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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第6節 帝国という演劇
しおりを挟む帝国とは、神を必要としない体系であった。
なぜなら、帝国には“命令”があるからである。
命令とは、法でも信仰でもなく、ましてや情理でもない。
それは、権威を帯びた構造体であり、帝国において唯一無二の正義を意味する形式的絶対である。
レティシア・クロードが、その認識を明確に持ったのは、東方交易省に所属した初年度――帝都での初任官研修においてだった。
配属先は、帝国中央行政庁舎第八階層、交易省第三審査局。
膨大な貨物搬送許可証と貿易船航行認可を処理する部署で、若手官僚が最初に叩き込まれる“命令文書の地獄”である。
無数の命令が日々生産され、修正され、破棄される。
それらを全て読み解き、承認基準を抽出し、制度上の“文意”と“通達意志”を推察する作業は、宗教的とも言える苦行に等しかった。
しかし――そこに、彼女は異様な快楽を見出した。
(言葉ひとつで、人と船が動き、命が割り振られる。……これは信仰ではない。信仰に似せて設計された、演劇だ)
帝国は制度によって支配されている。
命令書には署名があり、通達には封蝋がある。だが、それらが絶対たる所以は“神の言葉”であるからではない。
――あくまで“誰かがそう信じるように設計されているから”である。
命令という書式には、署名権限と承認階層が記され、発出者の意図は複数の段階を経て“制度的に抽出された意志”となる。
その時点で、それはもはや発出者個人の言葉ではなく、“帝国という舞台の上での台詞”と化す。
演者は、誰か。
台本は、どこにある。
レティシアにとって、その問いは常に無意味だった。
重要なのは、“舞台”の側が制度を演出し続けるという構造自体であり、その演出に乗って行動する限り、人は“制度内の存在”として正当化される。
それゆえに、彼女は自らの行動すら“演技”と割り切ることができた。
「命令を演じること。それこそが、帝国官僚としての正義だ」
黒服の制服を纏い、朱印を押す。
書類を読み、通達を整える。
それが命令の再生産であり、制度の信仰を補強する演劇行為であるならば、自分は徹底して“舞台装置”として振る舞うだけだ。
それでも、舞台に立つ者には矛盾が付きまとう。
命令は絶対でありながら、命令の“解釈”は柔軟性を求められる。
制度は硬直的でありながら、制度の“運用”は柔らかさを強要される。
その二重性こそが、帝国という演劇国家の本質であり、同時に“狂気”の温床であった。
(帝国は合理の仮面を被った狂気だ)
制度は命令を前提とし、命令は承認を要求し、承認は通達に変換される。
そのすべてが演技でありながら、“演技を演技として自覚しない”ことが忠誠とされる。
――なんという洗練された欺瞞か。
レティシアは総督執務室の書棚に並ぶ命令原本の写本群を一瞥する。
すべてが公式記録に基づき、通達番号と承認日時が刻まれている。
だが、その多くは“制度内でしか意味を持たない”命令である。
浮遊都市の気流制御に関する小規模な通達から、空域交易艦の警備配置に至るまで、ありとあらゆる“命令”が存在する。
それは、もはや法や正義の域を超え、“秩序の儀式”に等しい。
(命令に署名することは、演劇に参加する意思表明だ。だがその舞台は、既に信仰と同等の重みに達している)
帝国には、神は不要だ。
なぜなら、人間が神の代替物を作り出したからである――それが“命令”であり、“制度”なのだ。
カティアが静かに入室し、報告書の束を卓上に置いた。
「帝都から新たな命令文が到着しました。空域西部における交易監査と、特別査察の派遣準備について」
「形式は?」
「第A様式第二版。高官査閲済み。……内容には、解釈の余地が残されています」
レティシアは、かすかに笑う。
「結構。“曖昧な命令”ほど、制度にとって価値がある。演出の余白が広い分、我々はより正確に“演じる”ことができるからな」
「では、演出案の草案を?」
「通達化の準備を整え、必要に応じて脚本を書き換える。――制度とは劇場だ。幕が開く以上、我々は演者でなければならない」
舞台の上では、誰もが命令に従う。
だがその命令こそが、帝国という演劇の真の主役である。
そして、総督レティシア・クロードは、その舞台における最高位の“台詞監修者”であり、“命令という神”を演出する祭司なのだった。
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