ブラック企業から異世界転生したら、魔王軍の人材流出がもっとヤバかった 〜ハズレスキル「平時調整」で成り上がる〜

猫屋敷/犬太郎

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第1話

第10節 孤影、玉座にて

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 玉座は、沈黙の中心にあった。

 黒曜石を削り出した巨大な椅子。その背は高く、天蓋のように影を落とす。
 だが、その椅子に座る者の姿を、まともに見た者はほとんどいない。

 ――魔王。
 この軍の象徴。名目上の最高権力者。

 「……提案が、来たか」

 低く、擦れた声が空間を満たす。

 重厚な鎧をまとった近衛が一人、膝をついていた。彼の前に広げられたのは、たった一枚の書類。

 【提案:自発的離脱制度の創設について】
 【起案者:人事部主任 カナス・アスカルト】

 玉座の影の中、白い指がわずかに動く。
 その所作ひとつに、近衛は身を強張らせる。

 「魔王軍の構造に、“穴”を開ける提案。……だが、その“穴”こそが、呼吸ではないか」

 影の中の声は、呟くようでいて、命令のようでもあった。

 「……なぜ、ここまで踏み込む?」

 近衛は応えられない。
 ただ、玉座の奥に見える“目”だけが、わずかに弧を描いた気がした。

 「――面白い」

 その声には、微かな笑いが含まれていた。

 「では、“異端”に歩かせてみるか。どこまで行けるか……それを、見届けよう」

 そのとき、魔王の手元にあった“もう一枚”の書類がめくられる。
 それは、VII課からの極秘報告だった。

 《対象人物:カナス・アスカルト》
 《既に複数部署にて構造的変動を引き起こしつつあり》
 《放置は潜在的リスク、だが抑圧すれば組織崩壊の引き金となる可能性あり》

 “毒か、薬か”。

 魔王が選んだのは、沈黙だった。

 ――一方その頃、カナスは人事部の薄暗い執務室にて、ペンを走らせていた。

 表情は変わらず、冷静で機械的。
 だがその手元に置かれた茶には、すっかり氷が溶け、温度を失っていた。

 「……今日は、五件目」

 離脱希望者の“匿名相談票”が、机の隅に積み上げられていく。

 誰にも見られないように、VII課経由で回収され、カナスの元へ集まるその票は、彼女が提案を出してから、日を追うごとに増えつつあった。

 「“辞めたい”と言えるだけで、どれだけの重圧が軽くなるか……」

 もちろん、実際の制度はまだ始動していない。
 だが、“制度が議論された”というだけで、希望は生まれる。

 ――そして、それは“管理者”の理論でもある。

 彼女は思う。
 たとえ施行されなくとも、“言葉にできる空気”をつくるだけで、組織の圧力は変わる。

 それが《平時調整》の根本的な力だった。
 混乱の中に秩序を持ち込み、秩序の中に逃げ場を設ける。

 「……だからこそ、次が重要ね」

 カナスは、新たな帳票に目を落とす。

 【提案書草案:魔王軍統一記録制度(案)】
 【目的:情報の一元化・再配置の明確化・調整権限の透明化】

 戦時には不要だとされた“記録”の概念。
 だが、それがなければ「何が問題なのか」さえ特定できない。

 「データのない現場で、調整は不可能。……それは、私の前職が教えてくれたわ」

 ブラック企業――
 社内報連相はメールで止まり、進捗は口頭でのみ伝えられ、責任はすべて“現場の空気”で処理される世界。

 カナスは、その地獄を知っている。
 だからこそ、戦場でも**“記録”こそが最大の武器になる**ことを知っている。

 「誰が、どこで、何をして、なぜ失敗したのか。全部記録する。……それが、組織というもの」

 だがそのとき、執務室の扉がノックされた。

 「入って」

 姿を見せたのは、VII課の黒衣の男だった。

 「魔王陛下が、書類を受理されました」

 カナスは静かに目を細めた。

 「“通った”とは言わないのね」

 「はい。ただ、“止められなかった”とも言えます」

 ――静かに、玉座が動き出している。

 それは、彼女の意図を超えた何かの兆しだった。


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