお子さんも一緒ですね」
「はい。シエナと言います」
髪型のことわかったんだ。気づく男は気づく。
「うちの子は“まゆみこ”と言います」
「まゆみこちゃん、ですか?素敵ですね。どんな字を書くのですか?」
以前覗き見したフサフサヘアの女の子だ。座ってもらって、抱っこ紐からまゆみこちゃんを解放し、シエナの隣に転がせてもらった。子供がお互いを観察し合う様子は興味深い。
「お蚕の繭に未完成の未に子供の子です」
「うわー。かわいいですね」
雅なお名前、きっとどこかのお嬢様だろう。
「母親の家が旧家で、義父母の意向もあっての名前でして、ちょっと大げさですよね。普段はまゆと読んでます」
やっぱりお嬢様。赤ちゃんふたりは寝返りをしたり、顔を寄せ合ったり、お互いを触ったり。シエナは同じくらいの子をぶったり引っ張ったりはしないけど、念のため気にしておかない。赤ちゃん界は何が起こるかわからない。
「あまり赤ちゃん同士で遊ばせたことがないのですが、何もできなくても遊べるものですね」
「赤ちゃんの言葉で何か話してるんでしょうね」
今日は有給休暇だろうか。イクメンがもてはやされるようになったけど、平日にお父さんと遊べる子供はまだまだ少ない。
「そういえば、お住まいはお近くですか?お見かけしたことありませんよね」
「ええ、近所です。恥ずかしいのですが、最近離婚しまして……。家事と育児を始めたばかりなんです」
おっと。本人は笑っているけど、デリケートなことを聞いてしまった。しかもまだ乳児。お父さんだけで育てられるものなのだろうか?
「それは大変ですね」
「幸い社内に託児所があるのでなんとか。生活や病気のことを勉強しています」
見た感じ、健やかに育っているように見える。肌のケアや衣服の清潔さも問題ない。きっと託児所で適切なアドバイスを受けられているのだろう。
「遊び場や赤ちゃん連れで行けるカフェがたくさんありますよ。お父さんもたくさん来てます」
「それはいいですね~」
なんとなくだけど、男の人の方がママ友ができにくそう。友達や顔見知りがたくさんできるように、私が知っている場所や参考にしているサイトを教えてあげた。ひとりで育児に行き詰まったら大変だ。シエナも仲良くできているし、と思い切って「また遊びませんか?」と誘ってLINEを交換した。お父さんのお名前は佐田さん。なんと会計士さんだ。
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