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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第10節 命令と紅茶
しおりを挟む午後四時、政庁舎の最上階にて、空は曇天に沈み、空域の光はまるで制度そのもののように冷たい色をしていた。
その空の下、帝国東方交易省《第七環》総督レティシア・クロードは、書記官からの伝令を受け取り、一枚の書状に目を通していた。
封蝋には帝都の正規印が捺され、書面は“通達文”の体裁を取りつつも、その内容は“命令”という言葉にすら畏敬を感じさせるものだった。
いや、正確には――これは“命令”ですらない。
制度の上位構造により自動的に発せられた“絶対的通達”。
すなわち、それは「存在した時点で成立している従属義務」であり、実行か拒絶かという選択肢など初めから存在しない。
(また来たか、帝都の“意思なき意思”が)
紅茶の湯気が静かに立ち上る中、レティシアは書状の最後の段落にだけ注意深く目を通す。
命令に署名はない。誰が書いたかではなく、“制度そのものが語った”とされる形式。
宛名もまた、レティシアではなく《第七環総督宛》と記されていた。
それはつまり、肉体を持つ一個人ではなく、“職位に命令する”という構造の明示である。
(レティシア・クロードではなく、“総督”が命令を受けたのだ)
指先の紅茶が冷めていく。
かすかにスモーキーな香りを放つダージリンの深い味は、制度に組み込まれた日常の象徴でもあった。
「……補佐官」
呼ばれてすぐに現れたのは、無表情のまま姿勢を正す補佐官《カティア》である。
「新たな命令です。内容は?」
「帝都より通達。“空域安全性の早期確保を最優先課題とし、非公式な障害因子の即時除去を推奨する”とのこと」
「……命令ではなく、推奨?」
カティアはわずかに首を傾げた。
「形式上は“推奨”ですが、文末には“措置を講じない場合、制度上の責任が問われる”とも」
「つまり、“選択可能な命令”か。“選ばない選択肢は存在しない”といういつもの形式」
レティシアはため息とともに一口、紅茶を含む。口腔に広がる温度と味覚は、制度の冷酷さに比して、あまりに人間的だった。
「我々の裁量は?」
「明記されておりません。“貴職の判断に委ねる”との一文が追記されております」
「……責任を下へ投げることで、制度はいつでも上位性を保つ。人が死のうが、船が墜ちようが、それは“判断”の問題に過ぎない」
「その通りです、総督」
レティシアは一度、紅茶のカップをソーサーに戻し、指を組んだまま思考の海に沈む。
制度の構造は、常にこうである。
命令は下るが、決して“命令”と明言されることはない。
通達という形式で発せられ、受け取る側に“判断の余地”を与えたように見せかけて、責任と結果の全てを押し付けてくる。
その一方で、従わなければ“制度に逆らった”という記録が残る。
つまり――実質的には、命令よりも強い、絶対的な“従属”なのである。
「執行部門に命令を。形式上は“交易安全維持措置の一環”として、既知の空域異常因子を排除せよ」
「了解しました。文言は、“通達に基づく現場判断”として処理します」
「それで構わない。私たちは命令を実行しているのではない。“命令を選んだように見せかけている”だけだ」
そう語るその声は、まるで“制度そのもの”が語っているかのようだった。
紅茶は、すでに冷めていた。
しかしレティシアにとっては、それこそが“行政装置としての自己”を確かめる証でもあった。
熱がないのは、制度も同じである。
命令も、通達も、そこには感情がない。
だからこそ――この世界では、「熱をもって動く者」が最も危険なのだ。
冷えた紅茶の中、レティシア・クロードは静かに、次なる“形式的従属”へと歩を進めていた。
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