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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第4節 過去より来たりし者
しおりを挟む天上の月は濃紺の帳に沈み、空の裂け目に浮かぶ《セレスティア第七環》の灯火が、星のきらめきを押し返していた。
交易総督レティシア・クロードは、執務室の深奥にあって、静謐の中に一人佇んでいた。
黒檀の机に並べられた通達文書の束は、今宵に限って不気味なほどに沈黙を守り、副官たちの気配も遠ざかって久しい。規定外の通行は、今この空域で彼女の命を受けた者以外には許されていない。廊下を巡回する夜勤の省兵が、規律の音を残すかのように革靴の底を響かせていく。
薄紅の紅茶は、既に温度を失い、冷たい琥珀となってカップの底に沈んでいた。
それを口に運びながら、彼女――かつて“彼”だった人間は、自らの掌を見下ろす。
――この掌で、制度を築いた。
その感触を「確信」と呼べるようになるまでに、何年を要したか。
あの日、前世の名も知れぬ商社マンだった彼は、東京の冬の朝に凍った階段を踏み外し、重力の裏切りに額を叩きつけられ、すべてを失った。
企業戦士。それは一種の比喩ではあったが、今にして思えば――あれは予兆だったのかもしれない。
再び目を開けたとき、彼は貧寒の空に包まれた世界、《セレスタイン帝国》の辺境浮遊島で、生まれたばかりの赤子として目覚めていた。
しかも、帝国本流から見れば“外様”に過ぎぬ、かつて帝国に抗い、敗れて恭順を誓わされた辺境氏族の、没落貴族家系。
名はクロード家。だがそれは、もはや帝都では地図の片隅に書かれるかどうかすら怪しい、空域の僻地の記憶に過ぎなかった。
生まれ落ちた彼女の身体は虚弱で、言葉より先に咳と吐血を覚えた。だがその目には、すでに「システム」という名の思考が根付いていた。
これは異世界転生などという安っぽい幻想ではない。
これは、国家の命令に従えぬ者が“不要物”として切り捨てられる、恐ろしく純粋な支配機構の世界だった。
彼女は、徹底的に耐えた。
飢えを、病を、沈黙を。
神の名を唱えて死を待つ村人の隣で、彼女は数を数え、徴税記録の記号を筆写し、行政帳簿の背後にある“意図”を理解した。
才能――ではなく、執念。
それが、帝国官僚制度の門戸をこじ開けた。
成績が優秀だった。異様なほどに。
帝国の予備官僚養成課程に“特例抜擢”されたのは、彼女が“下層に知恵を持つ者”という、制度にとっての異物だったからである。
「庶民でも、才覚があれば登用する」――そう謳われる制度は、逆に言えば“才覚を証明し続けなければ抹消される”制度でもある。
“外様の娘”が中央に出るということは、既得権益層からの査問と敵意の渦に、身を晒すことと同義だった。
交易省への配属後、彼女はあらゆる試練に晒された。
出自を侮る者。
階級にしがみつく者。
あろうことか、帝都の高位貴族から“将来性を買われた”として婚約を申し込まれた時でさえ、それは「制度的に排除する口実」を得るための踏み絵に過ぎなかった。
結婚か、昇進か。
彼女は“制度の中で昇る”という選択を取った。
結果、婚約は破棄された。
帝都のサロンでは、「女官僚の分際で」と嘲笑が囁かれた。
だがその嘲笑こそが、レティシア・クロードという名の悪役令嬢を、制度という名の王座へと導いたのである。
戦場に出ず、剣も魔法も使わず、彼女は支配した。
書式で、命令で、掌握した。
――戦わずして得る征服。
――支配に正義は不要、必要なのは通達と印影。
そこに“感情”などという不確かな変数を混ぜ込む余地などなかった。
空を滑る浮遊船の灯が、窓外に長く尾を引き、執務室の天井をかすめて過ぎる。
その灯りの震えが、冷めきった紅茶の液面をわずかに揺らした。
レティシアは、その揺れを見つめながら、かすかに唇を動かす。
「愛だの、自由だのと叫ぶ連中より……黙って従う者の方が、よほど“制度的に健全”だ」
それは、かつて上司にペコペコと頭を下げ、無駄な会議と理不尽な人事に従い、
そして今や、国家すら自分の命令で動かせる地位に辿り着いた――
一人の悪役令嬢、もとい“元・平凡な男”の、静かなる勝利宣言であった。
――そして、その勝利には、まだ“対価”が残されていた。
扉の向こう、控室で副官たちが何かを待っている。
帝都から届いた、次の“命令”と“使者”が、この夜を終わらせる。
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