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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第11節 忠誠という幻想
しおりを挟む政庁舎の執務室――遮音された静謐な空間に、レティシア・クロードはただ一人、沈黙を“記憶”と共に飲み込んでいた。
机上には何もない。いや、正確には“何も置いていない”のではない。
今、この空間を支配しているのは、書類ではなく“記憶”――制度が記録しない、しかし制度を生み出した“前提”の歪みであった。
(忠誠などという幻想を、私は信じていたのだろうか)
それは過去の話だ。
まだ総督ではなかった頃。帝都官僚として昇進街道の階段を上り詰めていた時期。
制度に順応し、“実務能力”という名の剣を振るい続けていた頃。
帝都の高位貴族より、正式に“婚約”の通知が届いた。
それは栄誉と呼ばれた。制度内の階梯を一段跳ね上がる正当な通行証とされ、周囲は礼儀として喜色を浮かべ、式典の準備まで組まれていた。
だが、そのすべては一通の通達で終わる。
――「帝都高位貴族家、婚姻意志撤回。理由:制度的要件の変化に伴う最適化判断」。
理由は不在であり、拒絶は制度だった。
そこには、誰の意志も存在しなかった。
ただ、“女官僚は政治的リスクである”という通達なき常識が横たわっていただけである。
(感情ではない。これは合理的判断だ。……そう、受け入れるしかなかった)
レティシアはその後、いかなる婚姻の打診も制度的に“回避”してきた。
理由は単純で、効率と制度的純度の確保。
だが、彼女がそれ以上に理解していたのは、「女である」という属性が、制度の中で“利用可能な錯覚”として機能するということだった。
(私は“女であること”を、制度の中で最大限に活用した)
つまり――“忠誠”を引き出すための装置として、女であることを選択したのだ。
たとえば、対面する男たちは、無意識に“庇護対象”として接する傾向を示す。
たとえば、上位官僚は、“女性という非脅威的存在”に対して敵意を向けづらい。
そして、何より制度は、“女の忠誠”を過剰に評価する傾向がある。
(つまり、私は“忠誠を与える者”として分類されていた)
実に滑稽で、実に都合が良い。
彼女は女であるがゆえに、忠誠を誓う側だと錯覚されていた。
だが実際には、その逆である。
レティシア・クロードは、制度に対して忠誠を誓ってなどいない。
彼女が制度に従うのは、それが“支配装置として有用だから”であり、理念や情念からではない。
(私は、制度を支配するために、あえて“従属しているように見せている”)
この肉体も、声も、官服すらも、すべてはそのための道具である。
かつて婚約者とされた貴族の名を、いま彼女は記憶していない。
記録には残っている。だが、それは“レティシア個人”には必要のない情報だ。
あの通達が示したもの、それは“忠誠など制度には不要”という帝都の答えだった。
ゆえに彼女も、同じ答えを制度に返すだけだ。
(私は忠誠を誓わない。ただ、制度のなかで従っていると見せて、制度を操る)
それこそが、“忠誠という幻想”の真の意味である。
「――補佐官」
ドアが開き、カティアが無音で歩を進める。
彼女の眼差しは沈黙に満ち、言葉ではなく姿勢で全てを語っていた。
この空間では、“沈黙こそが忠誠”と錯覚される。
だが、レティシアにはわかっている。
カティアは忠誠など誓っていない。
彼女は命令に従っているだけであり、それは“制度によって彼女をそう設計した”からにすぎない。
「次の案件は?」
「空域第十一標準線にて、空賊接触の報告。……“予定通り”と判断しております」
「いいでしょう。通達文の用意を」
「既に書式は整えてあります。“命令の形式に則った裁量通達”として処理可能です」
そう――それでいい。
忠誠は不要。必要なのは、通達。
命令でもなく、交渉でもなく、“制度の声”として発せられる無名の支配。
その支配の形式こそが、レティシアにとっての“信念”であった。
制度の檻の中で、女であることを錯覚として纏い、忠誠を拒絶しながらも従う者。
それが、レティシア・クロードという存在だった。
彼女にとって、忠誠とは感情でも信義でもない。
それは制度が生み出す“幻想”であり――
そしてその幻想こそが、最も美しい支配構造であると、彼女は誰よりも冷静に理解していた。
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