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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第12節 契約なき支配
しおりを挟む帝国の夜は静かであった。
だが、その静寂は自然の産物ではない。それは制度によって維持された“人工の秩序”であり、命令によって統制された“沈黙の演出”にほかならなかった。
《セレスティア第七環》――空域に浮かぶこの浮遊都市の最上層、政庁舎の執務室にて、レティシア・クロードはまたひとつの通達に署名を施していた。
その動作は滑らかで、迷いがなく、冷たい。
まるで“命令という形式そのもの”が、彼女の手を通じて物質化しているかのようである。
(契約など、必要ない)
それは断言であった。
誰かに説得されるまでもなく、レティシアの中にはすでに答えがあった。
――契約とは、互いの意思が合致したときに生まれる形式である。
だが、帝国は違う。帝国において支配とは、合意によって成り立つものではない。
制度は一方的に通達を下し、それを“命令”として実行する。
そこに交渉も、同意も、感情も介在しない。
(帝国において、“命令”こそが正統だ)
レティシアが手にするのは、通達文書であり、それは命令ではないように見えて、実質的には命令以上の拘束力を持つ。
それを受け取った者は、内容を読み、解釈し、適応し、従う。
そこに署名は不要である。印鑑も、合意も、存在しない。
だが、それでも命令は命令として完結している。
(制度は契約を必要としない。制度そのものが支配だからだ)
かつて、空賊との間に非公式な取引を提案してきた自由商会の一派があった。
だが、彼らが求めていたのは「取引」という形式であり、そこには“交渉による秩序”という幻想があった。
レティシアはそれを断じて拒否した。
彼女が許容するのは、“命令による支配”だけだ。
「契約とは、相手を同等と見なす所作にすぎない」
彼女が口にしたその言葉は、補佐官《カティア》をも一瞬沈黙させた。
「支配するとは、命令すること。交渉ではなく、一方的な通達であるべきなの」
「……同意いたします。交渉は制度外です」
「その通り。制度の中に“対話”など不要。あるのは命令と、その執行のみ」
カティアは頷き、所定の処理文書を提出した。
書式はすでに整っており、通達番号も通信用の暗号系列も完璧だった。
そして何より、その文書のどこにも「契約」「承認」「協定」の語は存在しない。
――制度が通達するのは、常に“絶対の従属”である。
レティシア・クロードという官僚の本質は、そこにあった。
女であることも、TSであることも、制度内においては意味を持たない。
意味を与えるのは、命令であり、通達であり、制度の声である。
彼女はその声を代弁する者であり、同時に“制度の器官”として存在している。
(私は命令そのものだ。……私は交渉の余地を持たぬ支配の形式だ)
紅茶が香る。
だが、それは儀礼ではなく、制度の潤滑剤としての役割しか持たない。
女であるがゆえの茶会ではない。
TSであるがゆえの象徴的演出でもない。
それは、命令の味を中和するための形式的演出。すなわち、“命令という毒”に耐えるための沈黙の儀式である。
窓の外、浮遊都市の空が赤く染まってゆく。
それは夕焼けではない。制度という光に、空域全体が“従属してゆく”色彩だった。
「通達完了。次の命令は?」
「……中央からの“言外の命令”が届いております」
「形式は?」
「未記述。“空白の通達”とされております」
なるほど。ならば“解釈”の余地がある。
制度は言葉すら超えて支配を強化する。
もはや“命令が存在しないという命令”ですら、彼女にとっては明確な実行指針である。
レティシア・クロード――帝国東方交易省第七環総督。
彼女が信じるのは、契約による社会秩序ではない。
命令による支配。従属なき合意の拒否。
制度という檻のなかで、“契約すら存在しない支配構造”を美とする官僚である。
だから彼女は笑わない。
だから彼女は恋をしない。
だから彼女は、支配する。
契約を交わさずに、命令だけを与える支配者として。
それが帝国という名の演劇において、彼女に与えられた――そして彼女自身が選び取った、唯一の役割であった。
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