注意、本を踏まないこと

小夜夏ロニ子

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注意、本を踏まないこと

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「本で階段をつくると、見たことのないところに上《のぼ》っていける」
 いつも無口な店主が不意に発した言葉に、私は首を傾げた。
 高校の帰り道、階段堂書店に通い始めてから一年が経った頃だった。
 階段堂書店は海へと続く坂道の途中にあり、学校の帰り道に寄れるので私は常連だった。古書店かと思えば気まぐれに新刊も入荷しているようで、そのラインナップは図書館や大きな本屋とも異なる独特のものだ。
 店員はひとりだけ、無口な店主。繁盛しているとは思えないこの店で、いつもカウンターに座って本や新聞を読んでいる。
 邪魔されない秘密の居場所を見つけた気分で、私はこの店に足繁く通っていた。
「どういう意味ですか?」
 店主の言葉を聞き返しても、店主は黙ったまま新聞に視線を落としていた。
 本で階段をつくって、上る。
 どういう意味だろう?
 そのままの意味だとしたら、本を積み木のように積み重ねて、その上を歩くということだろうか。
 不意に店主が立ち上がった。
 棚から何冊か本を選ぶと、私の前の床に置いた。重ねて置き、階段のような形にする。
「低い方から、高い方へ上ってごらんなさい」
「え? あの」
 私は壁に視線をやった。貼り紙がしてある。
“本を踏まないこと”。
「靴は脱いだ方がいい。せめてね」
「えっと、これ、売り物ですよね。踏んで大丈夫なんですか?」
「この本は売れないんだよ。売ってはいけないんだ」
 売ってはいけない。
 ふざけているとは思えない店主の真面目な顔と、足元の“階段”を交互に見る。
「大丈夫だから」
 店主の様子に気圧されて、何より好奇心が勝って——私は靴を脱ぎ、本の上に一歩を踏み出した。
 何も起こらない。
「……あの?」
 一段高くなって、世界が違って見えるとか、そういうトンチみたいなやつだろうか。
 真面目なフリをしてからかっているのだろうか?
「最後の段まで上るんだ。決して飛び降りてはいけないよ。そしてゆっくり戻るんだ」
 とりあえず言われた通り、もう一歩を踏み出す。
 一段。二段。
 三段目に足がかかったとき、ぶわりと大きな風が吹いた。
「え!? あ、え!?」
 地の果てまで海だった。
 さっきまで書店の中だったのに、周りが海原の景色に変わっていたのだ。
 強い潮風が吹き、制服のスカートがめくれ上がりそうになるのを反射的に手で押さえる。
 足元を見ると、海面に本の階段だけが浮いていて、足場になっている。
 後ろを振り返っても、書店は見えない。視界の全てが海だった。
「あ、あの! 店主さん!?」
「大丈夫。見えてるよ」
 後ろから店主の声がする。
「ゆっくり足を戻して、後ろに降りるんだ」
 言われた通り、震えそうになる足を後ろに下げ、本の階段を降りる。
 最上段から足を離した瞬間、周りの景色は階段堂の店内に戻った。
 そのまま床まで降りると、私は驚きを受け止めきれずしゃがみ込んだ。
「……はぁ……はぁ……何ですか、これ」
「“見たことのないところ”だよ。“階段”を上った先にある世界だ」

 店主が私をその“体験”に誘ったのは、ほんの気まぐれだったらしい。
 それ以来、私は店主に許され、いろんな組み合わせの本で“階段”をつくり、上った。
 最上段に足を乗せた瞬間、どこか知らない世界に出る。
 ある時は海原の中心に、あるときは草原の丘の上に、あるときは砂漠のオアシスに生えた木の上に出た。
「“階段”というのは、世界と世界をつなぐ存在だ。つながっている場所を決めているのは“階段”だ。この店もそうだよ」
 階段堂書店の変わったところは、店の中にも外にもたくさん階段があるところだった。
 それは店主のこだわりやただの建築デザインだと思っていたが、彼が言うには違うらしい。
 “階段があるからこの場所に店がある”のだという。
 階段を登ると、次の階に行ける。その単純な事実が、本を積み重ねて階段にすることで、不思議な力を持つ。
 そういう力を持った特別な本を、この書店に集めているのだそうだ。
「決して階段から飛び降りてはいけないよ」
 店主は念入りに私に釘を刺した。
「飛び降りると、階段に戻ってこれなくなる。元の階に戻る時は、必ず階段をそのまま降りるんだ」
 私は言いつけを守り、階段から決して足を踏み出さないよう、世界を注意深く眺めるだけに留めた。

 その日はまた、初めて見た海の世界を眺めていた。
 ここは地球上のどこかなのだろうか。それとも、異なるどこかの世界なのだろうか。
 大海原をぼんやりと眺めていたとき、視界の端に黒いものが見えた。
 視線を横に向けた瞬間、巨大な何かが海面から飛び出してきた。
「きゃあ!」
 私は店主の言いつけを守ることができなかった。
 飛び出してきた何かを避けるため、階段から飛び降りてしまったのだ。
 途端に海中に沈む体。咄嗟に息を止めることができたのが唯一の救いだが、飛び出してきた影は再びこちらに向かってくる。
 サメだ。
 必死に腕をばたつかせ、泳いで逃げようとする。しかし頭のどこかでわかっていた。
 この大海原の先に陸地を見たことは、ない。
 逃げきれない。後ろを振り向きたくない。
 海中を進んでいるのか、実は進んでいないのか、それすらわからなくなるほど景色は変わらなかった。
 その時、腕が背後からぐいっと掴み上げられた。
「お前! 何してる!」
 見上げると、歳の近そうな青年が私の手を引いていた。
「あ、ありがとう!」
 水上を引きずられ、ものすごい速さでサメから離れていく。
 水面を走っているようにしか見えない彼の足元を見ると、本が見えた。忍者の水蜘蛛に似てるなと思った。両足の下に一冊ずつ、本の上に立って、水上スケートのように進んでいたのだ。
 彼は私を引きずりながらスイスイと海面を滑っていき、サメから逃げ切ってやがて海岸に降り立った。
 どうやら私が気づいていないだけで、陸地はあったらしい。つまりよほど遠くまで、すごい速さで来たのだろう。
「お前、なんで本を持っていない?」
 安堵から浜辺に仰向けになって肩で息をする私に、彼は尋ねた。
「どういうこと? 私はただ、階段を上って……」
「やっぱり階段か。お前、外の人間だな」
 彼は足元の本を拾い上げながら言った。
「本は踏んだらいけないと外の人間は思っている。それはマナーとか行儀が悪いとか、物を大切にしようとか、そういう理由じゃない。本能が知っているんだ。本を踏んだら“飛ぶ”って」
 私が、外の人間。
 ということはやはり、この世界は私が居たのとは違う世界なのだ。
「お前、階段を踏んだだろう。俺の靴もそうだ。本を踏むと、“飛べる”。外の人間で階段を知っているやつがたまに飛んでくるけど、そういうやつらは靴にするための本を持っていない。だからサメに食われて死ぬ」
「ありがとう、助けてくれて……でも、私、階段に戻らなくちゃ。元の世界に帰らないと」
「無理だ。階段は飛び降りた時点で消える。お前が上ってきた階段はもう消えてる」
「そんな……」
 じゃあどうしたらいいの、と泣きそうになりながら呟く。
「本の階段で登ってきたなら、本の階段を降りないといけない。行き先は本の中身で変わる。お前が来たところに戻るには、そこの本が必要だ」
 彼は後ろで一本に結っていた長い黒髪を解き、結び直しながら言った。
 店主の言葉を思い出す。
 “この本は売れないんだよ。売ってはいけないんだ”。
 階段堂に集められた本。不思議な力を持つ階段堂の本でこの世界に来たということは、帰るには階段堂の本を見つけないといけない。
 この世界で。
「……この世界に、階段堂の本なんて、あるのかな」
 私は空を見上げながら言った。
 うっすらと感じていたのは、絶望だった。
「とりあえず飯だ。食わせてやる。来い」

 浜辺をしばらく行くと、海の家があった。
 かき氷、焼きそば、その他もろもろの看板が立っている。
 しかし周りには誰もいない。浜辺を歩く間も誰とも会わなかった。
「俺の家だ」
 彼に促され、私は誰もいない店内の椅子に腰掛けた。
「食え」
 運ばれてきたのは焼きそばとかき氷だった。
 とりあえず食べ始める。
「……おいしい」
 食べ進めるうちに、笑ってしまった。
 海に旅行して浮かれているときに食べるようなメニューを海の家で食べているという状況が、あまりにも今の状況に不似合いで。
「元気出たか。よかったな」
 焼きそばを食べる私を向かいの席で頬杖をついて眺めていた彼が、初めて笑った。
「俺はヤマアラシ。お前は?」
「叶《かなえ》理子《りこ》。高校三年生」
「高校ってなんだ」
「学校だよ。この世界にはないの?」
「ないな。お前、いくつだ」
「十八」
「俺も。歳の近い女の子なんて初めて見たよ」
 焼きそばを食べ終わり、かき氷を食べながら彼と話をした。
 いちごシロップだった。
「ヤマアラシはどこかの世界から来たの?」
「ちがう。この世界で生まれ育った。でも気づいたら一人だった。あまり他の人は見ない」
「てことは、一応他の人もいるんだ」
「老人ばっかりな。漁をしてるとたまに船とすれ違う。そこに乗ってるのは大抵老人だ。何をしてるのかはよくわからない」
「そうなんだ」
「理子は外の世界では何をして暮らしてたんだ。変わった格好だが」
「制服のこと? 高校生だから、学校に通って、放課後は階段堂に通ってたよ」
「お前、階段堂から来たのか」
「うん。もしかして知ってるの?」
「ちょっと待ってろ」
 彼は席を外すと、しばらくして奥の棚から一冊の本を持ってきた。
「この本!」
 それは階段堂に平積みされていた古いミステリだった。
「どこでこの本を?」
「行商人だ。昔外の世界から行商人が来て、本を売って歩いていた。その時に一冊だけ興味があって買った」
 机にその本を置いて適当なページを開き、自分がスケート靴にしていた本も横に置いて開く。
「だけど読めなかった。文字が違うんだ」
「本当だ」
 階段堂の本は日本語で書かれている。しかし彼のスケート靴の本は、見たことのない文字で書かれていた。
「行商人は階段堂と名乗っていた。そいつの名前かと思っていたが、本屋の名前だったのか」
「階段堂って名乗るってことは……もしかして、店主さん?」
 “階段を飛び降りると、元の世界に戻れなくなる”。
 店主の言葉を思い出す。
 店主はなぜ飛び降りると戻れなくなることを知っていたのか。
 過去に飛び降りたことがあるから、だとしたら?
「その階段堂って人、多分私の言ってた本屋さんの店主さんだと思う。本の階段でこっちに来れるってことを教えてくれたのも、その人だった」
「なるほどな。じゃあそいつが外の世界の本を持ち込んで、そんで外の世界の本を使って帰ったのか」
「多分そうだと思う。もしかしたら私みたいに次の人が帰れるように、向こうの世界の本を残して置いてくれたのかも」
「どうだかな。でもこれで帰る算段はついた」
 彼は階段堂の本を私に差し出した。
「こいつはお前にやる。何段の階段で来た?」
「ありがとう。三段目でいつも他の世界に変わるんだけど、そういうこと?」
「じゃあ多分最低三冊だな。本当は六冊くらいあると安定するけど、斜めに重ねれば一応階段にはなる。一応二冊でも階段の条件は満たすから、試してみよう。そんなにこの世界に階段堂の本があるかわからんしな」
「うん。わかった。でもどこにあるんだろう?」
「俺が協力してやる。同じ年頃の友達ができたのは初めてだ。一緒に探すよ」
「ありがとう!」
「とりあえず今日は寝ろ。もう日が暮れる」
 その後も彼と少しとりとめのない話をして、私は長椅子の上に布団を敷いてもらってそこで寝た。
 学校が明日休みでよかった、なんてことを考えていた自分に、少し笑った。

 翌朝、私たちは浜辺に立っていた。
「いつもこの辺りを船でうろうろしてる爺さんがいる。物好きなジジイだから本も持ってるかもしれない。そいつを探そう」
「わかった。でも海に出るの? 私どうしたらいい?」
「スケート靴の本は乗るのに慣れがいる。普通に船で行く」
 彼は店の裏から小さなボートを出してくると、引きずりながら歩いてきた。
「……え? それって」
「この辺の海で拾った。外の世界の船なんだろ? 変な形だからな」
「変っていうか、バナナボートだね……」
 それはどう見てもバナナボートだった。
「こいつの後ろに乗って俺がスケート靴の本を使う。そしたら船ごと前に進むから、理子も乗れ」
 なんかすぐ振り落とされそうで嫌なんだけど、とはとても言い出せず、私は大人しくバナナの真ん中辺りに乗った。
 船が動き出すと、海面は驚くほど静かだった。ほとんど波がない。
「ねえ、どうしてこんなに波がないの?」
「さあ。でも昔からそうだ。動いてるもの自体が少ない」
「じゃああのサメは?」
「あれはロボットだ」
「ロボット?」
「この世界には人間はあまりいない。その代わり、なんでか知らないけどロボットが結構いる。海にいるのはロボットのサメくらいだな」
「そうなんだ」
 カモメも少し飛んでいたが、ヤマアラシいわくあれもロボットらしい。
 幸い、私たちはロボットのサメに遭遇することもなく、海の真ん中辺りまで進むことができた。
「いた。ジジイだ」
 遠くの方に小舟が見える。そこに人影も見えるから、多分ヤマアラシの言っていた老人だろう。
 船で近づくと、どうやら老人は釣りをしているようだった。
「よう、ジジイ。今日も釣りか」
「おお、ヤマアラシか。なんじゃ、今日はえらくべっぴんさんを連れておるな」
 おじいさんはフードを取ると、しわくちゃの顔をほころばせた。
「理子って言います。あの、おじいさん、こういう本を持っていませんか?」
 私は階段堂の本を差し出すと、彼は興味深そうに手に取った。
「おお、おお、この読めない文字! 持っておるよ、一冊だけな。大昔に行商人から買ったんじゃ」
 彼は船の後ろにある小箱から本を取り出した。日本語で書かれたタイトル。間違いない、階段堂の本だ。
「あ! それです!」
「貴重なものと交換したんじゃが、とんと読めなくてな。それでもなんとなく大事にとっておいたんじゃよ」
「あの、おじいさん。私、この本のあった外の世界から来たんです。帰るためには外の世界の本で階段をつくらないといけなくて、それでこの本が必要なんです。どうか譲ってもらえませんか?」
「ほっほっほ」
 老人はひとしきり笑うと、本を私に差し出した。
「もちろんいいとも」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「ずいぶん素直に差し出すんだな。物好きなあんたなら無理難題を吹っかけてくるかと思ったが」
 ヤマアラシの言葉に、老人はゆっくりと首を振った。
「そんなことはせんよ。何せたった今、わしの願いは叶ったんじゃから」
「願い?」
 老人は私の手を取ると、優しく握った。
「この世界には生きた者はほとんどおらん。わしもしばらくヤマアラシぐらいにしか会っておらんからな。こんな年までひとりで生きておるとな、死ぬまでに一度でいい、人の役に立ってから死にたいと思うようになったんじゃよ」
 生き物の気配のないこの世界で、彼が感じていた孤独。それは私にはきっと、想像もつかないものだろう。
「……ありがとうございます。本当に」
「いいんじゃ。わしはうれしいよ。きっとこのためにわしはこの本を買ったんじゃ」
 老人と別れると、私たちは一旦海の家に帰った。
「理子、階段は一応二段からでもつくれる。やってみるか?」
「うん」
 私は足元の床に本を置くと、そっと重ねる。少しぐらぐらするが、足を踏み出して乗る。
 二段目に踏み出した時、周りの景色が変わった。
「……え?」
 階段堂じゃ、ない。
 おかしい。
 それはなぜか見知った景色だった。
 見慣れた玄関、外にある水道のホースの色、庭にいる、おばあちゃん。
「……おばあちゃん? なんで」
 そこは私の家だった。
 だがおかしい。
 そこはもう、建て替えで取り壊したはずの実家だった。
 庭で干し柿をつくっているおばあちゃんは、もう、何年も前に亡くなっているはずなのだ。
 大好きだったおばあちゃん。突然亡くなってしまったおばあちゃん。
「——理子! 降りるな!」
 私はハッとして足を止めた。
 片足を、二段目から先の宙に踏み出しかけていた。
 後ろからヤマアラシの声がする。
「階段の段数が足りないんだ! “過去”の世界までしか辿り着けてない! その時代に階段堂はあるのか!? なかったら戻れなくなるぞ!」
 そうだ、階段堂だ。
 この世界が過去の世界なら、階段堂がそもそもできていない場合、完全に戻れなくなる。
「でも……でも! おばあちゃんがいるの!」
 おばあちゃん、本が好きになったきっかけのおばあちゃん。
 小さい頃は本が嫌いだった。でも死ぬ何日か前に、おばあちゃんが「さみしくなったら本を読むんだよ」と言ってくれたから。
 初めはさみしくて、たくさん本を読んだ。でもそのうちに、本自体が好きになった。
 本を読めるようになって、知らない世界をたくさん知った。さみしいのも、少しずつ乗り越えられた。
 そのお礼を、まだ言えてないのに。
 宙に浮いた右足が固まっている。
 この世界に降りたい気持ちと、元の世界に帰りたい気持ち。
 どっちも本物の、私の気持ちだ。
 気づけば私は叫んでいた。
「おばあちゃん! おばあちゃんのおかげで、私本読めるようになったよ! 本好きになった! ねえおばあちゃん!」
 おばあちゃんはこちらを振り向くことはなかった。
 きっと見えていないのだろう。
「ありがとう!」
 私は振り返ると、階段を降りた。

「見ててヒヤヒヤしたぜ、理子」
「ごめん、ヤマアラシ」
「いい。二冊で試そうって言ったのは俺だ。でもやっぱり、最低でももう一冊はいるな」
 ヤマアラシはかき氷にシロップをかけながら言った。
「でもこの世界ってほとんど人がいないんでしょ? あてはあるの?」
「“工場”だ」
 ヤマアラシは窓を指差した。
「この海の向こう岸に、本の工場がある。そこではいつ誰がつくったかもわかんねえロボットたちが、ある日から本をつくり始めた。スケート靴の本もそこでできたんだ。多分そこには“見本”がある」
「それって……!」
「ああ。多分階段堂の本だ」
 彼はかき氷の最後の一口をすすると、器を置いた。
「素直に本をくれって言って通じる相手じゃない。ロボットだからな。本がつくれなくなるのは困るはずだ」
「ええ……どうしよう。話が通じないってこと?」
「ああ。だから“盗む”」
 ヤマアラシと目が合うと、彼はニヤリと笑った。
「作戦会議だ、理子」

「工場の裏には排水用のでかいパイプがある」
 ヤマアラシは地図の一点を指差しながら言った。
「下水道みたいなもんだな。紙をつくるのにたくさん水をつかうみたいだ」
「そこから船で入るの?」
「いや、船だと目立ちすぎる。理子にもスケート靴に乗ってもらう」
「わかった。頑張る」
「そこからは俺も入ったことがない。でも地図ならある」
 彼は本棚から一冊の本を取り出した。
「地図帳だ」
「地図帳? 世界地図とか乗ってるやつ?」
「そう。でもこの世界の地図帳は少し違う」
 彼は地図帳と呼んだ本を開いて机の上に置いた。
 そのページは白紙だった。
「地図帳っていうのは地図が載っている本のことじゃない。本来もっと不思議な力を持っている。いいか理子、地図を使うのは目的地に辿り着くためだ。どんな地図も初めからその力を持っている。だから地図帳は」
 彼は白紙のページの上に手をかざした。
「目的地に飛ばしてくれる」
 白紙のページの上に、工場内の地図が浮かび上がった。
「すごい! この赤い丸がついてるの、もしかして階段堂の本がある部屋?」
「ああ」
 彼は地図を眺めながら言った。
「どんな本でも、本来“飛ばす力”を持っている。本を読んで物語に没頭してる間、俺たちは別の世界に飛んでいるのと同じだからだ。別の世界に飛ばす力、それを応用したのが“階段”や“地図帳”だ」
 それはどこか納得のいく説明だった。
 私たちの世界の本も、不思議な力が弱まっているだけで、物語の世界に飛ばす力は確かにある。
「潜入は明日。なるべく役に立ちそうなもの準備しとくから、理子はしっかり食って寝て体力つけろ。多分たくさん走ることになる」
「うん」
 その日の残りの時間はスケート靴に乗る練習をして終わった。
 夜、椅子の上の布団から、私は奥で寝ているヤマアラシに声をかけた。
「ねえ、ヤマアラシ」
「なんだ」
「ありがとね、いろいろ」
「いい。寝ろ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」

 翌朝、焼きそばを食べ終わった私たちは、海に出ていた。
 猛練習のおかげで、スケート靴の本にはしっかり乗ることができている。
「そろそろ着くぞ! あれだ!」
 海を渡って向こう岸にたどり着くと、そこには巨大な工場が見えた。
 ヤマアラシと一緒に工場の横を迂回し、大きな排水パイプの方に近づく。
 間近で見ると、人が一人入るくらいわけはない大きさの直径があった。
「こっちだ」
 地図帳を片手に、ヤマアラシが一本のパイプを選んで入っていく。私もその後に続いた。
 しばらく水路を抜けた後、はしごを登って工場内の敷地に入る。
「……建物の中は警備のロボットがどのくらいいるかわからん。気をつけろ」
「……うん」
 ひそひそ声で最低限の会話をしながら、工場の建物の中を走っていく。
 長い廊下を走りながら、横のガラス張りの窓から製造ラインをちらりと見る。
 そこではたくさんのロボットが忙しなく動き回り、ベルトコンベアの上に並んでいる大量の本と共に作業していた。
「あった! こっちだ」
 地図帳の赤い印のついた部屋に辿りつくと、そこにはガラスケースの中に一冊の本が飾ってあった。
「……日本語! これ、階段堂の本だよ!」
「よし。割るぞ」
「え!? 大丈夫なの?」
「他にどうやって出すんだよ」
 ヤマアラシは背負っていた鉄パイプのようなものを振りかぶると、ガラスケースを叩き割った。
 その瞬間、けたたましいブザーが建物全体に鳴り響いた。
「逃げるぞ理子!」
「ひいぃ! 大丈夫かなぁ!」
 長い廊下を走っていると、後ろからぞろぞろとロボットたちが追いかけてきた。
「やっぱ警備いた!」
「この世界じゃ侵入者がそもそもいないから、何かあってから全員で対応ってことなんだろうな」
「落ち着いてる場合!? ね、下水道どっち!?」
「このペースだと下水道までに追いつかれる! 正面玄関から出る!」
「うん!」
 私たちは必死に駆け続け、正面玄関に辿り着いた。
 ドアを開けると、広大な庭園が広がっていた。
 そして私たちを待ち構えていたかのように取り囲む、大量のロボットたち。
「ヤマアラシ!」
「スケート靴!」
 私は反射的にスケート靴の本を足元に置いて乗ると、ヤマアラシは鞄から別の本を取り出して開いた。
 地面に置かれたそのページから間欠泉のように水の柱が上がり、私たちは空に打ち上げられた。
「うわぁ!」
「つかまれ!」
 差し出されたヤマアラシの手を掴み、バランスを取る。私たちを乗せた水の柱が虹のような軌道を描いて海へと着水する。
 ロボットは海の上までは追ってこなかった。
「本をつくるロボットが濡れるわけにはいかないからな。やっぱりやつらは水辺に近寄れない」
 そのまま彼の家にスケート靴で辿り着くと、私は海の家に駆け込んで机に突っ伏した。
「こ、怖かったー!」
「たまにはいいだろ、冒険も」
「うーん……助かったからいいけどさ」
 心臓の鼓動が落ち着いてくるにつれて、私の中で小さな気持ちがだんだんと大きくなるのを感じていた。
 さみしいんだ。
 だって、別れの時が近いから。
「理子、階段だ」
 ヤマアラシが言った。
「外の世界とこの世界の時間の流れが同じとは限らない。どのくらい経ってるのかわからないんだし、早めに帰った方がいい」
「うん。わかってる」
 私は立ち上がり、三冊の本を床にゆっくりと重ねた。
「……私、行くね」
「ああ、理子。元気でな」
「ヤマアラシも。本当にありがとう」
「いいよ。じゃあな」
 階段を上る。三段目に足をかけると、周りは見慣れた階段堂の景色だった。
 後ろを振り返り、「じゃあね!」とだけ声をかけて、私は階段を飛び降りた。

 棚の間から出ると、店主がいつものカウンターで新聞を読んでいた。
「戻って来れたんだね」
「店主さん!」
 彼は立ち上がると、私の方に近づいてきた。
 そのまま正面から抱き締められる。
「店主さん!?」
「よく戻ってきてくれたね。君に本の階段を教えたことを、後悔していた」
「いいんです。店主さんが階段堂の本を向こうに残しておいてくれたおかげで、戻って来れましたから」
「彼は元気だったかい」
「ヤマアラシを知ってるんですか?」
「ああ。僕が行ったのはもう二十年も前だがね。子供の頃の彼に会っている。向こうは時間の流れが違うから、まだ十代なんじゃないかな」
「十八歳って言ってました」
「そうか。君と同い年だね」
「たまに向こうに行ってるんですか?」
「いや。降りたのは一度きりだよ。階段の上から覗くことはあるけどね。階段に乗っているうちは向こうからこっちのことが見えない。だから彼を眺めることしかできなかった。それでも、たまにあの海は眺めたくなる」
 私は抱きしめられたまま、彼に尋ねた。
「どうして私に階段のことを教えたんですか?」
 店主は少し間を置いて答えた。
「……きまぐれさ」

 高校を卒業して大学生になった私は、今、階段堂の扉を開けて開店準備をしていた。
「んーいい天気! でも本が日焼けしちゃうな」
 大学生になってからここでバイトすることにしたのだ。
「あっ、そうだ! あれ書き直さないと」
 私は店内に戻ると、本棚の間にある壁の貼り紙をはがし、マジックで書き換えた。
“本を踏まないこと←絶対!”

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