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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第8節 傀儡の沈黙
しおりを挟む書庫室第七号、総督府地下三階――
厚い防音壁と鍵付き鋼扉の向こう、記録管理課の片隅に“奇妙な静寂”があった。
それは、書類が舞う音も、靴音も、指が紙をめくる擦過音さえも呑み込む、制度の内臓のような空間である。
レティシア・クロードは、補佐官カティアの案内のもと、そこに設けられた特別閲覧席に腰掛けていた。
閲覧中の記録は、いずれも帝都より“指定保存”された一次資料――形式上は「貿易関連通信履歴」とされている。
だが、その内容は、明らかに“制度外との結節点”を示唆していた。
「……この文面。通貨変換比率、貨物番号、港湾コード、そして最後の“受信確認印”の位置まで。すべて帝国公式文書形式と一致しています」
カティアは一通の文書を差し出しながら、感情を介さぬ調子で述べた。
「送信元は“帝都行政監察局付・東方交易省連絡補佐官代理”――形式的には末端の窓口担当ですが……受信先が、どうにも不可解です」
レティシアは頷きながら視線を落とす。
記された受信先コードは、制度上存在しない。正確には、“かつて存在したが現在は削除済み”とされる部署――
《旧帝都財政局・自由通商観察室(廃止)》。
だが文書の日付は、部署消滅後半年以上を経ている。明らかに矛盾していた。
「……制度内において、制度外の残骸と通信を続けていた。まるで、死者と語り合うような行為だな」
「はい。そして問題は、“その死者が自由商会の影に連なっている”可能性が高いことです」
そう――文書群の中には、帝国制式暗号に混じって、幾つかの“特定の語句”が頻出していた。
《カトラス型商艦》《第五辺境浮遊路線》《バルト常時通商協定再編》――
いずれも、現在の自由商会が使用するルートと形式に一致する語彙群。
(つまり、これは)
(帝都官僚の一部が、“制度を抜け出した後の制度”に情報を流し続けていた証拠、というわけか)
帝国において、“命令”は絶対である。だが、“命令の届かぬ場所”が存在する時、制度は沈黙を選ぶ。
沈黙とは、許可なき許可である。追認なき了解である。
それは“何も知らなかった”という制度上の自衛手段であり、同時に“見なかったことにする”という統治の方便でもある。
「この連絡履歴、既に上層へは報告済み?」
「いえ。制度上、まだ“発見”されていない文書として、分類されています」
カティアは冷静に言った。
それは“見た者が報告しなければ制度上は存在しない”という、官僚制度特有の歪んだ論理の言い換えだった。
「それで?」
レティシアは文書を机に置いた。
「この“存在しない通信”は、制度にとって“利用価値がある沈黙”か、それとも“処分すべき異端”か」
「両方です。現在の制度にとっては、旧制度との接続を“保持する価値”がある一方、それを“外部に指摘された瞬間”には破棄されねばならない。……典型的な、“沈黙による管理”の構図です」
それは、官僚制が最も得意とする“思考停止と予防的自浄”の合成物だった。
(これが、帝国だ)
制度を支配するということは、制度に支配される構造を受け入れることに他ならない。
それゆえ、制度外の存在――たとえば自由商会――と接点を持つ者たちは、制度の“影”に棲む。
彼らは、明文化された罪によってではなく、命令外の行動によって“存在しない者”とされる。
それが、帝国における最大の制裁だった。
レティシアは、ふと視線をカティアに向けた。
「カティア。この記録……処分せず、保留とする」
「了解しました。理由はどうしますか?」
「“制度的価値が不明瞭なため、再評価中”。……要するに、“後で誰かの首を締める時に使える”」
「制度的に正当です」
カティアは即答する。
その声音には、もはや同意も疑念もなかった。ただ淡々と、“制度の器官”として肯定する機能だけがあった。
――これが、“傀儡”の沈黙である。
誰かの命令に従うのではない。“命令の構造そのもの”に従う者たち。
彼らは命令に疑問を抱かず、制度に問いを向けない。むしろ、問いが発されないことこそが、彼らにとっての“忠誠”であった。
レティシアは立ち上がる。
「この件、我々の範囲で封印し、必要に応じて“制度に委ねた”と記録せよ。……誰の判断でもなく、“制度の裁定”という名目で」
「承知しました。……また、補足があります」
「何だ?」
カティアは最後に一枚、別の記録を取り出した。
「通信ログの中に、一件だけ、“通達命令形式ではない帝都発の命令書”が存在します」
その文書には、署名も印章もない。ただ、《帝都中枢》の表記と、《特別命令:処理依頼》という文言。
「――差出人不明の命令。受信先は“浮遊都市第七環 総督府・宛名記載なし”」
それは、制度が自らの命令形式を偽装した、限りなく“私的命令”に近いものだった。
レティシアはそれを見つめる。
命令という制度の最奥にある、“無署名の意思”。
それは制度の顔をした“意志なき命令”であり、傀儡にしか届かない沈黙の声であった。
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